第六十話 音の届く檻
扉が閉まり静寂が戻ると、空気が急に重くなった気がした。
部屋の真ん中に立ったまま、しばらく動けなかった。
石の壁と高い天井。
壁際には机と寝台。机の上には筆記具と、花のない花瓶がひとつ。
簡素だけれど、整えられた部屋だった。
けれど、どこか“舞台の控え室”のように無機質だった。
窓を開ける。
冷たい風が流れ込み、カーテンを揺らした。
夕暮れの光が白い床に差し込む。
見えるのは、西の城下町。
赤茶の屋根が並び、煙突から細い煙が上がっている。
その下では、黒い軍服の列が規律正しく動いていた。
号令と靴音が、かすかに風に乗って届く。
南の方には、高原へと続く石畳の道。
その先に白い門塔。光を受けて鈍く光っていた。
東の港は、塔の壁の向こうに隠れて見えなかった。
けれど、遠くから潮の匂いがした。
夜になれば、北の断崖の方から砕ける波の音が響くらしい。
見えない海が、すぐそこに息づいている。
風が頬を撫でた。ひんやりしていて、少しだけ懐かしい。
――ヴェルナの港町と、同じ匂いだ。
窓枠に手を置く。
光が指の隙間に落ちて、まぶしかった。
それなのに、胸の奥だけが冷たく沈んでいた。
振り返ると、白い寝台がひとつ。誰かが整えたままのように、皺ひとつない。
居心地は悪くないのに、どこにも“自分の匂い”がなかった。
鏡の前に立つ。
疲れた目が映る。
知らない服を着た少女が、こちらを見返していた。
外から号令の声。
武器のぶつかる音。
それに混じって、遠くの港から潮の音が返ってくる。
――ここは、音の届く檻。
エリシアは目を閉じた。
風と音だけが、まだ外の世界を思い出させてくれた。
* * *
厚い扉の外に、人の気配があった。
やがて、控えめなノックの音。
二人の侍女が部屋に入ってきた。
「ヴァルデン将から、湯へお通しするようにとのご指示です」
エリシアは窓辺から振り返る。
「そう、ですか」
侍女は少しためらってから、小声で言った。
「お加減はいかがですか」
「平気です」
「長旅でお疲れでしょう。参りましょう」
その声には、わずかな同情が含まれていた。
エリシアは困ったように微笑んだが、口元が震えるだけだった。
湯の部屋は、石造りの小部屋だった。
香草の香りが漂い、湯気が白く立ちこめている。
侍女が湯桶を持って近づいたとき、エリシアは慌てて言った。
「やめてください」
侍女がびくりと身を引く。
「……慣れていないんです。こうして人に触れられるのが。自分のことは、自分でさせてください」
「わかりました」
落ち着いた方の侍女が優しく微笑んだ。
「南の聖堂で、火事があったと聞いております」
「それが、何か?」
「私たちは、聖堂とは関わりのない侍女です。ですから、どうかご安心を」
「どういう意味ですか?」
「詳しくは存じませんが、聖堂で不敬があったと伺っております。関係者の多くが異動になり、王城の侍女も配置換えがありました」
エリシアは目を見開いた。
「私がいた聖堂で、処分されたり、ひどい目にあった人はいませんでしたか?」
少しの間があって、侍女は静かに答えた。
「……大きな処罰はなかったと聞いております」
「そう、ですか」
言葉の奥に、信じたい気持ちと、信じきれない痛みがまざった。
もしあの人が、いなかったことにされていたら――。
そう思うだけで、胸の奥がじわりと痛んだ。
(ううん、大丈夫、きっとあの人も、何もされてないはず。私は言われるまま、戻ったのだから――)
胃の奥に重苦しさを感じ、エリシアは胸元に手をあてて目を閉じた。
もう一人の若い侍女が、長い三つ編みを揺らして言った。
「私たちは、フィルナ様の生活をお守りするためにいます! だから、何でもお申し付けください!」
「……私、フィルナではありません。ただの村娘なんです。だから、その、お世話とかも……」
黒髪をきっちり束ねた侍女は、それを聞いて困ったように微笑んだ。
「かしこまりました。ですが、身の回りのお世話を仰せつかっています。ご許可いただける範囲でお手伝いさせてください」
エリシアはそれ以上反論できず、曖昧に笑った。
湯あみを終え、部屋に戻ると、さっきまでの夕暮れの光は群青に変わり、薄暗がりが辺りを飲み込もうとしていた。
黒地に銀縁の軍服の兵たちが、中庭を歩いていくのが見える。
衛兵よりも整った列、どこか違う空気をまとっていた。
「あの人たちは?」
「あれは……黒衛です。アシュガルド――王の剣と呼ばれる方々です。国王直属の特務隊です」
「黒衛は……怖い人たちです」
「ヴァルデン将も?」
「将は……まだ、人の形をしています」
「彼らは、王の意思のもとに粛清や処罰を行う方々。黒衛には関わらないのが、この城の常識です」
その言葉に、エリシアは息を呑んだ。
沈黙のあと、三つ編みの若い侍女が少し笑った。
「でも、王城にも明るい方はいらっしゃるんですよ! ヴィカリウス様なんて、その代表です」
「ヴィカリウス様?」
「陛下の双子の兄君でいらっしゃいます」
「……お兄様、なのですか?」
「はい。でも、ラファスでは長子が王様になるわけじゃないんですよ」
「ニーナ」
メルダがやんわりとたしなめた。
「王家のお話を軽々しくするものではありません」
「……ごめんなさい」
ニーナは照れたように笑った。
「お役目で、陛下の代わりに人前へお出ましになることも多くて。いつもにこやかで、城の女性たちにも大人気なんです。少し近寄りがたいところもありますけれど、誰にでも優しく微笑んでくださるんですよ。まるで王城の華のようなお方で」
「……華?」
エリシアが首を傾げると、侍女は少し照れたように笑った。
「同じお顔ですからね。つい、『陛下もあのように笑われるのかしら』って」
侍女は、そこまで言って少し口をつぐんだ。
「あれだけ素敵な方ですから、その……いろいろなお噂もある方で――」
「ニーナ、そのくらいになさい」
「はい、メルダ様……でも、ほんとに素敵なんです。
近々、ヴェルナから使節団がいらっしゃるので、ヴィカリウス様もその対応でお見えになるとか。お会いすることも、あるかもしれませんよ」
ふたりのやり取りを聞きながら、エリシアはその名を胸の中で反芻した。
窓の外で鐘が鳴り、風がカーテンを揺らした。
エリシアは笑うこともできず、ただその音を聞いていた。
「あの、お名前、メルダさんとニーナさん、っていうんですか?」
「はい。どうぞメルダとお呼びください。こちらは侍女見習いのニーナです」
「私はまだ未熟者ですが、メルダ様は王妃様の侍女を務めていたこともあるんですよ。
陛下がフィルナ様に特別な配慮をしてくださったんだって聞いてます」
「ニーナ、そのようなこと、言わなくてもいいのよ」
メルダはやわらかく笑ったが、その声の奥には釘を打つような静けさがあった。
「申し訳ありません、フィルナ様。ニーナは少し口が軽くて」
「ううん……そんなことない」
エリシアはかすかに笑った。
笑うと、頬の奥がひきつるように痛んだ。
久しぶりに使う筋肉だった。
「フィルナ様、笑うととても麗しいですね」
ニーナが少し照れくさそうに言った。
「なんだか安心しました。聖女様って、普通は神官貴族のお家の方ばかりで……もっと近寄りがたいものだと思っていました」
メルダは小さく息をつき、穏やかな声で口を開いた。
「言葉にはお気をつけなさい。ここでは、言動にこそ、最も気をつけなければいけません」
「はい……」
しゅんとしながらも、ニーナはエリシアを見て小さく笑った。
その笑顔に、まだ世界の怖さを知らない光があった。
短い沈黙のあと、エリシアは口を開いた。
「メルダさん。……聖女制度って、なんなんですか?」
部屋の空気が、わずかに張りつめた。
メルダとニーナが一瞬、顔を見合わせる。
「私、ずっと聖堂で『聖女になれ』と言われました。でも、それがどういうことなのか、誰も教えてくれなかった。私はどうして『フィルナ』と呼ばれて、ここにいるんですか?」
メルダは静かに息を吸い、慎重に言葉を選んだ。
「現聖女様は、〈ルミエラ〉様です」
少し間を置いて、メルダは続けた。
「王都南郊外の大聖堂でお暮らしになり、日々祈りを捧げておられます。そして〈フィルナ〉というお名前は……聖女候補に与えられる称号のようなもの。あなたは“次期聖女”として、この城に迎えられた——そう伺っています」
「……候補、ですか」
「はい。ただ、聖女を正式に任ずるのは陛下のお言葉だけ。その儀式は、王の生誕祭で開かれる夜会で執り行われると聞いています」
メルダの声は穏やかだったが、その奥にかすかな硬さがあった。
「それ以上は……私たちの口からは申し上げられません。この城では、王の意向に背いたと見られるだけで、黒衛に連れて行かれます。フィルナ様も、どうか慎重に行動なさってください」
エリシアは小さくうなずいた。
でも、胸の奥で何かがざらついた。
(現聖女がいるなら、なおさらどうして私が聖女になる必要があるの? 神官の家系が代々務めるべきだって、聖堂の人達も私を責めていたのに)
聖女は、現俗の名前を名乗ってはいけないのだと、そう言って、鞭うたれた記憶が、脳裏をかすめ、エリシアは身震いした。
静かな部屋の中で、心臓の音だけがはっきりと響いた。
(私は、本当は、エリシアっていうんです)
心の中で、呟いていた。きっと、言葉にだしても彼女たちは困ったように笑うだけなんだろう。そう思うと、胸がきゅっと苦しくなった。
「さぁ、フィルナ様は長旅でお疲れでしょうから、ご夕食をお持ちしますので、本日はお早めにお休みください」
メルダは灰色がかった瞳を静かに伏せ、品のある立ち振る舞いで、会釈をすると、ニーナを連れて部屋を後にした。淡い香油の香りだけが残っていた。
* * *
夜になると、波の音が大きくなった。ここは潮汐地帯で、日が暮れると、夜にかけて満潮になるのだとメルダが言っていた。
波の音が足元から響いてくる。まるで孤島に座礁した船のように、頼りない気持ちだった。
窓の外には遠くに兵士のかがり火が見えていた。城下町の淡い灯りが、家々の窓の中で揺れていた。窓から差す光が、床の石を淡く照らしていた。
エリシアは立ち上がって、アーチ型の窓を開けた。
外から、より大きな波の音と、まだひんやりと冷たい風が頬を撫ぜた。
ここに閉じこめられていたら、きっと、また「私」じゃなくなってしまう。
――明日は、外にでてみよう。
あの人は――ヴァルデンは、城内を歩くなとは言わなかった。
「……私ができることを、探したい」
小さくつぶやいて、そっと窓を閉めた。エリシアは何の匂いもしない、無機質で、清潔なシーツにくるまった。
(大丈夫。きっと、私はまだ、私でいられる)




