第五十八話 連行
止める間もなかった。
気づいたときには、あの黒い軍服の男がリセルの鳩尾を殴りつけていた。
湿った土の上に、リセルが崩れ落ちる。
その瞬間、エリシアの中で、すべての音が消えた。
「リセル!」
駆け寄ろうとしたのに、腕を掴まれ、体が持ち上がる。
「放して! リセル!」
冷たい風が頬を刺した。
彼の手が、地面の上でかすかに動く――まだ、生きている。
近づきたかった。確かめたかった。けれど、兵士たちの腕はびくともしない。自分の声も、風に散って届かない。
「さあ、行きましょう。フィルナ殿」
死刑の宣告みたいな、冷たい声。
そのまま両脇から腕を取られ、ほとんど地面に足がつかない状態で街道脇へ引きずられる。
木立の陰には、一台の馬車が待機していた。
抵抗する間もなく中へ押し込まれる。
すぐに扉が閉まり、窓を覆う厚い布が下ろされた。
「待って!」
エリシアは扉へ手を伸ばした。
扉を叩く。
何度叩いても、びくともしない。
窓の隙間から外を覗こうとしたが、もうリセルの姿は見えなかった。
(だめ、あんなところに倒れていたら……)
リセルはユーファの民だ。
あの炎も殺戮も、彼のせいではないのに――。
でも、あそこにいたら罪を着せられてしまう。
そう思っても、もう戻れない。
自分はもう捕まってしまったのだ。
木の匂い。鉄の軋む音。
閉ざされた窓。
扉に添えていた両手を、力なく下ろした。
――リセル。
倒れた姿が、瞼の裏に焼きついて離れない。
そのとき、扉が開く音がした。
「あの少年が心配ですか」
低く、冷たい声。
エリシアは顔を上げた。冷たく無機質な深灰の瞳と目が合う。
「殺してはいません。いずれ目を覚ますでしょう」
近くで見下ろされると、より恐ろしく感じたが、それでも睨みかえした。
「あんな酷いことをしなくても、私はもうついていくつもりでした」
「では、聞きますが。彼は普通の少年ですか?」
「……それは」
「火を出されてはかないませんから。先手を打ったまでです」
「あの人は、何もしていません」
「それは、駆けつけた警備兵が判断することです。命に別状はない。……それで十分でしょう」
言い返す言葉が出なかった。
「王都までの道のりは長い。無駄な心配はせず、休んでおくことです」
穏やかな声だった。
けれど、それは命令に等しい響きだった。
男は扉を閉めると、馬車から離れた。
やがて馬上で出発の号令がかかる。
木枠が軋み、体がわずかに浮く。
馬車がゆっくりと動き出した。
エリシアは力なく座席の隅へ身を寄せた。
そのまま膝を抱え、顔を伏せた。
(あの時と、同じだ……)
揺れに合わせるように、記憶がじわりと蘇ってくる。
――四年前。
母と一緒に、ラファス兵に連れて行かれた日のこと。
冬の終わり。灰色の雲の間から、冷たい日差しがこぼれていた。
村の広場に、黒革の手袋を嵌めた騎士たちが現れた。
母の指先は冷たく、それでいて汗ばんでいた。
「この村に、癒しの力を持つ者がいると聞いた」
その声は、冬の風よりも冷たく響いた。
母の手が、ゆっくりと自分の指を握る。
「あっ、それなら知ってるよ!」
子どもの声が沈黙を破った。
エリシアの全身が凍りつく。
「セリナさん、すごいんだよ! この前、転んで血が出た時も、こうやって手を当てたら、すぐに治ったんだ!」
村人たちの視線が、一斉にこちらを向いた。
その静けさこそが、すべてを語っていた。
「……違います。ただの手当てです」
母の声は震えていた。
「ですが、この子はそうは言っていません」
騎士は穏やかに笑った。
その笑みが、何より恐ろしかった。
「王の庇護のもとで、その力を正しく使うのが本来のあり方です」
母の手が、ぎゅっとエリシアの手を握る。
「噂のような力があるのなら、連れてくるようにとの仰せだ」
誰も何も言わなかった。
「……では、私だけ参ります」
母は静かに言った。
「何もできないことが分かったら、返してくださるでしょうか」
騎士の視線が母から、隣に立つエリシアへと移る。
「お前の隣にいるのは娘か?」
「……はい」
「同じ血筋のものも連れていく」
その瞬間、逃げ場が消えた。
兵士たちが動き、母の肩を押さえる。
エリシアは母の手を握ったまま歩かされた。
広場を抜け、ぬかるんだ道を進む。
靴が沈むたび、ぐじゅっと音を立てた。
ふと振り返る。
村の家々の隙間から、誰かがこちらを見ていた。
誰も、止めてくれなかった。
灰色の空の下、荷車が待っていた。
粗い木の板。幌のない空。
母の肩に小さく身を寄せる。
どこへ行くのかもわからないまま、ただ揺られていく――。
馬車が大きく揺れ、エリシアははっと我に返った。
冷たい風が窓の隙間から吹き込み、頬を撫でる。
空気の匂いが違う。
あの頃より、もっと遠く、もっと冷たい。
聖堂から逃げ出したあの日から、こうなることは決まっていたのかもしれない。
――あの夜。
煙が扉の隙間から流れ込み、息ができなかった。
扉を叩いても、誰も来ない。
諦めかけたとき、鍵の音がした。
「早く……!」
聖堂女の声。
名前も知らない。
でも、その人が鍵を開けてくれた。
「ありがとう」
とそれだけ言って、煙に押され、走り出した。
振り返ることもできなかった。
(あの人は、どうなったんだろう)
逃がしてくれたのに、結局元居た場所へ――。
握りしめた拳を、そっと開く。
掌には、何も残っていなかった。
戻れば、まだ、間に合う――。
あの男の言葉が、ただ虚しく反響していた。




