第六十二話 誓環のルーヴァス
幾日かが、淡く過ぎた。
同じ食事、同じ部屋、同じ静けさ。
誰とも言葉を交わさないまま、庭園に出ては空を見上げる。
誰も話しかけてこない。
――あとで知ったことだが、この城ではお付きの侍女や衛兵以外の、下位の者から目上に話しかけるのは禁じられていた。
けれどその時のエリシアには、ただ――自分だけが透明になっていくように感じられた。
そんなある日、いつものように、手持ち無沙汰に庭園にでていると、遠くの回廊で、揃った靴音が石を叩いた。
その一瞬、風が止まり、庭の空気がわずかに沈んだ。
見えない位置を黒衛の一団が通り過ぎたのだろう。
バルクが小さく息を呑み、レオンは視線を地へ落とした。
姿は見えないのに、空気だけが冷えた。
やがて、黒い軍装の兵士たちが侍従の一人を引きずっていくのが見えた。
「私は何も知りません! 本当です!」
侍従の悲鳴。黒い軍装の兵士が、その腕を荒々しく掴んで引きずっていく。
通路に響く靴音が、遠ざかっても耳の奥に残った。
その沈黙に、冷たい城の空気が広がる。
「いったい何が……」
「王命が下ったのでしょう。ああやって、調書室に連れていき、尋問や粛正を行うのです」
「前から思っていたのだけど、黒衛とあなたたちは装いが違いますよね」
エリシアは改めて二人へ目を向けた。黒衛とはまるで違う装いだった。
黒衛は黒い軍装に銀の装飾を施し、その冷たい印象は遠目から見ていても際立っていた。
王都へ入ったとき、馬車の窓から見えた白と青の兵たち。あの兵たちも、二人と同じ装いだったのだと気づく。
近くで見ると、その装いは象牙色を基調に群青で縁取られ、群青の肩掛けを重ねていた。胸元を留める銀の留め具には、交差する双剣の紋章が控えめに輝いていた。腰には剣を佩いているものの、黒衛のような威圧感はない。剣そのものも、儀礼を思わせる品のある造りだった。
何より、二人からは黒衛のような冷ややかさを感じなかった。だからだろうか。初めて部屋を出たとき、さっと前へ進み出た二人を見ても、不思議と怖いとは思わなかった。
「あんなのと比べないでください」
レオンは胸元の双剣の紋章へ、そっと指を添えた。
その言い方には、どこか棘があった。
「レオン」
バルクが低く制した。
余計なことを言うな、という声音だった。
「私たちは“白衛のアルガルド”と呼ばれる近衛隊です。王政軍のように外で戦うことも、黒衛のように王命で粛正を行うこともありません」
一拍置いて、彼は穏やかに続けた。
「城と城下町の警備、要人の護衛が主な任務です。言わば、城の秩序を守る“盾”のような存在ですよ。王政軍の指揮下にはありますが、内衛軍であり、治安を重んじる部隊です」
「そう、なのですね……。でも私は客人でも要人でもないです。私は――」
「フィルナ殿」
バルクが、かぶせるように言った。
その声は静かだが、揺るぎない。
「次期聖女様であり、王の庇護にある方です。あなたの身辺警護の命を賜り、大変光栄に思っております」
エリシアは黙り込んだ。
「とにかく――あなたが王の庇護下にあるとしても、黒衛にはお気をつけください。
彼らは独自の権限を持ちます。尋問も、拘束も、独断で許されているのです」
胸の奥で、何かがゆっくり冷えていくのを感じた。
メルダやニーナが言っていた「黒衛は怖い人たち」という言葉が、ようやく意味を持った気がした。
* * *
回廊の奥では、黒衛がまだ巡回しているらしく、靴底の硬い音が風に乗って微かに揺れてきた。
その音が途切れたとき、庭の陽射しが再び戻った。
晴れた午後、庭園で食事をとろうと歩いていると、石畳の先に銀の茶器と静かな笑い声が見えた。
使節団らしき一団。
いつか、ニーナが「そのうち使節団との会談がある」と言っていたのを思い出す。
その中央に、ひときわ目を引く人物がいた。
濃紺の衣に、銀糸の紋を縫いこんだ外套。
顔の下半分を薄い布で覆っているのに、整った横顔の線がわかる。
仕草は静かで、無駄がなく、茶器を持つ手つきひとつまで洗練されていた。
陽を受けた銀髪が、淡く光を返す。
華やかというより、隙がなかった。
近づきがたいほど整って見えた。
「……あの人は?」
思わず、隣にいたバルクへ声をかける。
「ヴィカリウス殿下です。王の双子の兄でいらっしゃいます。陛下の代理として、各国の使節と会われるお方で、王の印章を使うことが許されている唯一の方です。外国からは、〈誓環のルーヴァス〉殿とも呼ばれています」
バルクの声は低く、どこか慎ましい。
この頃には、頼まれなくても説明をしてくれるようになっていた。
「陛下の代理……」
エリシアは小さく繰り返した。
その言葉の意味を、まだ掴めないまま。
(……ニーナが言っていたあの人だ)
こんなにすぐに目にするとは思わなかった。
後ろを通りすぎた侍女たちが、声をひそめて囁き合った。
どこか、いつもより浮き立った空気だった。
「まあ、ヴィカリウス殿下よ。今日は政務中だから、お顔をお隠しなのね」
「外交の席では〈誓環のルーヴァス〉様です。陛下の代理なのですから」
「ほんと、素敵よね……。お顔を覆っていても、あの雰囲気だけで分かるわ」
「やめときなさいって。あんなに優しそうなのに、近づくと冷たいらしいわよ」
「そお? 優しく笑いかけられたって侍女もいるって聞いたけど。舞い上がっちゃって仕事も手につかなくなって、降格されたんですって」
「バカね。ヴェルナにも、海を渡ったルシトにも愛妾がいるって噂なんだから」
「噂じゃないわよ。港町ごとに女がいるって話だもの」
「この前だって、侍女がお手付きになったって聞いたわ」
「……そうなっても、どうせ特別扱いなんてされないのに」
「でも、ちょっと分かる気もするわ。陛下はもちろん雲の上の人だけど、ヴィカリウス殿下はなんだか手が届きそうな気がするんじゃないかしら」
「それで勘違いするのよ。優しくされたって、本気になるだけ損なんだから」
「でも、誰にでも優しいのよ」
「痛い目みるからやめなさいって」
「こうやって、遠目から見られるなんてそれだけでいいじゃない。眼福眼福」
風がその声をさらっていった。
エリシアは思わず視線を戻す。
美しいのだろうとは思った。
顔を隠していても、整っていることだけは分かった。
背筋はまっすぐで、何気なく茶器を手にしているだけなのに目を引く。
使節たちに囲まれていても、不思議と彼の存在だけが際立って見えた。
けれど、侍女たちのように浮き立つ気持ちにはなれなかった。
無駄のない仕草も、静かな佇まいも。
あの動きなのだろうか。
どこか見たことのない、研ぎ澄まされた気配があった。
誰も寄せ付けない冷たさ。
彼の横顔には、言葉にできない影のようなものが沈んでいる気がした。
風が吹き、銀髪が揺れた。
冷たい色の瞳が、ほんの一瞬こちらを掠めた気がした。
息が詰まる。
次の瞬間にはもう、彼は使節団の方へ視線を戻していた。
その仕草も、完璧なまでに整っていて、近づく余地がなかった。
遠い世界の人みたいだった。
壁を隔てた向こうの、絵の中の人のようだと、エリシアは思った。
そのときだった。
乾いた衝撃音が庭園に響いた。
続けて、がしゃん、と金属の砕けるような音。
使節団の後方で、台車が横転していた。
銀の食器や花瓶が石畳に散らばり、白い布が風にあおられる。
「きゃっ!」
甲高い声とともに、ひとりの侍女が尻もちをついていた。
肩の上で切りそろえられた蜂蜜色の髪が、陽を受けてやわらかく光った。
華奢で小さく、まだエリシアよりも幼く見えた。
緑の瞳が、不安に揺れている。
慌てて大きなティーポットを拾い上げたが、割れていた。
指先を切り、驚いた拍子に再び手を離す。
転がったポットが使節の足元をかすめ、布を裂き、血の色がにじんだ。
「なにをしている!」
白衛のひとりが駆け寄り、リュミエの腕を掴む。
彼女は泣きながら首を振った。
指先からも血が滴り、芝生を濡らした。
「ちがいます、わざとじゃ――!」
周囲がざわめき、使節団が立ち上がる。
静かだった庭園に、怒号と焦りが混ざり合った。
騒ぎに気づいたのか、回廊の奥で靴音が変わった。
先ほどより重く、揃っている。
――黒衛の主格が動いた、とバルクが気づいたのだろう。
彼の肩がかすかに強張った。
エリシアの背筋が冷たくなった。
灰色の髪をひとつに束ねた男が、隊の先頭に立っていた。
頬には古い傷跡が一本、眉をかすめて走っている。
鉄錆色の眼差しは鋼のように冷たく、何を見ても揺るがない。
「どうか、お許しください!」
年上の侍女が、かばうように前に出た。
「この子は、まだ新しくこちらに来たばかりで、普段から落ち着きがなく、慣れていないのです。決して、使節様を襲うようなことは――」
「新しく派遣された――それだけで十分疑わしい」
低い声が、石畳の上に落ちた。
冷たい靴音が、芝を踏む音に変わった。
黒衛が輪を狭める。
その一歩ごとに、庭の空気が凍りついていく。
無表情のまま、兵たちは白衛の列を割って進み、泣きじゃくる侍女を取り囲む。
その手際は、躊躇いのない機械のようだった。
「転んだだけなんです! 本当です! あの部屋には、連れて行かないで!」
泣きながら否定する声が、広い庭に響いた。
その瞬間、エリシアの身体が勝手に動いた。
気づいたときには、走り出していた。
侍女の前に飛び込むように立つ。
「やめてください!」
「フィルナ殿! いけません!」
背後でバルクの声。
止めようと伸ばされた手は、間に合わなかった。
白衛たちが戸惑い、動きを止める。
黒衛がエリシアを冷たく見下ろした。
掴まれた細い腕が小さく震えている。
エリシアはその前に立ちふさがった。
心臓が痛いほど鳴っていた。
「見てわかりませんか? ただ、転んだだけです。彼女も怪我をしています。早く手当てを――」
声が掠れた。
けれど、それでも言わずにはいられなかった。
「フィルナ――殿、でしたか。これはあなたが口を挟むことではない。陛下のご指示では、あなたはお部屋で保護されていると聞いている。このような庭園に自由に出入りされるとは。白衛は何をやっているのか」
「不敬だ! どなたに向かって――」
慌ててバルクが立ちふさがる。
「大人しくお部屋にお戻りになったらどうか。私たちはこの侍女に尋問をしなければならないのでね」
侍女が息を呑む音が聞こえた。顔は青ざめ、今にも倒れそうだった。
そのときだった。
濃紺の衣をまとったルーヴァスが、ゆっくりと立ち上がる。
遠くからでも分かる。
場のすべてが、その人の一挙一動に従って沈黙した。
冷たい色の瞳が、わずかに細められる。
それだけで、場の空気が変わった。
「待て」
穏やかな声が、空気を裂いた。
「我が国の醜聞を晒すつもりか」
濃紺の外套が風に揺れる。
「ガイス、聞こえなかったか」
黒衛が戸惑ったように、ルーヴァスを見る。
「しかし、ルーヴァス殿。使節団及び、他でもない貴殿への攻撃は——」
「攻撃?」
ルーヴァスは静かに歩いてくる。
散乱した荷物へ視線を落とし、小さく息を吐いた。
「これが攻撃に見えるか? 食器、布、クッション——すべて会談の準備の品だ。それに、その侍女自身も怪我をしている」
侍女の手と膝を見る。膝は派手に転んだときにすりむいて血が滲んでいる。
「わざとぶつけたなら、自分が怪我をするようなやり方はしない」
黒衛が口を開きかけたが、ルーヴァスが手を上げた。
「私も、他の使節も無事だ」
倒れている使節を見る。
「怪我をしているのは、あの者だけだ」
ルーヴァスがエリシアを見た。冷たい色の瞳が、意味ありげに細められたように見えた。
「フィルナ殿から見ても、そう見えた。それで十分だろう」
黒衛に向き直る。その声音は穏やかで、反論を許さぬ静けさを帯びていた。
ガイスと呼ばれた男は渋々、部下に目配せした。
侍女の腕を放す。
エリシアは息をついた。
侍女はその場に腰が抜けたように膝から崩れ落ち、震えながらエリシアとルーヴァスを見上げていた。
「しかし、使節に怪我をさせてしまった。どうお詫びしたらいいものか」
ルーヴァスは倒れている使節に近づく。
「怪我は大丈夫ですか?」
使節が顔をしかめている。
「足に陶器の破片がかすめただけです」
見ると、使節の足から布が裂け、血が流れている。少し腫れて見えた。
重いティーポットが当たったのだ。外套の裾には、熱い茶の染み。
エリシアは、考えるより先に駆け寄っていた。
「……治せます。私に、やらせてください」
使節が戸惑ったように、エリシアを見る。
ルーヴァスは彼女を見た。
「フィルナ殿、あなたが?」
「はい、私には傷が癒せます」
エリシアは使節のそばに膝をつき、断ってから足に触れた。
清潔な布を侍女から借り、そっと傷口の血をぬぐうと、手をその上に重ねる。
(――注ぐんじゃなく、灯すように)
意識を集中させる。
傷口に力を注ぐ感覚ではなく、自身にとどめるようにする。フェルディエルに教わった通りに。
温かい光が滲んだ。
使節が息を呑む。
やがて、傷が消えていく。
「……これは」
使節が呆然とする。
周囲がざわめいた。
ルーヴァスが、わずかに目を細める。
「素晴らしい力ですね」
穏やかな声だった。
エリシアは顔を上げた。
銀色の髪、柔らかな目元。顔を隠していても、整った輪郭。
侍女たちが話していた通り――『王城の華』。
彼が、王兄のヴィカリウス。
気配そのものが場を支配していた。
威圧でも脅しでもない。
ただ、その人がそこにいるだけで空気が変わる。
しぐさも、声も、間の取り方も。
今まで会った誰とも違った。
こんな人を、エリシアは知らない。
気づけば、呆けたように彼を見つめていた。




