第1話 コロリの夏、おイネ先生はまだ先生じゃなかった(後編)
お滝が持ってきた湯呑みを受け取る。
塩。
砂糖。
湯ざまし。
二十一世紀ならコンビニでも買えるものだ。
だが安政五年の長崎では違う。
これは薬になる。
世界中で何千万人も救うことになる薬だ。
もっとも、この時代の誰もまだ知らない。
「イネ……?」
お滝が不安そうに見上げてくる。
私は湯呑みを覗き込んだ。
少し舐める。
うん。
まあ許容範囲。
本当ならもっと正確に調整したい。
だが計量スプーンもない。
ここは経験でいくしかない。
「飲ませます」
「そんなもので……?」
「たぶん」
「たぶん!?」
「医療に絶対はありません」
思わずいつもの口癖が出た。
お滝がぽかんとする。
しまった。
この時代では変な言葉だったかもしれない。
だがもう遅い。
私はタダを抱き起こした。
驚くほど軽い。
脱水が進んでいる。
あと半日遅ければ危なかっただろう。
「タダ」
少女の瞼がわずかに動く。
「ひと口だけ」
唇に湯呑みを寄せる。
反応はない。
もう一度。
「ひと口だけ」
ほんの少し。
ほんの少しだけ喉が動いた。
飲んだ。
私は心の中で小さく拳を握る。
いける。
まだ間に合う。
「よし」
「よし、じゃないよ!」
お滝が叫んだ。
「こっちは心臓が止まりそうなんだから!」
私は思わず吹き出した。
目が覚めてから初めて笑った気がする。
「大丈夫です」
「根拠は」
「私が医者だからです」
言った瞬間。
お滝が固まった。
私も固まった。
しまった。
完全に令和のテンションで喋った。
部屋に妙な沈黙が落ちる。
外では蝉が鳴いている。
遠くで波の音がする。
お滝がゆっくり口を開いた。
「イネ」
「はい」
「熱で頭がおかしくなったのかい」
「それは否定できません」
「否定しなさい!」
私はまた吹き出した。
なんだろう。
この人と話していると調子が狂う。
だが。
悪くなかった。
少なくとも病院より温かい。
三十六時間勤務のあとに帰る部屋はいつも真っ暗だった。
誰もいなかった。
待っている人もいなかった。
だけど今は。
この人がいる。
娘を心配している。
私を心配している。
不思議な感覚だった。
そのとき。
「……あまい」
小さな声がした。
私たちは同時に振り向く。
タダだった。
「おかあさま」
「タダ!」
お滝が駆け寄る。
少女はもう一度湯呑みを見た。
「もっと」
私は胸の奥の力が抜けた。
助かる。
この子は助かる。
医者は神様じゃない。
だが。
患者が死ななかった日は少しだけ世界が好きになる。
私はその感覚を知っていた。
だから。
気付いたら泣いていた。
「あれ」
自分で驚く。
患者の前では泣くな。
研修医の頃から散々言われた。
泣いている暇があったら次を診ろ。
それが救命医だった。
なのに。
涙が止まらない。
「イネ……?」
お滝が不思議そうに見る。
私は慌てて顔を背けた。
「いや」
「なんでもありません」
「泣いておるじゃろ」
「医者だって泣きます」
「さっきから医者医者と」
私は答えなかった。
答えられなかった。
だって本当に医者なのだから。
しばらくして。
タダが眠りについた。
呼吸は落ち着いている。
脈も戻ってきた。
危機は越えた。
私は縁側に腰を下ろした。
海風が吹く。
塩の匂いがする。
長崎だ。
本当に長崎なのだ。
幕末の。
安政五年の。
「最悪だなあ」
思わず呟く。
医療機器ゼロ。
抗菌薬ゼロ。
輸液なし。
CTなし。
救急車なし。
あるのは塩と砂糖と根性だけ。
ブラック病院より環境が悪い。
すると。
背後から声がした。
「面白いことを申される」
男の声だった。
私は振り返る。
知らない男が立っていた。
高身長。
涼やかな目元。
羽織袴。
そして。
どこか人を値踏みするような視線。
第一印象は最悪だった。
「どなたです?」
「黒瀬伊織」
男は名乗った。
「宇和島藩洋学方にございます」
その名前に聞き覚えはない。
だが。
こいつ頭が良いな。
それだけは分かった。
同業者の匂いがする。
医者が医者を見抜くように。
私はそういう人種を知っている。
そして大抵。
面倒臭い。
黒瀬はタダのいる部屋を見た。
「病を退けたとか」
「退けてません」
私は即答した。
「少し追い返しただけです」
黒瀬の眉が動く。
私は続けた。
「病気はしつこいんですよ」
「人間よりずっと」
男は数秒黙った。
それから。
少しだけ笑った。
「なるほど」
私はその笑顔が気に入らなかった。
賢い人間特有の笑い方だ。
面白い研究対象を見つけた顔。
医者が珍しい症例を見た顔。
つまり。
私を見る目ではない。
患者を見る目だ。
「何か御用ですか」
「あります」
黒瀬は答えた。
「長崎養生所へ来ていただきたい」
風が止まった。
蝉の声だけが響く。
養生所。
その単語を聞いた瞬間。
頭の中の歴史の教科書が勝手にページをめくった。
ポンペ。
コレラ。
幕末医学。
そして。
楠本イネ。
歴史が動き出す場所だった。
「理由を聞いても?」
私が訊く。
黒瀬は静かに答えた。
「町で人が死んでおります」
そして。
ほんの少しだけ。
真面目な顔になった。
「大勢です」
私は黙った。
医者にとって。
その言葉は反則だった。
人が死んでいる。
大勢。
それだけで充分だった。
黒瀬は一礼する。
「明朝、迎えを寄越します」
そう言い残し。
夜の闇へ消えていった。
私は長いため息をついた。
嫌な予感がする。
ものすごくする。
経験上。
こういう予感は当たる。
そして大抵ろくでもない。
私は夜空を見上げた。
星が綺麗だった。
腹が立つほど綺麗だった。
「……まあ」
小さく笑う。
「しょうがないか」
目の前に患者がいる。
それだけは。
令和でも幕末でも変わらないのだから。




