第64話 迷わない場所
届け出は、監督官のところへ出された。
治療師を、辞めるという。
男は、驚いた顔をした。
「理由を、伺っても」
「向いていませんでした」
それだけだった。
男は、しばらく何か言おうとした。
言葉を探して、
結局、こう言った。
「引き止める権限が、私にはありません」
「はい」
「ですが」
男は、頭を下げた。
「あなたの記録は、
この町でいちばん丁寧でした」
治療師は、
それには答えなかった。
噂は、その日のうちに町を回った。
薬師が言い、
畑の連中が言い、
最後に、リーナが言いに来た。
「聞いた?」
「聞いた」
「行きなさいよ」
アークは、動かなかった。
「行かないの」
「行って、どうする」
「引き止めるのよ」
「引き止める理由が、俺にはない」
リーナは、
しばらくこちらを見ていた。
それから、静かに言った。
「あなた、
言い訳が上手くなったわね」
出て行った。
扉は、強く閉まった。
夕方、
治療師のほうから来た。
帳簿を、抱えていた。
最初に来た日と、同じ姿だった。
「置いていきます」
「俺にか」
「引き継ぐ人が、いませんので」
治療師は、机に置いた。
置いて、手を離した。
「すみません」
「何が」
「たぶん、いろいろです」
アークは、頷いた。
それ以上、聞かなかった。
「辞めて、どうする」
「畑に戻ります」
「そうか」
「向いていました、そっちのほうが」
治療師は、少し笑った。
笑ってから、
真顔に戻って、こう言った。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「聞く」
「先生は」
治療師は、こちらを見た。
「先生は、迷わないんですか」
アークは、答えた。
「迷う」
「毎日ですか」
「毎日だ」
「……それ、書いてます?」
「書いている」
「どこにですか」
「そこの帳簿だ」
治療師は、
積んである古い帳簿を見た。
「数えられませんね」
「数えられない」
「いいですね」
その言い方には、
棘がなかった。
本当に、いいと思ったのだろう。
治療師は、出て行った。
振り返らなかった。
夜。
置いていかれた帳簿が、
机の上にある。
アークは、開かなかった。
開く資格が、
自分にあるとは思えなかった。
同じ夜。
治療師は、詰所にいた。
畳むために、来ていた。
棚を空にする。
古い綴りが、まとめて出てきた。
自分が最初の年に書いたものだ。
様式のない、罫線だけの紙。
迷ったと書いてある。
怖かったと書いてある。
字が、下手だった。
しばらく、それを読んだ。
読みながら、
あることに気づいた。
紙の端に、
いつも同じ形の判が押してある。
王都から回ってきた綴りにも、
同じ判がある。
その横に、
小さな数字が並んでいた。
日付だ。
これまで、一度も見ていなかった。
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