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灯火の誓い〜孤独を選んだ少年と、名を奪われた少女の逃避行ファンタジー  作者: 水瀬 莉音
第七章 優しい檻

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第六十五話 王の影

 その日、外の風が少しだけぬるかった。

 この寒冷な大陸にも、ようやく初夏が近づいたのだと気づいたとき、窓の外で草が静かに揺れていた。


 ――扉が静かに叩かれた。

 入ってきたのは、あの人だった。ヴィカリウス。

 今日は顔の薄布をつけていない。


 黒衣に光沢のある白縁が走り、胸元には細い鎖の飾りが揺れている。

 儀礼ではなく正装。けれど威圧ではなく、落ち着いた品があった。

 光を受けた髪が銀のように淡く輝く。

 その瞳は、氷を閉じこめた湖のように澄んでいた。

 冷たいはずなのに、見つめられると、不思議と胸の奥が温かくなる。


 表情は凪いでいて、感情の色が読めない。

 けれど、その無の奥に、かすかな熱が潜んでいるのがわかった。

 美しい——けれど、触れた途端に壊れてしまいそうだった。


 ——この人が、王の双子の兄だなんて。

 どんな人なのだろう、王というのは。

 双子というのだから、同じ顔をしているはずだ。だとしたら、エリシアの思い描く支配者の顔とはかけ離れている。王という存在が彼を通して、現実のものに感じられてくる。


 すぐに、メルダが銀の盆に茶をのせて入ってきた。

 香りだけがふわりと広がり、すぐに下がっていく。

 湯気が消えるのを見ながら、エリシアは何も言えなかった。


「その節は、助かりました」

 ヴィカリウスは、用意された椅子に優雅に腰かけると、ゆったりと茶器を持ち上げた。

「……助けたのは、私じゃありません」

「いいえ。あなたがいたから、あの場を収めることができました。誰も罰せられず、会談も穏やかに終わりました。ヴェルナの使節団も聖女の癒しを目の当たりにして、感銘を受けたようです」


 エリシアは少し戸惑った。

「……それなら、よかったです」

 ヴィカリウスはやわらかく微笑んだ。

「情けない話ですが、あなたが動かなければ、私は何もできなかったでしょう。黒衛を制するには、建前が必要なんです」


「でも、あなたは王の代理だって聞きました……。それなら、兵士より何より、あなたの声が強いのではないですか?」

 ヴィカリウスは小さく眉を上げた。


「あなたは、王のお兄様なのでしょう? 双子なら……あなたが王になっていたかもしれないんじゃないですか」

 そこまで言って、エリシアは口をつぐんだ。

 ヴィカリウスは一瞬だけ目を瞬かせた。だが、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻った。


(あ……聞きすぎた、かな)

 王族を相手に、こんなことを尋ねていいのだろうか。

「す、すみません……」

 慌てて言葉を飲み込もうとしたが、もう遅い。


 けれど胸の奥では、それでも知りたいという思いが、小さく消えずに残っていた。

 ヴィカリウスはそんなエリシアを見て、ただ穏やかに笑った。

「ああ、あなたはご存じありませんでしたか。無理もない。王家の内々のことですから。……ラファス王家には、〈影制度〉というものがあります。聞いたことは?」


 聞きなれない言葉にエリシアは首を横に振った。

「〈聖女制度〉のように、役目を授かる制度です」


 ヴィカリウスは静かに茶器を置いた。


「ラファス王家は、不思議と双子が生まれやすい家系でしてね。大昔は、そのたびに王位を巡る争いが起きたといいます。だから今は、兄か弟かでは決めません。神託によって王が選ばれ、もう一人は、その王を支える影として生きます。それが〈影制度〉です。


 王は国そのものの象徴。国外へ軽々しく姿を現すことはありません。ゆえに外交は、影である私が担います。

 ……私が影であることは、生まれたときから決まっていました。

 話し方も、立ち振る舞いも。各国の情勢や外交、王の代理として必要なこと、そのすべてを学んできました」


 少し笑う。


「私はただ、その役割に過ぎないのですよ。あなたが思っているような権威も、威厳も、私には無縁のものです」

 少しの間を置き、静かに続けた。


「王の影――〈ヴィカリウス〉というのは、王の意志を正確に伝える存在。黒衛もまた、王直属の権限を持つ。私が彼らを止めるのは簡単じゃない。下手をすれば、次に消えるのは私です」


 低く息を吐き、言葉を継いだ。

「王の代理であるということは、王の意志を越えてはならない。どんな越権も許されません」


 彼は少し目を伏せ、淡く笑った。

「私の発言が少しでも王の権威を傘に着るものであれば、それは報告され、粛清の対象になる。言うなれば、危うい剣先に立っているようなものです。踏み外せば、一瞬で落ちます。歴代のヴィカリウスにも、越権を咎められ、処刑された者は少なくありません」


 エリシアは息を呑んだ。

 その表情は穏やかだったが、瞳の奥に疲れと迷いが揺れている。

「この城では、誰もが誰かの目に映っています。踏み違えれば、それだけで報告が上がる。……息の仕方ひとつにも気を遣う場所です」


 その声には、諦めとも覚悟ともつかない響きがあった。

「言動には注意が必要なのです。私は影であり、実体であってはいけない」

 短い沈黙が落ちた。


「……なんだか、大変そうですね」

 エリシアはぽつりと呟いた。

「そう見えますか」

 ヴィカリウスは少しだけ肩をすくめて口元を緩めた。


「こう見えて、私生活に制限はありません。役目さえ果たしていれば、城を離れることもできます」

「え?」


「私がほとんど王城にいないのも、そのためですよ。堅苦しい城とはなるべく関わりあいたくはありません。外交の日程さえなければ、あとは好きに各地を巡っています。そのせいか、変な噂まで立ってしまいましてね」


(あ……あの、各国に愛妾がいるっていう……)


 思わず頬が熱くなった。

 それを見てかヴィカリウスはくすっと笑った。


「案外、その噂も都合がいいものですので、そのままにしています」


 ヴィカリウスは口調をやわらげた。


「それはそうと、ひとつだけ気をつけてください。兵舎でのことを聞きました。癒したのでしょう? あの兵たちはあなたに感謝している。ですが、この城では、善意でも秩序を乱すと見なされれば、咎められることがあります」


「ただ、癒しただけで? 何かの役に立ちたいだけなんです」

「分かっています。あなたは、優しい。目の前で困っている人を、放っておけないのでしょう」


 ヴィカリウスは穏やかに微笑んだ。

「ですが、この城では、その優しさが別の意味を持つことがあります」

 エリシアは首を傾げた。

「兵たちは、あなたに感謝するでしょう」


「……はい」

「感謝はやがて、人を動かします。その想いがあなた個人へ向けば、それは王権とは別の力になってしまう」

 エリシアは言葉を失った。

 ヴィカリウスは静かに続けた。


「王は、あなたの力を王権のもとで示したいと考えておられます。あなたがご自身の意思でその力を振るえば、人々は王ではなく、あなた自身に奇跡を見いだすようになるでしょう」


 ヴィカリウスは一度言葉を切り、冷めかけた茶に視線を落とした。

「その力は、王の加護として示される限り、王権を支えるものです。ですが、その力があなた自身のものとして人々に受け止められれば、王はそれを危うく思うでしょう」


 そう言って、まっすぐにエリシアへ視線を戻した。


「私は……あなたの身が心配なのです」


「……わかりません」

 エリシアは小さく首を振った。

「私にとって、この力は……自然なものなんです」


 ——それこそ、息をするように。


 エリシアはそっと服の端を握りしめた。

 ヴィカリウスは少し笑みを深め、懐から小さな箱を取り出した。


「難しい話はやめましょう。今日は、あなたにお礼を言いに来たのですから……。ささやかですが、受け取ってください」

 開けると、それは小さなガラスの鈴だった。


「ヴェルナの使節団から贈られたものです。旅人の無事を祈る鈴——お守りのようなもの。あなたに似合うと思って、一つだけ譲り受けました」


 鈴を渡す仕草が、不思議なほど丁寧だった。

 掌に乗せると、ガラスの鈴が淡く光った。

 その音が、春の風のようにやわらかく響く。


 胸の奥で、あの港の光景がふっと蘇った。

 炎と光がぶつかり合い、世界が弾けたあの夜。

 腰に結んでいた鈴が、あの瞬間——

 炎の奔流の中でほどけ、光の中に消えた。


 音も、形も、すべて失われたと思っていた。

 それでも、風に溶けていった鈴の音だけは、耳の奥に残っていた。

 でも——この鈴は、リセルが買ってくれたあの鈴とは違う。


 代わりにはならない。

 それでも。

 掌の中で鳴る音は、やわらかくて、優しかった。


「……ありがとうございます」

 声が、少しだけ震えた。

「どうして、あなたはそんなふうに気にかけてくれるんですか?」


 彼は少し黙り、窓の方へ視線を向けた。

 光が頬をかすめ、表情を半分だけ照らす。


「似ていると思ったからです」


「私が、あなたに?」


「閉ざされた場所で、息を潜めている姿が」


 ヴィカリウスは静かに言った。前髪がはらりと揺れ、伏せた瞳に影が落ちる。

 ふと、鈴へ視線を落とした。


「その鈴ですが」

「え……?」

「ヴェルナでは旅人が腰紐に結ぶものなんです」


 エリシアは掌の鈴を見下ろした。

「……そうでしたね」


 春祭りの光景が、ふっとよぎる。

 腰元で揺れた鈴。

 困ったように笑うリセル。


「少し失礼します」

 ヴィカリウスは自然な仕草で鈴をエリシアの手から取った。気づけば、すぐ目の前に銀色の髪があった。ふわりと香油の香りが鼻先をかすめる。

 そして、ごく自然にエリシアの腰元に垂れる飾り紐へ結びつけた。指先が衣越しにかすめる。


「これで良し」

 小さく鈴が鳴った。

 すぐに手を離すと、ヴィカリウスは一歩下がり、その姿を眺める。


「やはり、よく似合います」

 本人は悪びれる様子もない。そのまま何事もなかったように微笑む。


「またお話しできると嬉しいです。……できれば、笑っているあなたと」


 まっすぐな視線に耐えられず、エリシアは思わず目を逸らした。

 どうしてこの人は、そういうことを、そんな当たり前みたいにするのだろう。


(それに……なんか、今、近くなかった? 誰にでもこうなんだろうか)

 侍女たちの噂が頭をよぎる。

(ううん。でも、あれはただの噂なんだ)


 ただ、こんなふうに穏やかに接してくる人を、エリシアはあまり知らなかった。

 ——それとも、これが王族のふるまい方なのだろうか。


 去り際、光の中で銀の髪が一度だけきらめいた。

 扉が閉まる。

 残されたのは、かすかな香油の香りと、胸の奥に残るざらりとした違和感。


 けれど同時に、胸の奥に小さな火がともったような気がした。

 風が揺らし、鈴の音がもう一度鳴る。


 ——この人も、私と同じ。


 光に映る影のように、閉ざされた世界で、静かに息をしている。

 噂通りなのに、でも、何か——

 不思議な印象を残す人だった。



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