第65話 一行の事実
綴りは、棚の下段にあった。
王都から回ってくる通達を、
順に綴じただけのものだ。
誰が始めたのかは、分からない。
治療師が来る前から、そこにあった。
畳むついでに、
中を見た。
最初は、暇つぶしのつもりだった。
古い紙が、順に出てくる。
薬草の配給。
流行り病の注意。
人事の知らせ。
どれも、日付が入っている。
小さな数字だ。
紙の端に、判といっしょに押してある。
それを、初めて意識した。
手が、止まった。
判断医療・暫定基準
あの一枚だ。
毎日見ている。
書き写して、詰所の壁に貼ってある。
端の日付を、見た。
古い。
自分が治療師になる前の年だった。
——そんなに前か。
治療師は、綴りを膝に置き直した。
そこから先は、
一枚ずつ、日付を追った。
新しいほうへ。
配給の知らせ。
道の普請の話。
また、配給。
そして。
手が、止まった。
判断医療運用指針の改訂について
判断医療は、今後も医療の一形態として存続する。
ただし、単一の優先指針としての扱いは行わない。
各医療機関は、症例ごとに治療方針を決定し、
判断理由を記録すること。
治療師は、その紙を長く見ていた。
文字は、少ない。
短い通達だ。
日付は、暫定基準よりも、後だった。
二年、後だった。
もう一度、読んだ。
単一の優先指針としての扱いは行わない。
症例ごとに、治療方針を決定し。
——一刻とは、書いていない。
どこにも、書いていない。
治療師は、立ち上がった。
壁の写しを見た。
自分の字だ。
観察時間:一刻以内。
毎朝、これを見てきた。
時計を借りに行ったのも、
これがあったからだ。
膝の綴りを、もう一度見た。
通達は、届いていた。
届いて、綴じられていた。
誰も、開かなかっただけだ。
治療師は、床に座り込んだ。
息が、うまく吸えなかった。
あの日、腕の上がらなくなった男の顔が浮かんだ。
一刻を、自分は数えた。
時計を見ながら、数えた。
数えなくて、よかった。
——待てば、よかった。
声が、出た。
誰もいない詰所だった。
しばらく、そうしていた。
それから、
のろのろと立ち上がった。
診療所へ、行くこともできる。
行って、この紙を見せることもできる。
見せれば、
あの人は「そうか」と言うだろう。
言って、それだけだろう。
——分からない、と言われた日のことを思い出した。
先生でも、分からないんですか。
俺は、王都にいない。
あのとき、
不親切だと思った。
いま、思い直した。
あの人は、知らなかった。
知らないまま、
こちらに調べさせるでもなく、
黙っていた。
黙っていた理由は、
いまでも分からない。
だが。
この紙を見つけたのは、自分だ。
棚を空にしたのも、
綴りを開いたのも、
日付を追ったのも、
全部、自分がやった。
治療師は、紙を綴りから外した。
外して、丁寧に折った。
折って、懐に入れた。
外は、もう暗い。
監督官の宿は、集会所の隣だ。
まだ、灯りがついているはずだった。
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