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灯火の誓い〜孤独を選んだ少年と、名を奪われた少女の逃避行ファンタジー  作者: 水瀬 莉音
第七章 優しい檻

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第五十九話 客人

 馬車の揺れは、山を越えた頃から少し穏やかになった。

 途中で宿に寄り、沐浴や食事の機会も与えられたけれど、何を食べたのか、よく覚えていない。拘束されることも、必要以上に話しかけられることも、ひどい扱いを受けることもなかった。


 身体の自由はあっても、もう逃げられない――そう判断されていたのだろう。

 頭の中は、リセルのことでいっぱいだった。


 ――すぐに、目を覚ましただろうか。

 ――ちゃんと、逃げられただろうか。

 あの船は本当に由賊の船だったのだろうか。

 悪いほうばかり想像してしまう自分の考えを振り払うように、エリシアは小さく首を振った。


 リセルはきっと逃げた。

 そして、あの船に乗った。

 そう思いたかった。そうであってほしかった。


 なら、リセルは無事でいられる。

 黎火の郷へだって、向かえたかもしれない。

 彼と一緒に見たかった。


 そこまで考えると、胸が締めつけられ、息が浅くなった。

 外套の端を握りしめる。指先に力が入る。


 どれくらい時間が経ったのか分からない。

 数日か、それ以上だったのかもしれない。


 その日、外が急に騒がしくなった。

 車輪の音の下に、人のざわめきが混じる。

 窓の外から差し込む光が眩しくて、思わず顔を出す。


 土ではなく、石畳が太陽を反射していた。

 鐘の音。焼いたパンと煙の匂い。

 遠くで潮の香りが混じっている。


 背後に港を抱えた、にぎやかな街。

 その北に、白い城がそびえていた。

 エリシアは息を呑んだ。


「ここは……?」


 馬車の横についていた兵士が、馬上から答える。


「王都――ノルグランドです、フィルナ殿」

「王都……? 私は聖堂に戻されるのではないの?」

「王命です。聖堂へ戻ることはありません。本来なら、あなたも任命の日までは聖堂で過ごすはずでした。ですが今回は王命により王城で保護されます」


 エリシアは息を詰めた。てっきり、あの地下室に戻されると思っていた。


「近々、王の生誕祭があります。あなたは、その後に正式に“聖女”として迎えられる予定です」


 その言葉が、馬車の中に静かに落ちた。

 車輪が止まる。

 扉の向こうに影が差し、見上げた先に、城の塔が霞んで見えた。


 ――王都。

 ヴェルナの町とも、西の果ての故郷とも違う。

 石畳はまっすぐに伸び、建物は整然と並んでいた。

 白と青の外套をまとった兵たちが、規律正しく街を巡回していた。

 エリシアは思わず窓の外に見入った。

 門が開く音が響く。


 馬車が中に入ると、外のざわめきが遠のいた。

 潮の香りも、光の熱も、まるで別の空気に変わっていく。

 石造りの回廊。磨かれた床。

 足音だけが、静かに響いた。

 案内役の兵が言う。


「こちらでお休みください。後ほど、ヴァルデン将が参ります」


 エリシアは頷き、重い扉の奥へと入った。

 部屋は広く、天井が高い。

 窓から王都が見下ろせる。

 行き交う人々が小さく見えた。


 ずいぶんと高い場所だ。

 ――とても、逃げられそうにない。

 だが、逃げようという考えが浮かぶだけで、胸の奥がひやりとした。


 その瞬間、あの尋問の記憶が、ふっと蘇る。


 * * *

 


 道中に立ち寄った町の聖堂で、エリシアはまず聴取を受けた。

 ――石造りの小部屋。

 ろうそくの灯りひとつ。


 窓もなく、扉の外に兵の気配がある。

 閉じ込められてはいない。

 けれど、この空間に「出入口」があることを忘れそうになるほど、空気は静まり返っていた。


 エリシアは簡素な椅子に座っていた。

 姿勢は正しているが、背筋には緊張が走っている。

 扉が開く音。控えめな足音が近づく。黒の外套、銀の装飾。剣を帯びたまま、ヴァルデンが、無言で前に立った。


「……ご気分は落ち着かれましたか?」


 丁寧な声。だが温度はない。

 凍った湖面のような静けさがその声にあった。

 エリシアは小さく頷いた。


「ならば、いくつか確認しておきたいことがあります」

 ヴァルデンは目を細めるでもなく、俯くでもなく、まっすぐに見下ろしていた。

「逃亡の夜、聖堂に火が上がり、暴動が起きた。偶発的なものとは思えない動きでした」


 机の上に数枚の書簡が置かれる。

 それだけで圧力になった。


「裏門が開いていた。見張りは一時的に外されていた。そして——鍵が、開いていた」

 言葉の重さが、ひとつひとつ肩に乗る。


「……あの人は……」

 思わず口をついて出た言葉だった。


「“あの人”?」

 ヴァルデンは、その言葉を聞き逃さなかった。


「私はまだ誰の名も出していません。にもかかわらず、あなたは“誰か”を連想した。それはつまり――あなたの中に思い当たる人物がいる、ということでしょうか」

「……違います……っ。私は、ただ……」

「ただ、何でしょう」


 エリシアは唇を噛んだ。息が詰まり、手が震える。


「その聖堂女は拘束されています。暴動の夜、煙の立ち込める区域で発見されました。取り調べにはすでに応じています」

 ヴァルデンは言葉を選びながらも、深く正確に突き立ててくる。

「彼女は『鍵を開けた』と証言しています。あなたを助けたと。――事実ですか?」


 エリシアは黙った。

 その瞳の揺れが、沈黙以上に答えていた。


「あなたに、その意思はありましたか? 逃げ出す準備を整えていた? 誰かと通じていた?」


 その言葉が、胸の奥を刺した。

 あの人の顔が、煙の向こうに浮かんだ。


「違います……私は……あのまま部屋にいたら、死んでいました。

 煙が、もう部屋に入ってきていた。扉が開かなければ、私は……」

「つまり、彼女はあなたの命を救ったと?」

「……はい」


「では、あなたが逃げたのは?」

「――私の責任です。助けてくれたのに、私は勝手に出て行ったんです」


 ヴァルデンは小さく頷いた。視線は外さない。

「あなたは最初から王命により保護されていた。王命により“隔離”されていた。そこから出たことは、“違反”にあたる」


「私は……最初から、名前も奪われて、閉じ込められて、何も知らされず……」

 震える声が、天井に吸い込まれる。

「そんな状態で逃げたことが、どうして罪になるんですか?」


「罪かどうかを決めるのは、我々ではない。陛下です」

 淡々とした声。

「……ただ、彼女の処遇については、まだ決定されていません。あなたがどう話すかによって、変わる可能性もある。あなたに意図がなかったと、王に進言することもできる。だが、それは私の判断にかかっている」


 ヴァルデンは一拍置いた。

「――つまり、あなたの言葉ひとつで、彼女の未来は変わるのです」


 エリシアの目が揺れた。


「あなたは、誰かが罰を受けると知れば、もう逃げられない。そして今、その“罰”が、あなたの手の中にある。


 ――それで、充分です」


 * * *


 部屋の外で、革が床を踏む硬い気配が、一瞬だけした。

 足音が扉の前で止まる。

 エリシアは小さく息を吸い、窓から視線を戻した。

 扉が開く。ヴァルデンが立っていた。


「失礼。部屋はどうですか。見晴らしがいいでしょう」


 エリシアはすぐには答えなかった。

 やがて視線を外に向け、低く言った。


「……とても逃げられる高さじゃありませんね」

「そうですね。逃げようとすれば、落ちるだけです」


 静かな口調でそう返しながら、彼は一歩近づいた。

 距離を測るように、エリシアの目を見据える。


「まだ、出ようという気がありますか?」

「私が、逃げるように見えますか?」


 視線が、エリシアを射抜いた。


「それを判断するのは私です」


 静かな声。圧力だけが、空気を満たす。

 エリシアは反射的に後ずさりそうになったが、踏みとどまった。


「あなたの行動に、他の者たちの命がかかっているのを、お忘れなく」


 感情の読み取れない顔。

 その瞳の奥にあるのは、冷たさではなく、忠誠と責務だけだった。

 エリシアが睨み返すと、ヴァルデンは一拍置いて距離を取った。


「今度、逃げるそぶりを見せたら、どうなるか。……わかりますね?」


 それは脅しではなく、現実の重みを帯びていた。


「何かあれば、いつでも扉の外にいる侍従にお申し付けください。……ただし、あなたの行動によって、彼らの命運も変わるとだけ申し上げておきます」


 エリシアは小さく震えながらも、視線を外さなかった。

 ヴァルデンのまぶたが、ほんのわずかに揺れた。


「私の任務はここまでです」

 ヴァルデンは少し間を置いてから、続けた。


「ただし、今後のことを伝えておきます」

 エリシアは顔を上げた。


「初夏に、王の生誕祭があります」

「……それが?」

「その後、ほどなくしてあなたの誕生日が来るそうですね」


 外は、まだ雪解けの風が残っていた。

 けれど、「初夏」という響きが、ひどく遠く感じられた。

 ここに留め置かれるということは――少なくとも、二か月はこの城で過ごすということだ。


 ヴァルデンの声は淡々としていた。

「その日に、正式に聖女として擁立されます」


 エリシアは息を呑んだ。


「聖堂には、戻されないのですか?」

「いいえ。王命により、あなたはここに留まります。

 本来、〈フィルナ〉は任命の日まで聖堂で暮らします。しかし、聖堂での一件を受け、あなたは王命により王城で保護されることになりました」

 ヴァルデンは少し間を置いた。


「火事の後、聖堂の実態が報告されました」

「……実態?」

「詳細は、王があなたに伝えるでしょう」


 それ以上は語らなかった。

「なぜ……?」

「それは、陛下がお決めになることです」


 ヴァルデンは窓の外を見た。

「それまでは、この部屋で過ごしていただきます」

「……閉じ込められるということですか?」

「いいえ。“保護”です」


 その言葉に、エリシアは唇を噛んだ。


「王の許可なく外出することは許されませんが、城内の移動は侍女と衛兵の監視下であれば可能です」

「つまり、見張られながら生きろと」

「そう受け取るなら、そうです」


 ヴァルデンはこともなげに言った。それから、少しだけ目を伏せた。


「生誕祭まで、あなたが何事もなくここで過ごされることが、王の意志です」

「……それで、私は何になるんですか?」

 エリシアの声が震えた。

「聖女になって、何をするんですか?」


 ヴァルデンは少しの間、黙っていた。


「それは、王があなたに直接伝えるでしょう。生誕祭の日までに謁見の指示があるはずです」


 それ以上は語らなかった。

 エリシアはヴァルデンを睨んだ。

「……閉じ込められて、快適に過ごす人なんていません」


 少しの沈黙ののち、ヴァルデンは淡々と応えた。

「……やってみればわかります」


 それから静かに言った。

「私が直接関わるのは、もうここまでです。……だが、どうか、生きていてください。それが、国の願いであると同時に――私個人の希望でもある」


 それだけを言い残し、背を向けて去った。

 扉が閉まり、静寂が戻った。


 窓の外では、人々が歩いている。

 自由そうに見えるその姿さえ、今は遠く思えた。

 エリシアはしばらくそこに立ち尽くしていた。

 鍵をかけられたわけでもないのに、まるで、檻の柵を見るように扉を見つめていた。


 西の空がゆっくりと色を変えはじめていた。

 日の名残が壁を赤く染め、やがてその光も薄れていく。


 あの夜、扉を開けてくれた人のことを思い出す。

 彼女は、どうなったのだろう。結局あの後、彼は教えてくれなかった。

 確かめることも許されず、息をするたびに、その痛みだけが、まだ生きているように残った。


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