第56話 翻訳の要らない場所
依頼は、思いがけない形で来た。
監督官が、リーナのところへ来たのだ。
診療所ではなく、
彼女が回復魔法を使っている小屋のほうへ。
「王都で、説明会に出ておられたとか」
男は、そう言った。
「昔の話よ」
「記録が残っています」
リーナは、少し笑った。
「よく調べるのね」
「仕事ですので」
男は、頭を下げた。
「様式の説明を、
手伝っていただけませんか」
「私が」
「書き方で、皆さん止まるんです」
「私が説明すると、
どうしても堅くなってしまって」
リーナは、
しばらく男の顔を見ていた。
悪意は、どこにもなかった。
困っている顔だった。
「……いいわ」
説明の場は、その週のうちに開かれた。
医療に関わる者が、
四人集まる。
リーナは、前に立った。
王都でやったときと、
同じ立ち位置だ。
あのときは、
言葉にできない人の代わりに、
言葉を作った。
治す方法ではなく、壊さない順番です。
そう言ったとき、
部屋の空気が変わったのを覚えている。
今日は。
欄の意味を説明した。
書き方の例を挙げた。
迷ったときは迷ったと書けばいい、とも言った。
全部、
三十分で終わった。
「分かりやすかったです」
若い治療師が、そう言った。
薬師も、頷いた。
誰も、困っていなかった。
誰も、詰まらなかった。
説明は、要らなかったのだ。
言葉は、もうこの町にある。
夜、
リーナは診療所に来た。
珍しいことだった。
「終わったの」
「ああ」
アークは、帳簿を閉じた。
「今日、説明してきたわ」
「聞いた」
「みんな、分かってた」
リーナは、椅子に座った。
「私が言う前から、分かってたのよ」
アークは、何も言わない。
「あの子なんて」
リーナは、続けた。
「私の説明より、
自分の書き方のほうが上手いわ」
少しだけ、笑った。
笑ってから、黙った。
「……ねえ」
「なんだ」
「私、もう要らないのね」
言葉は、静かだった。
責めても、拗ねてもいない。
ただ、
確かめるように言った。
アークは、しばらく考えた。
考えて、こう答えた。
「翻訳が要る場所は」
「うん」
「まだ、言葉がない場所だ」
リーナは、天井を見た。
「じゃあ、ここは」
「言葉がある」
「私が置いてきたやつね」
「そうだ」
リーナは、息を吐いた。
長い息だった。
「それって」
「喜ぶところ?」
「たぶんな」
「……ほんと、分かりにくい」
二人とも、それきり黙った。
外で、風が鳴っている。
役目が終わるということは、
うまくいったということだ。
頭では、分かる。
分かることと、
寂しくないことは、
別だった。
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