第五十九話 客人
馬車の揺れは、山を越えた頃から少し穏やかになった。
途中で宿に寄り、沐浴や食事の機会も与えられたけれど、何を食べたのか、よく覚えていない。拘束されることも、必要以上に話しかけられることも、ひどい扱いを受けることもなかった。
身体の自由はあっても、もう逃げられない――そう判断されていたのだろう。
頭の中は、リセルのことでいっぱいだった。
――すぐに、目を覚ましただろうか。
――ちゃんと、逃げられただろうか。
あの船は本当に由賊の船だったのだろうか。
悪いほうばかり想像してしまう自分の考えを振り払うように、エリシアは小さく首を振った。
リセルはきっと逃げた。
そして、あの船に乗った。
そう思いたかった。そうであってほしかった。
なら、リセルは無事でいられる。
黎火の郷へだって、向かえたかもしれない。
彼と一緒に見たかった。
そこまで考えると、胸が締めつけられ、息が浅くなった。
外套の端を握りしめる。指先に力が入る。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
数日か、それ以上だったのかもしれない。
その日、外が急に騒がしくなった。
車輪の音の下に、人のざわめきが混じる。
窓の外から差し込む光が眩しくて、思わず顔を出す。
土ではなく、石畳が太陽を反射していた。
鐘の音。焼いたパンと煙の匂い。
遠くで潮の香りが混じっている。
背後に港を抱えた、にぎやかな街。
その北に、白い城がそびえていた。
エリシアは息を呑んだ。
「ここは……?」
馬車の横についていた兵士が、馬上から答える。
「王都――ノルグランドです、フィルナ殿」
「王都……? 私は聖堂に戻されるのではないの?」
「王命です。聖堂へ戻ることはありません。本来なら、あなたも任命の日までは聖堂で過ごすはずでした。ですが今回は王命により王城で保護されます」
エリシアは息を詰めた。てっきり、あの地下室に戻されると思っていた。
「近々、王の生誕祭があります。あなたは、その後に正式に“聖女”として迎えられる予定です」
その言葉が、馬車の中に静かに落ちた。
車輪が止まる。
扉の向こうに影が差し、見上げた先に、城の塔が霞んで見えた。
――王都。
ヴェルナの町とも、西の果ての故郷とも違う。
石畳はまっすぐに伸び、建物は整然と並んでいた。
白と青の外套をまとった兵たちが、規律正しく街を巡回していた。
エリシアは思わず窓の外に見入った。
門が開く音が響く。
馬車が中に入ると、外のざわめきが遠のいた。
潮の香りも、光の熱も、まるで別の空気に変わっていく。
石造りの回廊。磨かれた床。
足音だけが、静かに響いた。
案内役の兵が言う。
「こちらでお休みください。後ほど、ヴァルデン将が参ります」
エリシアは頷き、重い扉の奥へと入った。
部屋は広く、天井が高い。
窓から王都が見下ろせる。
行き交う人々が小さく見えた。
ずいぶんと高い場所だ。
――とても、逃げられそうにない。
だが、逃げようという考えが浮かぶだけで、胸の奥がひやりとした。
その瞬間、あの尋問の記憶が、ふっと蘇る。
* * *
道中に立ち寄った町の聖堂で、エリシアはまず聴取を受けた。
――石造りの小部屋。
ろうそくの灯りひとつ。
窓もなく、扉の外に兵の気配がある。
閉じ込められてはいない。
けれど、この空間に「出入口」があることを忘れそうになるほど、空気は静まり返っていた。
エリシアは簡素な椅子に座っていた。
姿勢は正しているが、背筋には緊張が走っている。
扉が開く音。控えめな足音が近づく。黒の外套、銀の装飾。剣を帯びたまま、ヴァルデンが、無言で前に立った。
「……ご気分は落ち着かれましたか?」
丁寧な声。だが温度はない。
凍った湖面のような静けさがその声にあった。
エリシアは小さく頷いた。
「ならば、いくつか確認しておきたいことがあります」
ヴァルデンは目を細めるでもなく、俯くでもなく、まっすぐに見下ろしていた。
「逃亡の夜、聖堂に火が上がり、暴動が起きた。偶発的なものとは思えない動きでした」
机の上に数枚の書簡が置かれる。
それだけで圧力になった。
「裏門が開いていた。見張りは一時的に外されていた。そして——鍵が、開いていた」
言葉の重さが、ひとつひとつ肩に乗る。
「……あの人は……」
思わず口をついて出た言葉だった。
「“あの人”?」
ヴァルデンは、その言葉を聞き逃さなかった。
「私はまだ誰の名も出していません。にもかかわらず、あなたは“誰か”を連想した。それはつまり――あなたの中に思い当たる人物がいる、ということでしょうか」
「……違います……っ。私は、ただ……」
「ただ、何でしょう」
エリシアは唇を噛んだ。息が詰まり、手が震える。
「その聖堂女は拘束されています。暴動の夜、煙の立ち込める区域で発見されました。取り調べにはすでに応じています」
ヴァルデンは言葉を選びながらも、深く正確に突き立ててくる。
「彼女は『鍵を開けた』と証言しています。あなたを助けたと。――事実ですか?」
エリシアは黙った。
その瞳の揺れが、沈黙以上に答えていた。
「あなたに、その意思はありましたか? 逃げ出す準備を整えていた? 誰かと通じていた?」
その言葉が、胸の奥を刺した。
あの人の顔が、煙の向こうに浮かんだ。
「違います……私は……あのまま部屋にいたら、死んでいました。
煙が、もう部屋に入ってきていた。扉が開かなければ、私は……」
「つまり、彼女はあなたの命を救ったと?」
「……はい」
「では、あなたが逃げたのは?」
「――私の責任です。助けてくれたのに、私は勝手に出て行ったんです」
ヴァルデンは小さく頷いた。視線は外さない。
「あなたは最初から王命により保護されていた。王命により“隔離”されていた。そこから出たことは、“違反”にあたる」
「私は……最初から、名前も奪われて、閉じ込められて、何も知らされず……」
震える声が、天井に吸い込まれる。
「そんな状態で逃げたことが、どうして罪になるんですか?」
「罪かどうかを決めるのは、我々ではない。陛下です」
淡々とした声。
「……ただ、彼女の処遇については、まだ決定されていません。あなたがどう話すかによって、変わる可能性もある。あなたに意図がなかったと、王に進言することもできる。だが、それは私の判断にかかっている」
ヴァルデンは一拍置いた。
「――つまり、あなたの言葉ひとつで、彼女の未来は変わるのです」
エリシアの目が揺れた。
「あなたは、誰かが罰を受けると知れば、もう逃げられない。そして今、その“罰”が、あなたの手の中にある。
――それで、充分です」
* * *
部屋の外で、革が床を踏む硬い気配が、一瞬だけした。
足音が扉の前で止まる。
エリシアは小さく息を吸い、窓から視線を戻した。
扉が開く。ヴァルデンが立っていた。
「失礼。部屋はどうですか。見晴らしがいいでしょう」
エリシアはすぐには答えなかった。
やがて視線を外に向け、低く言った。
「……とても逃げられる高さじゃありませんね」
「そうですね。逃げようとすれば、落ちるだけです」
静かな口調でそう返しながら、彼は一歩近づいた。
距離を測るように、エリシアの目を見据える。
「まだ、出ようという気がありますか?」
「私が、逃げるように見えますか?」
視線が、エリシアを射抜いた。
「それを判断するのは私です」
静かな声。圧力だけが、空気を満たす。
エリシアは反射的に後ずさりそうになったが、踏みとどまった。
「あなたの行動に、他の者たちの命がかかっているのを、お忘れなく」
感情の読み取れない顔。
その瞳の奥にあるのは、冷たさではなく、忠誠と責務だけだった。
エリシアが睨み返すと、ヴァルデンは一拍置いて距離を取った。
「今度、逃げるそぶりを見せたら、どうなるか。……わかりますね?」
それは脅しではなく、現実の重みを帯びていた。
「何かあれば、いつでも扉の外にいる侍従にお申し付けください。……ただし、あなたの行動によって、彼らの命運も変わるとだけ申し上げておきます」
エリシアは小さく震えながらも、視線を外さなかった。
ヴァルデンのまぶたが、ほんのわずかに揺れた。
「私の任務はここまでです」
ヴァルデンは少し間を置いてから、続けた。
「ただし、今後のことを伝えておきます」
エリシアは顔を上げた。
「初夏に、王の生誕祭があります」
「……それが?」
「その後、ほどなくしてあなたの誕生日が来るそうですね」
外は、まだ雪解けの風が残っていた。
けれど、「初夏」という響きが、ひどく遠く感じられた。
ここに留め置かれるということは――少なくとも、二か月はこの城で過ごすということだ。
ヴァルデンの声は淡々としていた。
「その日に、正式に聖女として擁立されます」
エリシアは息を呑んだ。
「聖堂には、戻されないのですか?」
「いいえ。王命により、あなたはここに留まります。
本来、〈フィルナ〉は任命の日まで聖堂で暮らします。しかし、聖堂での一件を受け、あなたは王命により王城で保護されることになりました」
ヴァルデンは少し間を置いた。
「火事の後、聖堂の実態が報告されました」
「……実態?」
「詳細は、王があなたに伝えるでしょう」
それ以上は語らなかった。
「なぜ……?」
「それは、陛下がお決めになることです」
ヴァルデンは窓の外を見た。
「それまでは、この部屋で過ごしていただきます」
「……閉じ込められるということですか?」
「いいえ。“保護”です」
その言葉に、エリシアは唇を噛んだ。
「王の許可なく外出することは許されませんが、城内の移動は侍女と衛兵の監視下であれば可能です」
「つまり、見張られながら生きろと」
「そう受け取るなら、そうです」
ヴァルデンはこともなげに言った。それから、少しだけ目を伏せた。
「生誕祭まで、あなたが何事もなくここで過ごされることが、王の意志です」
「……それで、私は何になるんですか?」
エリシアの声が震えた。
「聖女になって、何をするんですか?」
ヴァルデンは少しの間、黙っていた。
「それは、王があなたに直接伝えるでしょう。生誕祭の日までに謁見の指示があるはずです」
それ以上は語らなかった。
エリシアはヴァルデンを睨んだ。
「……閉じ込められて、快適に過ごす人なんていません」
少しの沈黙ののち、ヴァルデンは淡々と応えた。
「……やってみればわかります」
それから静かに言った。
「私が直接関わるのは、もうここまでです。……だが、どうか、生きていてください。それが、国の願いであると同時に――私個人の希望でもある」
それだけを言い残し、背を向けて去った。
扉が閉まり、静寂が戻った。
窓の外では、人々が歩いている。
自由そうに見えるその姿さえ、今は遠く思えた。
エリシアはしばらくそこに立ち尽くしていた。
鍵をかけられたわけでもないのに、まるで、檻の柵を見るように扉を見つめていた。
西の空がゆっくりと色を変えはじめていた。
日の名残が壁を赤く染め、やがてその光も薄れていく。
あの夜、扉を開けてくれた人のことを思い出す。
彼女は、どうなったのだろう。結局あの後、彼は教えてくれなかった。
確かめることも許されず、息をするたびに、その痛みだけが、まだ生きているように残った。




