第六十一話 沈黙の庭
翌朝。
髪を結うといってきかないメルダとニーナを、エリシアはやんわりと断った。
もう、自分を〈フィルナ〉と思いたくなかった。
装いは、それでも用意されたものを着るしかない。
装飾こそ控えめでも、絹の質感がいやでもその立場を思い出させる。
支度を終え、鏡の中の自分を見た。
絹の服を着た、見知らぬ誰か。
でも――目だけは、まだ自分のものだった。
「今日は、外に出てみます」
メルダとニーナが顔を見合わせる。
「まさか、禁止されてないですよね」
「ええ、もちろんです。ただ……」
「外に出ますと、いろいろな方の目があります。好奇の視線を浴びるかもしれません」
「そんなこと、気にしません」
禁止されていないなら、やめる理由はない。
そう思った途端、体が勝手に動いた。
エリシアは外套を用意する二人を残して、扉を開け放った。
外の空気は、ひんやりとしていた。
石壁の匂い、遠くで響く靴音。
それだけのことが、妙に新鮮だった。
控えていた衛兵が二人、影のように前へ出る。
一人は背の高い黒髪の男。無駄のない動き。
もう一人は、くせのある栗色の髪で、まだ若い。落ち着かない視線をしていた。
どちらも無言――けれど、息の合わせ方で長く組んでいるのがわかる。
「フィルナ殿、どちらへ?」
「城内を見学するだけです。ヴァルデン将も歩くこと自体は禁じられていないとおっしゃっていました。まさか、それも駄目なんですか?」
「いえ、ですが……」
年長の兵が言葉を濁した。
半ば幽閉された少女が、自ら部屋を出るとは思っていなかったのだろう。
若い兵も、戸惑いを隠せない。
「禁止ではありません。ただし、必ず我々と行動を」
「わかりました。では、勝手についてきてください」
「フィルナ殿、万が一、城外へ出ようとすれば――」
「出ません」
その声は静かに、よく通った。
エリシアはすっと身を翻す。
まるで、自らの意志で訪れた客人のように。堂々と、歩き出した。
部屋は塔の一角にあった。
主塔の側面にせり出し、窓の下はまっすぐ断崖。
東の遠くに、湾が光って見える。風がよく通り、夜には潮の匂いが届く。
高い場所にあるせいで、いつも静かだった。
聞こえるのは風と、自分の呼吸だけ。
まるで世界から切り離されたようだった。
廊下に出ると、石造りの螺旋階段が下へと続いている。
衛兵が咳払いした。
「出られるのでしたら、その階段をお使いください」
エリシアは答える代わりに、階段へ足を踏み出した。
年長の兵が途中で何か言いかけたが、エリシアの背に気圧されるように、言葉を飲み込んだ。
手すりに手を添える。冷たい。
下のほうから、靴音と声がかすかに響いてくる。
それだけで、胸の奥がざわついた。
降り口で、年長の兵が低く言った。
「足元にお気をつけて」
命令ではない、ただの人の声だった。
それが、かえって胸に残った。
「こんなに……高かったのね」
思わず、息のようにつぶやいた。
夜に響いていた波の音は、北の潮汐地帯からだろう。
朝には潮が引き、湿った砂の上に波の線が残る。
白い光を受け、遠くまで淡く光っていた。
階段を降りるたび、空気が変わっていく。
潮の匂いに、焼いた木材や香草の香りが混じる。
やがて、人の気配。遠くで笑い声。
――あたたかい生活の音だった。
回廊の扉の向こうに、光が差し込んでいる。
エリシアは一瞬だけ立ち止まり、深く息を吸った。
「ご覧になりたいところはございますか? 案内いたします」
振り返ると、年長の兵が立っていた。
エリシアと目が合うと、わずかに口元がゆるむ。
「この時間は人が多いので、先導があった方が安全です」
「……ありがとう。あの、お名前を聞いてなかったですね」
「バルクと申します、フィルナ殿。こちらはレオン。最近、訓練兵から正規兵になったばかりでして」
隣の若い兵が、不器用に敬礼した。
寝癖の残る栗色の髪が揺れた。
「……バルクさん、レオンさん。よろしくお願いします」
本当は、城を見て回りたいわけじゃなかった。
ただ、また“祈るだけの時間”に戻るのが怖かった。
何か、小さくても――自分の手でできることを見つけたかった。
「庭園からご覧になりますか?」
「庭園……」
エリシアは小さくつぶやく。
花とは縁がない。母と畑を耕したことはあっても、お城の庭園なんて、きっと観賞用だ。
マルヤとエルランと、薬草を仕分けした日を思い出す。
「——あの、庭園も後で見たいけど、医務室はありますか?」
「どこかお悪いのですか? 医師を呼びますか?」
「そうじゃなくて……薬草に興味があるんです。治癒室を見てみたい」
バルクとレオンが顔を見合わせる。
「……治癒室は許可が必要ですが、兵舎脇に応急室と薬草庫があります。そこなら問題ないでしょう」
「……いいんですか?」
「見るだけなら。触れなければ」
「ありがとうございます」
「薬草なんて、珍しい興味ですね」
「レオン」
バルクがたしなめる声に、エリシアは思わず笑った。
久しぶりに、心がやわらぐ音がした。
兵舎の影に沿って歩く。石畳の冷たさが靴底に伝わった。
その先で、黒い外套の一団が回廊を横切った。
靴音のそろい方だけで、彼らが“黒衛”だとわかった。
エリシアの背で、バルクがわずかに息を呑む。
レオンは視線を落とし、そっと道の端へ寄った。
誰も何も言わないのに、空気だけがひんやりと沈む。
列の最後尾の若い兵が、ちらりとこちらを見た気がした。
すぐに視線をそらし、何も残さず去っていく。
――近づいてはいけない人たち。
昨夜、メルダが言っていた言葉が胸の底で静かに重くなる。
エリシアは無意識に、服の端を指でつまんでいた。
応急室の扉は、思っていたより重かった。
バルクとレオンが押し開ける。
中では、白衣の治療師たちが忙しく動いている。
湯気と薬草の匂い。
棚に並ぶ瓶の音。
すれ違う人の靴音。
――そのすべてが、外の世界の音に思えた。
「ここで少し、お話を聞かせていただけますか?」
エリシアは扉のそばで声をかけた。
「できれば、手伝わせてほしいんです」
作業の手が止まる。
若い医務官が、困ったように顔を上げた。
「……お気持ちはありがたいのですが、フィルナ殿。ここは治癒師の職場です。許可がない方は入れません」
「……そうですか」
首を垂れると、薬草の香りが胸に沁みた。
“癒す力”を持つと言われても、自分では何もできない。
ただの飾りのような存在。
それが、たまらなく苦しかった。
*
次に訪れたのは、厨房だった。
扉を開けると、熱気と香辛料の匂いが押し寄せた。
鍋の音、包丁の音、笑い声。
その活気に、心が少しだけ揺れた。
リセルが、鍋でスープを作ってくれた日のことを思い出す。
『なんでリセルは、なんでもできるの?』
木の椀を受け取りながら、そう言ったとき、彼は火を見つめたまま、淡々と答えた。
『……生きるために、やってるだけだ』
『……私、何もできないんだ。火も起こせないし、料理も……母さんが』
少しだけ考えて、彼はスプーンを置いた。
『できないことは、やればできるようになる。これから、エリシアがやってみたいことをやればいい』
言い方は、どこまでもそっけなかった。
けれど、その声の奥に、かすかな笑いがあった気がする。
あのときの柔らかい沈黙が、胸の奥でゆっくり蘇る。
「何か手伝えることはありませんか? 私も料理をしてみたいんです」
包丁を握る料理長が、驚いたように振り返った。
「聖女様が……厨房に?」
「少しだけでも」
「とんでもない。ここは不浄の場所です。フィルナ様の手を煩わせるわけにはまいりません」
その場の空気が凍る。
料理人たちの視線が集まった。
遠巻きに、特別なものを見るような目。
エリシアは何も言えず、静かに頭を下げた。
*
洗濯場は、冷たい水の音で満ちていた。
石の槽に布を沈める音。
湿った空気に、陽の光が揺れている。
ここなら――と思った。
「洗い物を手伝わせてください」
手を止めた女が、怪訝そうに首をかしげた。
「聖女様が?」
「慣れていますから。できます」
「……お気持ちは嬉しいですが、こんなことをさせるわけにはまいりません。私たちが叱られます」
きっぱりとした声。
胸がきゅっと縮む。
手を濡らすことさえ、許されないのか。
「……そうですか」
小さくうなずくと、水面の光がかすかに揺れた。
それが、涙のようにも見えた。
*
回廊を戻る途中、誰も口を開かなかった。
靴音だけが、冷たい石に響く。
「庭園を見てみませんか」
バルクが静かに言った。その目の奥にほんの少しの同情が滲むのは気のせいだろうか。
「少し歩けば、気が晴れるかもしれません」
「……そうですね」
エリシアは力なく微笑んだ。
庭園は、白い光に包まれていた。
噴水がきらめき、鳥の声が遠くに響く。
風が頬をなで、髪が揺れる。
陽のあたる、きれいな場所――けれど、どこか遠い世界のようだった。
その日の夕食は、冷めたスープと固いパンだった。
メルダもニーナも、何か当たり障りのないことを言っていた気がするけど、よく覚えていない。
匙の触れる音だけが、静かに響いた。
(ずっと、こんな風に、何をすることもなく、日々が過ぎるのかな。私は、王の生誕祭の後、何をさせられるの?)
たまらなく不安がこみ上げた。
夜、寝台に横たわると、遠くで波の音がした。
その響きが、まるで世界のどこかで誰かが息をしているように思えた。
でも、ここでは何も動かない。
時間さえ、止まっているようだった。




