第77話 安全な空白
隣の町は、歩いて半日だった。
道は、途中で細くなる。
畑。
石を積んだ塀。
水の音。
リーナは、三日に一度、通うようになった。
向こうにも、診療所がある。
こちらより、少し大きい。
回復魔法の使い手が、三人いる。
人が足りないと言われたのは、
人が減ったからではなかった。
増えた仕事に、
手が足りていないだけだった。
仕事とは、紙のことだった。
「様式、こっちも来たわよ」
帰ってきた日に、リーナはそう言った。
椅子に座って、水を飲んでいる。
「照会もか」
「まだ来てない」
「でも、備えてる」
リーナは、そう言った。
「備えてるって、何をだ」
「書き方よ」
リーナは、鞄から一枚出した。
向こうの町の、写しだ。
様式の見本に、
誰かが小さく書き込みをしている。
経過欄について
事実のみを記載すること。
推測、印象、心情は記載しないことが望ましい。
後日の照会に備え、
簡潔を心がけること。
アークは、それを読んだ。
二度、読んだ。
「誰が出した」
「誰も出してない」
「役所の紙じゃないわ」
リーナは、首を振った。
「向こうの診療所で、
誰かが書いて、貼ったの」
「親切のつもりよ」
「みんな、写してる」
アークは、その紙を置いた。
置いて、しばらく見ていた。
どこにも、間違いがない。
事実のみを書く。
簡潔を心がける。
どれも、正しい。
「心情、って」
リーナが言った。
「迷った、はどっちだと思う」
沈黙。
「事実だ」
アークは、そう答えた。
「迷ったのは、事実だ」
「そうよね」
リーナは、頷いた。
「でも、みんな心情に入れてる」
入れる、というより、
迷って、外している。
外しても、誰にも咎められない。
簡潔にしただけだからだ。
リーナは、水を飲み干した。
「向こうの子がね」
「言ってたわ」
「何をだ」
「書かなければ、間違えない」
アークは、顔を上げた。
「間違えない、じゃないだろう」
「そうよ」
リーナは、笑わなかった。
「間違えたことが、残らない」
二人とも、しばらく黙っていた。
外は、暗くなっていた。
「あんた、向こうで何て言った」
「言わないわよ」
リーナは、そう答えた。
「私、翻訳する人じゃないもの」
「もう、要らないでしょう」
アークは、否定しなかった。
否定するのは、簡単だった。
だが、それは嘘になる。
言葉は、もう現場にある。
現場にある言葉が、
いま、書かれなくなっているだけだ。
リーナは、立ち上がった。
「三日後、また行くわ」
「ああ」
「言っておくけど」
リーナは、荷を持った。
「私、向こうで書いてるから」
出て行った。
夜。
アークは、貼り紙の写しを、
棚に入れなかった。
机の上に、置いたままにした。
あれは、記録ではない。
誰の名前も入っていない。
誰も命じていない。
命じられていないものは、
撤回もされない。
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