第59話 揃った書式
四月目の集計は、きれいだった。
貼り出された紙を、
町の者が眺めていく。
当町 医療記録 集計(今月)
総症例数 六十三
記録様式による記載 六十三
うち「迷い」の記述を含むもの 零
零。
その字だけが、
他より小さく見えた。
「大したもんだ」
薬師が言った。
「みんな、腕が上がったな」
誰も、笑わなかった。
笑うところではないと、
全員が知っていたわけでもない。
ただ、
言うことがなかっただけだ。
監督官は、その紙の前で
しばらく立っていた。
「……これは」
男が、小さく言う。
その声を、聞いた者はいない。
男は、それきり何も言わずに戻っていった。
午後、
診療所にリーナが来た。
「零ですって」
「聞いた」
「六十三のうち、零よ」
リーナは、椅子に座らなかった。
「六十三回、
誰も迷わなかったのよ、この町は」
アークは、帳簿を閉じた。
「ありえるか」
「ないわよ」
リーナは、即答した。
「私、今月三回迷ったもの」
「書いたか」
「書いてないわ」
沈黙。
「……なんで」
アークが、聞いた。
珍しいことだった。
「なんでって」
リーナは、少し困った顔をした。
「書いたら、私が一だからよ」
「一」
「零のところに、一を立てるのよ」
「この町で、私だけが迷ったことになる」
リーナは、そこで言葉を切った。
「そんな度胸、私にはないわ」
アークは、何も言わなかった。
言えなかった。
この女は、
王都で自分の代わりに前に立った人間だ。
あのとき、
部屋中の視線を引き受けた。
その人間が、
紙一枚に一を書けない。
夜。
アークは、
自分の帳簿を開いた。
この帳簿には、様式が来ない。
罫線しかない。
だが、
罫線しかないから、書ける。
迷いを書いても、
どこにも数えられない。
ここだけが、
この町で唯一、零ではない場所だった。
筆を取る。
今日は、患者が二人だった。
どちらも、軽い。
迷ったことは、なかった。
書くことが、ない。
書かない。
それでいい。
——それでいいのか。
アークは、筆を置いた。
置いてから、
もう一度取った。
そして、一行だけ書いた。
判断理由:
この町の紙に、
零と書かれた日
署名は、ない。
いつもの一行とは、違った。
これは、判断の理由ではない。
ただの、記録だ。
書いてはいけない種類の一行かもしれない、
と思った。
思ったが、
消さなかった。
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