第六十三話 小さな光
あの事件以来、〈誓環のルーヴァス〉――ヴィカリウスを見かけることはなかった。
「この場を収めていただいて、ありがとうございました。いずれお礼に参りましょう」
あのときの言葉が、ふと胸をかすめる。
数日が経った。
庭は、まるで何事もなかったかのように整えられ、砕けた陶器の欠片の跡さえ消えていた。
鳥の声も、風の音も、どこか遠い。
あの日の騒ぎが嘘だったかのように、城は静けさを取り戻していた。
あの人――外交特使である〈誓環のルーヴァス〉。
王の代理として使節団と会い、王の印章を使うことを許された唯一の人。
ラファスでは、王は神の代行者とされ、公の場に姿を現すことはほとんどないという。
その代わりに、人として王の姿を人々へ示すのが、「王の影」だった。
とくに他国との外交の場では、彼がその役目を担っていた。
城では、本来の名よりも別の名で呼ばれることの方が多い。
王の双子の兄。
王の影。
そして――王の代理を意味する名。
〈ヴィカリウス〉。
エリシアが〈フィルナ〉と呼ばれるのと同じだ。
そう思うと、なぜだか気になった。
もう一度話してみたいと思ったのは、彼が名前を持たないと知ったからだろうか。
あの日、風に揺れた銀の髪の残光だけが、まだ胸の奥に残っていた。
* * *
エリシアは、あの日を境に、庭園へ出ることが少なくなった。
出ようと思えば出られる。
それでも、足が向かなくなっていた。
庭園に立てば、黒衛の足音や、ふと感じる視線が背中をなぞっていくようで、心が落ち着かなかった。
あれほど救いになっていた外気が、今はどこか遠い。
手伝いを申し出ても「お部屋でお休みを」とやさしく遮られる。
書物を借りようとしても、理由をつけて断られた。
そうして、できることは、聖堂に向かうことと、窓から外を眺めるだけになっていった。
行き交う人影を追うでもなく、ただ見ているだけの日々。
庭園を横切る黒い軍装の影が、ふいに視界に入る。
そのたび、胸の奥の深いところが沈んだまま動かなくなる。
あの日、黒衛の兵たちが向けたあの目線。
そして――ヴィカリウスが間に入らなければ、どうなっていたのか。
考えるほどに息が詰まる。
生死を知らされないままの母。
確かめに戻ることのできない、聖堂に残してきた女たち。
そして――王や黒衛の怒りを買えば、メルダやニーナ、バルクやレオンまでも巻き込まれるのではないか。
そう思うと、外へ出る気力ごと凍りついた。
気づけば、庭園へも出ず、衛兵や侍女以外と声を交わすこともなくなっていた。
そんなある日――
ノックの音がした。
「どうぞ」と声をかけると、扉が少しだけ開いて、肩で切りそろえられた蜂蜜色の髪が、ひょこりと顔と一緒にのぞいた。光をうけて淡く揺れる金色。その奥で、丸い緑の瞳がこちらの様子を伺っている。
その後ろから、気まずそうな顔のレオンがついてくる。扉を半分閉じたまま、迷ったような足の運びだった。
「フィルナ殿、申し訳ありません」
レオンが小さく頭を下げる。
「この子が……どうしてもお礼をしたいと聞かなくて」
「あのときの……」
思わず、声がやわらかく落ちた。
少女は胸元で小さな包みを抱きしめるように持っていた。
頬が少し赤い。城の廊下を小走りで来たのだろう。
乱れた髪を直すことも忘れてきたらしい。
息がまだ、ほんの少しだけ上がっていた。
「リュミエと申します! 十五です。この前は、本当に、ありがとうございました!」
言うなり、勢いよく頭を下げた。
あまりに深く下げたせいで、今にも額が床につきそうだ。
城の作法として正しいのかは分からない。
ただ、一生懸命なのだけは伝わってきた。
そして頭を上げるより先に、抱えていた包みを差し出してくる。
中には、小さな丸パンが三つ。
湯気はもう消えているけれど、あたたかさの残り香がふわりと漂った。
「厨房の人に、こっそり焼いてもらったんです」
エリシアはそっと、その香りを吸い込んだ。
胸の奥がすこしだけ、ほどける。
「おいしそう」
その言葉に、リュミエがはっと顔を上げた。
緊張で強張っていた表情がゆるみ、今にも泣きそうな顔になる。
「よかった……」
その声は、泣き出す直前みたいにかすかに震えていた。
後ろで、バルクが咳払いをした。
気配を乱さないように、しかしはっきりと。
「……次からは、許可を取って来るように」
「はいっ!」
リュミエは思わず背筋を伸ばし、レオンの方をちらりと見た。
緊張と嬉しさが混ざったような、子どもらしい返事だった。
エリシアは、つい笑ってしまう。
その笑みに、レオンがほっとしたように息をついたのが分かった。
騒ぎを起こした侍女――リュミエ。
まだ十五歳らしくあどけなさを残す目元が親しみやすい。
レオンとは同じ西の農村の出身で、聖堂の事件のあと、人手不足の補充としてこの城に呼ばれたらしい。
レオンは先に白衛として勤めていて、ここで偶然、幼馴染の彼女と再会したのだという。
「西の出身なのね」
言った瞬間、声が少し柔らかくなった気がした。
リュミエがまっすぐ顔を上げ、にっこりと笑った。
「はい。ラセルの近くの、小さい村です」
「……そう。私はあなたの村より、もう少し西。山の向こうの、風の強い土地にいたの」
一瞬、リュミエの瞳に驚きがひらく。
そして、ぱっと花が咲くように笑った。
「じゃあ、同じ風の匂いを知ってるんですね!」
言葉が落ちた瞬間、閉ざされた石の部屋に、どこか懐かしい風が吹いた気がした。
レオンが静かに息をついた。
安堵を隠そうともしない、やわらかな息だった。
外の世界から切り離された城で、
初めて――
友達になれそうだと、思った。




