第73話 書かなくなる手
薬師の帳面は、薄くなった。
もともと、厚くはない。
薬の名。
量。
渡した相手。
それだけを書く帳面だ。
監督官が、月末に見せてもらう。
この半年、ずっとそうしてきた。
「今月は」
「これだけだよ」
薬師は、帳面を出した。
男は、めくった。
めくって、一つ、気づいた。
「先月まで、
所見が付いていました」
「やめたよ」
「なぜです」
薬師は、椅子に座り直した。
年寄りの座り方だった。
「書くとね」
「あとで、困るだろう」
男は、黙った。
「困りません」
男は、そう言った。
言ったが、続かなかった。
「困った人を、私は今月見ました」
薬師は、そう返した。
王都の控えの話だ。
町の全員が、知っている。
「あれは、咎められていません」
「咎められちゃいないさ」
薬師は、頷いた。
「ただ、書いてあった」
「書いてあったから、読まれた」
「読まれたから、そう書かれた」
男は、反論しなかった。
できなかった。
この男は、嘘で塞ぐことをしない。
「書いてください」
男は、最後にそれだけ言った。
「お願いします」
「あんたは書くのかい」
「書きます」
「損だよ」
「はい」
男は、頷いた。
「損です」
薬師は、それ以上言わなかった。
だが、
帳面は、薄いままだった。
同じ日の午後。
畑の道で、男が呼び止められた。
鍬を担いでいる。
呼び止めたのは、集会所の使いだった。
「王都から、問い合わせが来ています」
「私に」
「あなたが書いた記録に」
男は、しばらく黙っていた。
「私は、もう治療師ではありません」
「はい」
「それでも、ですか」
「記録が、残っていますので」
男は、鍬を持ち直した。
持ち直して、こう言った。
「……あれ、
置いてこなければ、よかった」
使いには、意味が分からなかった。
男も、説明しなかった。
畑へ、戻っていった。
夜。
診療所に、監督官が来た。
用件は、無かった。
椅子に座って、しばらく黙っていた。
「今日、言われました」
「何をだ」
「損だ、と」
「損だな」
アークは、そう答えた。
慰めなかった。
男は、顔を上げた。
「あなたは、書いていますか」
「書いている」
「これからも」
アークは、答えなかった。
答えられなかった。
昨日、一拍遅れた手のことを、
この男に言う理由が無かった。
沈黙。
男は、立ち上がった。
「失礼しました」
出て行った。
残ったのは、
答えなかった、という事実だけだ。
それは、どこにも書かれない。
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