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おイネ先生の診立て帖~幕末長崎、コロリより厄介な女医がおります~  作者: 桜見


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第1話「長崎の空は、思ったより青かった」(前編)

私が死んだのは、ありふれた火曜日の夜だった。


……たぶん。


正直なところ、そこはあまり覚えていない。


三十六時間ぶりに病院を出たこと。


雨が降っていたこと。


コンビニで肉まんを買おうと思っていたこと。


そのくらいだ。


走馬灯なんてものは見なかった。


人生の名場面集も流れなかった。


脳裏に浮かんだのは、翌朝のカンファレンス資料だった。


――誰か代わりに発表してくれるかな。


医者という生き物は、つくづく救いがたい。


死ぬ瞬間まで仕事の心配をする。


そして次に目を開けたとき。


私は見知らぬ天井を見ていた。


木だった。


病院ではない。


少なくとも日本の病院ではない。


さらに言えば二十一世紀の建物でもない。


梁が見える。


煤けている。


蛍光灯がない。


空調の音もない。


代わりに聞こえるのは、ぱちぱちと油の燃える音だった。


私は三秒ほど黙った。


それから結論を出した。


「過労で脳が壊れたかな」


冷静な分析だった。


もっとも、その仮説はすぐ否定された。


視界に映る自分の手が、知らない手だったからだ。


細い。


白い。


女の手だ。


いや、私も女なのだが、そういう意味ではない。


これは私の手ではない。


まず筆だこがある。


私はペンだこしか持っていない。


それに指の形が違う。


骨格が違う。


皮膚の質感が違う。


医者は毎日人体を見ている。


だから分かる。


これは私の身体ではない。


「面倒なことになったなあ」


とりあえず起き上がる。


頭がふらついた。


脱水。


軽度。


脈拍やや速い。


体温も高い。


風邪かもしれない。


脳が勝手に診察を始める。


職業病だった。


そのとき。


襖の向こうから女の声がした。


「イネ!」


私は固まった。


今、何と言った?


襖が勢いよく開く。


飛び込んできたのは五十前後の女性だった。


泣きそうな顔をしている。


いや、実際泣いていた。


「よかった……目を覚ましたかい……!」


女性は私の肩を掴んだ。


私は彼女を見た。


次に部屋を見た。


畳。


行灯。


木枕。


それから女性の髪型。


最後に、自分の名前を頭の中で反芻した。


イネ。


楠本イネ。


日本医学史。


シーボルト。


女性産科医。


幕末。


長崎。


全部が一本の線になった。


「あー……」


私は天井を見上げた。


「なるほど」


全然なるほどではなかった。


だが医者は現実主義者だ。


理解できない現象に出会ったら、まず受け入れる。


受け入れないと患者が死ぬからだ。


そして今。


どうやら患者がいる。


奥の部屋から聞こえる音に気付いた。


子供の苦しそうな呻き声。


荒い呼吸。


かすかな嘔吐臭。


私は反射的に立ち上がった。


「誰か熱を出していますね」


女性が目を丸くする。


「タダじゃよ!」


その名前で全てが繋がった。


楠本タダ。


イネの娘。


後の楠本高子。


六歳。


私は深いため息をついた。


転生した。


幕末だった。


楠本イネだった。


歴史上の人物だった。


混乱すべき要素はいくらでもある。


だが。


子供が死にかけている。


なら優先順位は決まっていた。


「あとで驚きます」


私は言った。


「今は診せてください」


医者なので。


その一言で充分だった。


奥の部屋に入った瞬間、嫌な予感がした。


六歳の少女が布団の上で丸くなっている。


頬が落ち窪んでいる。


唇が白い。


眼窩も沈んでいる。


呼吸は速い。


皮膚も乾燥している。


そして。


「下痢は?」


「朝から止まらん……!」


「吐いた?」


「何度も……!」


私は目を閉じた。


嫌な予感は確信になる。


コレラだ。


安政五年。


コロリ。


日本史の教科書でしか見たことのない大流行。


その最前線に私はいた。


いや。


違う。


最前線ではない。


最前線にいたのはこの子だ。


六歳の女の子だ。


そして今。


私だけが助け方を知っている。


私はタダの額に手を当てた。


熱い。


軽い意識障害も始まっている。


このままなら危ない。


だが。


まだ間に合う。


「塩はありますか」


「あるよ」


「砂糖は」


「ある」


「湯ざましをください」


女性が怪訝そうな顔をした。


当然だった。


私はまだ何も診察していない。


薬も見ていない。


なのに塩と砂糖を要求している。


だが説明している時間はない。


「急いでください」


少しだけ声を強めた。


「この子は助かります」


女性の目が揺れた。


その瞬間だった。


彼女は私を信じた。


医者が患者家族から託される瞬間というのは、案外こういうものだ。


理屈ではない。


願いだ。


願いが理屈を追い越す。


私はタダの細い手を握った。


冷たい。


軽い。


折れそうだった。


そのとき。


少女がうっすら目を開けた。


そして弱々しく呟く。


「……おかあ、さま」


私は息を止めた。


その一言が刺さった。


私は母親じゃない。


令和の救命医だ。


独身だ。


子供もいない。


なのに。


胸の奥が妙に痛んだ。


楠本イネの記憶なのか。


この身体の感情なのか。


それとも。


単に医者だからなのか。


分からない。


分からないけれど。


私はその小さな手を握り返した。


「大丈夫」


気付けばそう言っていた。


「死なせませんから」


その言葉は。


患者に向けたものだったのか。


それとも。


幕末へ放り込まれたばかりの自分自身に向けたものだったのか。


まだ私にも分からなかった。

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