第六十四話 光の届く場所
その日から、リュミエはエリシアの部屋をたびたび訪ねるようになった。
仕事の合間だから、怒られないだろうかとはらはらしている様子なのに、どういうわけか、いつもパンやお菓子を“どこからか”くすねてはやってくる。
リュミエは不思議な子だった。
城勤めにはまったく慣れていないのに、庭園と回廊を小走りで駆けていく姿は軽やかで、見ているだけで胸が少しあたたかくなる。
どんな人とも、あっという間に距離を縮めてしまう天性の愛嬌があった。
堅物そうな白衛のバルクでさえ、リュミエがたびたびエリシアを訪ねても、咳払いをひとつするだけで、それ以上は何も言わなかった。扉の外に静かに身をひくようになったのは、いつからだっただろう。
レオンとは気の置けない仲らしく、二人は顔を合わせるたびに軽口を交わしていた。
* * *
そんなある日のことだった。
その日もリュミエは、焼きたての丸パンを胸の前で抱えるように持って、息を弾ませながらやってきた。
「フィルナ様……。あの……! よかったらこの後、厨房に来てみていただけませんか?」
「え?」
リュミエがそんなことを言うのは初めてで、エリシアは顔を上げた。
寝具を整えていたメルダが、振り返りながら少し厳しい声を出す。
「リュミエ、何を言うんですか?」
「メルダ、いいの。やめて」
エリシアはゆっくりと向き直る。
「どうしたの?」
問うと、リュミエはみるみる頬を赤くし、今にも涙があふれそうな目になった。
胸の奥が小さく締めつけられる。
エリシアは思わず近づいて、手をそっと添えた。
「行くわ。本当は、行ってみたかったの」
「本当ですか?」
涙のかわりに、光がぱっと戻った。
さっきまで泣きそうだったとは思えない。
エリシアは思わず吹き出した。
* * *
厨房では、手に包帯を巻いた十二歳くらいの少年が、水の入った大鍋を運ぼうとしていた。
片方の手で取っ手を握り、包帯を巻いた腕で鍋を抱えるように支えている。
まだ背丈は小さいのに、扱う鍋は大人と同じだった。身体の重心が不安定で、見ていてひやりとする。
「フィルナ様。この子が、実はやけどで、片手が……」
リュミエが言い終えるより早く、エリシアは駆け寄っていた。
少年は、エリシアと、その後ろに立つ白衛の影を見て、怯えたように後ずさる。
「あ、あの、俺、何もしてません」
「違うの。リュミエが、あなたがケガをしたと教えてくれたの」
声を落とし、手を見せてほしいと静かに促す。
少年はエリシアとリュミエを見比べ、一瞬、バルクとレオンの方へ視線を走らせたが、リュミエの存在を確認した途端、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
そっと、包帯の手を差し出す。
「……ひどい。これ……」
「熱い油を運んでいるときにこぼれてしまって。普通は、もう手を自由に握ったり開いたりできなくなるって……」
リュミエの声は、小さく震えていた。
エリシアは、うなずいて少年に向き合う。
「包帯、取ってみてもいい? もしかしたら、私が何とかできるかもしれない」
後ろから、低い声が落ちた。
「フィルナ殿。むやみに力を使ってはいけません」
いつになく、硬い顔をしたバルクだった。
止める声は強くはないが、真剣だった。
「どうしてですか? まさか……王命なんですか」
「……いいえ。ただ、あなたの力は、奇跡です」
「奇跡なんかじゃない。ただ、私にとって自然なことです」
言葉にして気づく。
本当にそうだった。
癒すことは、息をするように、当たり前に、そこにある。
ただ――使い方だけは、気をつける。
自分を削らないように。
フェルディエルに教わったとおりに。
エリシアは優しく手を取る。
「さ、手を出して」
朝霧のような淡い光が、そっと少年の手を包んだ。
「ありがとう! フィルナ様」
少年は、ぱっと笑った。
その笑顔につられるように、周囲に気配が生まれる。
気づけば、厨房の料理人や侍従たちが集まり、そっと様子をうかがっていた。
「こりゃあ、すごいな……」
「よかったな、エルン」
「フィルナ様、オルデスのご加護を……。この子の未来まで救ってくださったようなものです」
料理長らしい男が、深く頭を下げた。
厚い手を胸の前で重ねて、真っ直ぐに礼を言ってくる。
「今度、召し上がりたいものをおっしゃってください。なんでも作ります」
その言葉に、リュミエが勢いよく口をはさんだ。
「じゃあ、西のお菓子がいいんじゃない? フィルナ様は西のご出身なんだって」
「分かりました。西、ですか。……なら、かぼちゃと蜂蜜の焼き菓子はどうですか? とびっきり美味しいのを焼きますからね」
後ろのほうで、ひとりが笑いながら声を上げる。
「リュミエ、フィルナ様の分なんだからな。お前は横取りするなよ、食いしん坊なんだから」
「そ、そんなことしません!」
どっと笑い声がひろがる。
エリシアもつられて笑っていた。
大きな釜の熱気と人々の息が混ざって、厨房はあたたかな空気に包まれた。
* * *
陽の光が、石畳に柔らかい影を落としていた。
その静けさが、胸の奥にほのかに触れた。
昼食は、庭でとることにした。
メルダとニーナにサンドイッチと果物を籠に詰めてもらい、リュミエと並んで腰を下ろす。
その頃には、リュミエは自然とエリシアのそばにいた。
咎められることもない。
――きっと、バルクがなにか手をまわしてくれたのだろうと、エリシアは思った。
「ねえ、フィルナ様」
パン屑を払うみたいに、リュミエが手を軽くはたく。
少しだけ言いにくそうな仕草だった。
「あなたが来る前にね、聖堂のほうで偉い人たちがたくさん入れ替わったの」
「入れ替え?」
エリシアが首を傾けると、リュミエは膝の上で指をぎゅっと握りしめた。
「そのせいで人手が足りなくなったみたいで、私みたいな下働きまでお城に呼ばれたの。最初は怖くて……西の聖堂に帰りたくて、毎晩泣いてました。ほら、私、ドジだから、いつ黒衛に連れていかれるのかと思って」
言葉は明るくしているのに、声が少し震えていた。
「あの日もそうだったんです。ただ荷台を運ぶだけだったのに、派手にひっくり返しちゃって。もう、本当にダメかと思いました」
リュミエは笑った。
けれど、目の奥に小さな影が沈んだ。
「でも、フィルナ様が、私を助けてくださいました。だから、私、恩返しがしたいんです。なんでも、私でできることは言ってくださいね」
その言葉に、胸の奥でなにかがほどけた。
「リュミエ……。じゃあ、一つお願いがあるの」
「はい、フィルナ様」
「私と……友達になって」
風の音が、すっと止まったように感じた。
「え……! そんな、恐れ多いです。フィルナ様とお友達なんて」
「ううん、リュミエ。聞いて。私、本当は、フィルナじゃないの。十三歳まで、母と村で普通に暮らしていたのよ」
リュミエがまばたきをした。
瞳が揺れる。
揺れながらも、真剣に受け止めようとする瞳だった。
「でも……フィルナ様は、本当に癒しの力をお持ちじゃないですか」
「本当はね、名前もあるの」
リュミエは少しだけ考え、言葉を選ぶように口を開いた。
「このお城で……フィルナ様をそれ以外の名前で呼ぶことはできません」
それは現実。
二人ともすぐに理解した。
「そう、だよね……」
無理を言った、とエリシアが目を伏せた瞬間だった。
リュミエが、両手でエリシアの手を包み込む。
「だから、こっそり教えてください」
「え……?」
予想もしなかった言葉に、息が止まる。
「声に出せなくても、心の中で毎日……あなたの本当の名前で呼びます」
リュミエの手に力がこもった。
胸がきゅっと締めつけられ、目の奥が熱くなる。
「リュミエ……」
「内緒ですよ。私とあなたは、お友達です。声に出せなくても、きっと、そう思っています」
「ありがとう」
言葉が震えた。
伝えきれない想いが胸に満ちる。
エリシアはリュミエの手を取り、顔をそっと寄せた。
「耳をかして」
リュミエが頬を寄せる。
その距離で、ようやく息が落ち着いた。
小さく、小さく――名前を告げる。
リュミエは、ふわりと微笑んだ。
「かわいい名前。フィルナ様より……ずっとあなたらしい響きです」
* * *
それから、エリシアは兵舎にも足を運ぶようになっていた。
初めて兵舎についていった時のことを思い出す。
癒しの力を、掌にそっと灯すように扱う練習がしたかった。
リュミエに頼んで、兵舎へ向かう彼女の後ろをそっとついて行った。
あの子は顔が広く、少し抜けているのに、なぜか誰にでも好かれる。
そのおかげで、エリシアも自然と兵舎へ通えるようになった。
兵舎は主塔から庭園を抜け、さらに石段を下ったところにある。
焼きたてのパンを、リュミエは籠いっぱいに持っていた。エリシアもそれを手伝った。
庭園を抜け、石段を下りはじめたころだった。
見張り台の近くにいた若い兵士が、荷袋を肩に掛けたまま笑いかけてきた。
「おい、リュミエ。今日は転ぶなよ。昨日みたいに籠ごと飛んだら、訓練どころじゃないからな」
「もうっ! 一回だけです! あれは、えっと……石につまずいただけで!」
兵士は肩を揺らし、周りからも小さく笑いがこぼれた。
からかわれているのに、リュミエの声はどこか弾んでいる。
「大丈夫ですよ、フィルナ様。ここ、みんな優しいんです。……すぐにフィルナ様とも仲よくしてくれますから」
そう振り返る顔が、いつもより誇らしげだった。
そうして通ううちに、癒しも何度かうまくいくようになった。
でも、確実にできるようになるには、数をこなすしかない。
城では他にすることがほとんどなかった。部屋に閉じこもっていると、心が沈んでいく。それは嫌だった。
――癒しているときだけ、自分らしく呼吸ができた。
今思えば、あの頃の自分は、それに縋っていたのだと思う。
訓練場には若い兵士が多かった。徴用されたばかりの、王政軍の少年たち。
最初は警戒の目を向けられた。
けれど、一人、また一人と傷が癒えるたび、彼らの表情はほぐれていく。
やがて、エリシアが姿を見せると、兵士たちは少しだけ姿勢を正し、照れたように手を挙げるようになった。
バルクとレオンは、いつものようにそっと近くに立つ。
必要以上に口を挟まない。その一定の距離が、ありがたかった。
昼食をリュミエと外でとってから、兵舎へ向かう。
それが自然と日課になった。
陽の差す回廊。
焼いたパンの香り。
兵士たちの笑い声。
掌に灯る、淡い光。
ようやく、胸の奥に空気が通いはじめていた。
――やっと、この息苦しい日々にも、小さな光が差した気がした。
けれど、その光を、あの王が黙って見過ごすはずがなかった。




