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灯火の誓い〜孤独を選んだ少年と、名を奪われた少女の逃避行ファンタジー  作者: 水瀬 莉音
第七章 優しい檻

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第五十八話 連行

 止める間もなかった。


 気づいたときには、あの黒い軍服の男がリセルの鳩尾を殴りつけていた。

 湿った土の上に、リセルが崩れ落ちる。

 その瞬間、エリシアの中で、すべての音が消えた。


「リセル!」

 駆け寄ろうとしたのに、腕を掴まれ、体が持ち上がる。

「放して! リセル!」

 冷たい風が頬を刺した。


 彼の手が、地面の上でかすかに動く――まだ、生きている。

 近づきたかった。確かめたかった。けれど、兵士たちの腕はびくともしない。自分の声も、風に散って届かない。


「さあ、行きましょう。フィルナ殿」

 死刑の宣告みたいな、冷たい声。

 そのまま両脇から腕を取られ、ほとんど地面に足がつかない状態で街道脇へ引きずられる。


 木立の陰には、一台の馬車が待機していた。

 抵抗する間もなく中へ押し込まれる。

 すぐに扉が閉まり、窓を覆う厚い布が下ろされた。


「待って!」

 エリシアは扉へ手を伸ばした。

 扉を叩く。

 何度叩いても、びくともしない。

 窓の隙間から外を覗こうとしたが、もうリセルの姿は見えなかった。


(だめ、あんなところに倒れていたら……)

 リセルはユーファの民だ。

 あの炎も殺戮も、彼のせいではないのに――。

 でも、あそこにいたら罪を着せられてしまう。


 そう思っても、もう戻れない。

 自分はもう捕まってしまったのだ。

 木の匂い。鉄の軋む音。

 閉ざされた窓。


 扉に添えていた両手を、力なく下ろした。

 ――リセル。

 倒れた姿が、瞼の裏に焼きついて離れない。


 そのとき、扉が開く音がした。

「あの少年が心配ですか」

 低く、冷たい声。


 エリシアは顔を上げた。冷たく無機質な深灰の瞳と目が合う。

「殺してはいません。いずれ目を覚ますでしょう」

 近くで見下ろされると、より恐ろしく感じたが、それでも睨みかえした。


「あんな酷いことをしなくても、私はもうついていくつもりでした」

「では、聞きますが。彼は普通の少年ですか?」

「……それは」


「火を出されてはかないませんから。先手を打ったまでです」

「あの人は、何もしていません」

「それは、駆けつけた警備兵が判断することです。命に別状はない。……それで十分でしょう」


 言い返す言葉が出なかった。

「王都までの道のりは長い。無駄な心配はせず、休んでおくことです」

 穏やかな声だった。

 けれど、それは命令に等しい響きだった。


 男は扉を閉めると、馬車から離れた。

 やがて馬上で出発の号令がかかる。

 木枠が軋み、体がわずかに浮く。

 馬車がゆっくりと動き出した。


 エリシアは力なく座席の隅へ身を寄せた。

 そのまま膝を抱え、顔を伏せた。


(あの時と、同じだ……)



 揺れに合わせるように、記憶がじわりと蘇ってくる。

 ――四年前。

 母と一緒に、ラファス兵に連れて行かれた日のこと。

 冬の終わり。灰色の雲の間から、冷たい日差しがこぼれていた。


 村の広場に、黒革の手袋を嵌めた騎士たちが現れた。

 母の指先は冷たく、それでいて汗ばんでいた。


「この村に、癒しの力を持つ者がいると聞いた」


 その声は、冬の風よりも冷たく響いた。

 母の手が、ゆっくりと自分の指を握る。


「あっ、それなら知ってるよ!」


 子どもの声が沈黙を破った。

 エリシアの全身が凍りつく。


「セリナさん、すごいんだよ! この前、転んで血が出た時も、こうやって手を当てたら、すぐに治ったんだ!」


 村人たちの視線が、一斉にこちらを向いた。

 その静けさこそが、すべてを語っていた。


「……違います。ただの手当てです」

 母の声は震えていた。

「ですが、この子はそうは言っていません」

 騎士は穏やかに笑った。


 その笑みが、何より恐ろしかった。

「王の庇護のもとで、その力を正しく使うのが本来のあり方です」


 母の手が、ぎゅっとエリシアの手を握る。

「噂のような力があるのなら、連れてくるようにとの仰せだ」

 誰も何も言わなかった。

「……では、私だけ参ります」


 母は静かに言った。

「何もできないことが分かったら、返してくださるでしょうか」

 騎士の視線が母から、隣に立つエリシアへと移る。


「お前の隣にいるのは娘か?」

「……はい」

「同じ血筋のものも連れていく」

 その瞬間、逃げ場が消えた。


 兵士たちが動き、母の肩を押さえる。

 エリシアは母の手を握ったまま歩かされた。

 広場を抜け、ぬかるんだ道を進む。

 靴が沈むたび、ぐじゅっと音を立てた。


 ふと振り返る。

 村の家々の隙間から、誰かがこちらを見ていた。

 誰も、止めてくれなかった。


 灰色の空の下、荷車が待っていた。

 粗い木の板。幌のない空。

 母の肩に小さく身を寄せる。

 どこへ行くのかもわからないまま、ただ揺られていく――。



 馬車が大きく揺れ、エリシアははっと我に返った。

 冷たい風が窓の隙間から吹き込み、頬を撫でる。

 空気の匂いが違う。

 あの頃より、もっと遠く、もっと冷たい。

 聖堂から逃げ出したあの日から、こうなることは決まっていたのかもしれない。


 ――あの夜。

 煙が扉の隙間から流れ込み、息ができなかった。

 扉を叩いても、誰も来ない。

 諦めかけたとき、鍵の音がした。


「早く……!」

 聖堂女の声。

 名前も知らない。

 でも、その人が鍵を開けてくれた。


「ありがとう」

 とそれだけ言って、煙に押され、走り出した。

 振り返ることもできなかった。


(あの人は、どうなったんだろう)


 逃がしてくれたのに、結局元居た場所へ――。

 握りしめた拳を、そっと開く。

 掌には、何も残っていなかった。


 戻れば、まだ、間に合う――。


 あの男の言葉が、ただ虚しく反響していた。



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