第六十五話 王の影
その日、外の風が少しだけぬるかった。
この寒冷な大陸にも、ようやく初夏が近づいたのだと気づいたとき、窓の外で草が静かに揺れていた。
――扉が静かに叩かれた。
入ってきたのは、あの人だった。ヴィカリウス。
今日は顔の薄布をつけていない。
黒衣に光沢のある白縁が走り、胸元には細い鎖の飾りが揺れている。
儀礼ではなく正装。けれど威圧ではなく、落ち着いた品があった。
光を受けた髪が銀のように淡く輝く。
その瞳は、氷を閉じこめた湖のように澄んでいた。
冷たいはずなのに、見つめられると、不思議と胸の奥が温かくなる。
表情は凪いでいて、感情の色が読めない。
けれど、その無の奥に、かすかな熱が潜んでいるのがわかった。
美しい——けれど、触れた途端に壊れてしまいそうだった。
——この人が、王の双子の兄だなんて。
どんな人なのだろう、王というのは。
双子というのだから、同じ顔をしているはずだ。だとしたら、エリシアの思い描く支配者の顔とはかけ離れている。王という存在が彼を通して、現実のものに感じられてくる。
すぐに、メルダが銀の盆に茶をのせて入ってきた。
香りだけがふわりと広がり、すぐに下がっていく。
湯気が消えるのを見ながら、エリシアは何も言えなかった。
「その節は、助かりました」
ヴィカリウスは、用意された椅子に優雅に腰かけると、ゆったりと茶器を持ち上げた。
「……助けたのは、私じゃありません」
「いいえ。あなたがいたから、あの場を収めることができました。誰も罰せられず、会談も穏やかに終わりました。ヴェルナの使節団も聖女の癒しを目の当たりにして、感銘を受けたようです」
エリシアは少し戸惑った。
「……それなら、よかったです」
ヴィカリウスはやわらかく微笑んだ。
「情けない話ですが、あなたが動かなければ、私は何もできなかったでしょう。黒衛を制するには、建前が必要なんです」
「でも、あなたは王の代理だって聞きました……。それなら、兵士より何より、あなたの声が強いのではないですか?」
ヴィカリウスは小さく眉を上げた。
「あなたは、王のお兄様なのでしょう? 双子なら……あなたが王になっていたかもしれないんじゃないですか」
そこまで言って、エリシアは口をつぐんだ。
ヴィカリウスは一瞬だけ目を瞬かせた。だが、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻った。
(あ……聞きすぎた、かな)
王族を相手に、こんなことを尋ねていいのだろうか。
「す、すみません……」
慌てて言葉を飲み込もうとしたが、もう遅い。
けれど胸の奥では、それでも知りたいという思いが、小さく消えずに残っていた。
ヴィカリウスはそんなエリシアを見て、ただ穏やかに笑った。
「ああ、あなたはご存じありませんでしたか。無理もない。王家の内々のことですから。……ラファス王家には、〈影制度〉というものがあります。聞いたことは?」
聞きなれない言葉にエリシアは首を横に振った。
「〈聖女制度〉のように、役目を授かる制度です」
ヴィカリウスは静かに茶器を置いた。
「ラファス王家は、不思議と双子が生まれやすい家系でしてね。大昔は、そのたびに王位を巡る争いが起きたといいます。だから今は、兄か弟かでは決めません。神託によって王が選ばれ、もう一人は、その王を支える影として生きます。それが〈影制度〉です。
王は国そのものの象徴。国外へ軽々しく姿を現すことはありません。ゆえに外交は、影である私が担います。
……私が影であることは、生まれたときから決まっていました。
話し方も、立ち振る舞いも。各国の情勢や外交、王の代理として必要なこと、そのすべてを学んできました」
少し笑う。
「私はただ、その役割に過ぎないのですよ。あなたが思っているような権威も、威厳も、私には無縁のものです」
少しの間を置き、静かに続けた。
「王の影――〈ヴィカリウス〉というのは、王の意志を正確に伝える存在。黒衛もまた、王直属の権限を持つ。私が彼らを止めるのは簡単じゃない。下手をすれば、次に消えるのは私です」
低く息を吐き、言葉を継いだ。
「王の代理であるということは、王の意志を越えてはならない。どんな越権も許されません」
彼は少し目を伏せ、淡く笑った。
「私の発言が少しでも王の権威を傘に着るものであれば、それは報告され、粛清の対象になる。言うなれば、危うい剣先に立っているようなものです。踏み外せば、一瞬で落ちます。歴代のヴィカリウスにも、越権を咎められ、処刑された者は少なくありません」
エリシアは息を呑んだ。
その表情は穏やかだったが、瞳の奥に疲れと迷いが揺れている。
「この城では、誰もが誰かの目に映っています。踏み違えれば、それだけで報告が上がる。……息の仕方ひとつにも気を遣う場所です」
その声には、諦めとも覚悟ともつかない響きがあった。
「言動には注意が必要なのです。私は影であり、実体であってはいけない」
短い沈黙が落ちた。
「……なんだか、大変そうですね」
エリシアはぽつりと呟いた。
「そう見えますか」
ヴィカリウスは少しだけ肩をすくめて口元を緩めた。
「こう見えて、私生活に制限はありません。役目さえ果たしていれば、城を離れることもできます」
「え?」
「私がほとんど王城にいないのも、そのためですよ。堅苦しい城とはなるべく関わりあいたくはありません。外交の日程さえなければ、あとは好きに各地を巡っています。そのせいか、変な噂まで立ってしまいましてね」
(あ……あの、各国に愛妾がいるっていう……)
思わず頬が熱くなった。
それを見てかヴィカリウスはくすっと笑った。
「案外、その噂も都合がいいものですので、そのままにしています」
ヴィカリウスは口調をやわらげた。
「それはそうと、ひとつだけ気をつけてください。兵舎でのことを聞きました。癒したのでしょう? あの兵たちはあなたに感謝している。ですが、この城では、善意でも秩序を乱すと見なされれば、咎められることがあります」
「ただ、癒しただけで? 何かの役に立ちたいだけなんです」
「分かっています。あなたは、優しい。目の前で困っている人を、放っておけないのでしょう」
ヴィカリウスは穏やかに微笑んだ。
「ですが、この城では、その優しさが別の意味を持つことがあります」
エリシアは首を傾げた。
「兵たちは、あなたに感謝するでしょう」
「……はい」
「感謝はやがて、人を動かします。その想いがあなた個人へ向けば、それは王権とは別の力になってしまう」
エリシアは言葉を失った。
ヴィカリウスは静かに続けた。
「王は、あなたの力を王権のもとで示したいと考えておられます。あなたがご自身の意思でその力を振るえば、人々は王ではなく、あなた自身に奇跡を見いだすようになるでしょう」
ヴィカリウスは一度言葉を切り、冷めかけた茶に視線を落とした。
「その力は、王の加護として示される限り、王権を支えるものです。ですが、その力があなた自身のものとして人々に受け止められれば、王はそれを危うく思うでしょう」
そう言って、まっすぐにエリシアへ視線を戻した。
「私は……あなたの身が心配なのです」
「……わかりません」
エリシアは小さく首を振った。
「私にとって、この力は……自然なものなんです」
——それこそ、息をするように。
エリシアはそっと服の端を握りしめた。
ヴィカリウスは少し笑みを深め、懐から小さな箱を取り出した。
「難しい話はやめましょう。今日は、あなたにお礼を言いに来たのですから……。ささやかですが、受け取ってください」
開けると、それは小さなガラスの鈴だった。
「ヴェルナの使節団から贈られたものです。旅人の無事を祈る鈴——お守りのようなもの。あなたに似合うと思って、一つだけ譲り受けました」
鈴を渡す仕草が、不思議なほど丁寧だった。
掌に乗せると、ガラスの鈴が淡く光った。
その音が、春の風のようにやわらかく響く。
胸の奥で、あの港の光景がふっと蘇った。
炎と光がぶつかり合い、世界が弾けたあの夜。
腰に結んでいた鈴が、あの瞬間——
炎の奔流の中でほどけ、光の中に消えた。
音も、形も、すべて失われたと思っていた。
それでも、風に溶けていった鈴の音だけは、耳の奥に残っていた。
でも——この鈴は、リセルが買ってくれたあの鈴とは違う。
代わりにはならない。
それでも。
掌の中で鳴る音は、やわらかくて、優しかった。
「……ありがとうございます」
声が、少しだけ震えた。
「どうして、あなたはそんなふうに気にかけてくれるんですか?」
彼は少し黙り、窓の方へ視線を向けた。
光が頬をかすめ、表情を半分だけ照らす。
「似ていると思ったからです」
「私が、あなたに?」
「閉ざされた場所で、息を潜めている姿が」
ヴィカリウスは静かに言った。前髪がはらりと揺れ、伏せた瞳に影が落ちる。
ふと、鈴へ視線を落とした。
「その鈴ですが」
「え……?」
「ヴェルナでは旅人が腰紐に結ぶものなんです」
エリシアは掌の鈴を見下ろした。
「……そうでしたね」
春祭りの光景が、ふっとよぎる。
腰元で揺れた鈴。
困ったように笑うリセル。
「少し失礼します」
ヴィカリウスは自然な仕草で鈴をエリシアの手から取った。気づけば、すぐ目の前に銀色の髪があった。ふわりと香油の香りが鼻先をかすめる。
そして、ごく自然にエリシアの腰元に垂れる飾り紐へ結びつけた。指先が衣越しにかすめる。
「これで良し」
小さく鈴が鳴った。
すぐに手を離すと、ヴィカリウスは一歩下がり、その姿を眺める。
「やはり、よく似合います」
本人は悪びれる様子もない。そのまま何事もなかったように微笑む。
「またお話しできると嬉しいです。……できれば、笑っているあなたと」
まっすぐな視線に耐えられず、エリシアは思わず目を逸らした。
どうしてこの人は、そういうことを、そんな当たり前みたいにするのだろう。
(それに……なんか、今、近くなかった? 誰にでもこうなんだろうか)
侍女たちの噂が頭をよぎる。
(ううん。でも、あれはただの噂なんだ)
ただ、こんなふうに穏やかに接してくる人を、エリシアはあまり知らなかった。
——それとも、これが王族のふるまい方なのだろうか。
去り際、光の中で銀の髪が一度だけきらめいた。
扉が閉まる。
残されたのは、かすかな香油の香りと、胸の奥に残るざらりとした違和感。
けれど同時に、胸の奥に小さな火がともったような気がした。
風が揺らし、鈴の音がもう一度鳴る。
——この人も、私と同じ。
光に映る影のように、閉ざされた世界で、静かに息をしている。
噂通りなのに、でも、何か——
不思議な印象を残す人だった。




