第六十六話 軟禁命令
その日は、春の光が薄かった。間もなく初夏が来るのだと感じさせるようだった。
ただ、城の中庭に吹き込む風が、どこか落ち着かない匂いを運んでいた。
誰かに、見られているような。そんな気配。すれ違う黒衛の視線が張り付くように追ってくる気がしたが、エリシアは気づかないようにした。
いつものように兵舎へ向かう。
ヴィカリウスは、兵舎での癒しについて、言及した。けれど、それからもエリシアは訓練場に通うことをやめられなかった。
一日中部屋にこもっていると不安ばかりが押し寄せる。それに、癒しはやるほどに上達し、フェルディエルから教わった、力を注ぐのではなくとどめるというコツが掴めてきて、やりがいを感じていた。
「痛みは、どうですか?」
いつものようにリュミエと白衛達と兵舎にきていたエリシアは、一人の見習い兵士の傷口を確認していた。
「フィルナ様、お水持ってきました」
リュミエが小走りで駆け寄ってくる。
その手には、清潔な布と水が入った器。
「ありがとう、リュミエ」
エリシアは笑顔で受け取った。
浅い切り傷だった。血はもう止まっている。
(これくらいなら、力を使わなくても大丈夫)
清潔な布を取り、丁寧に巻いていく。
癒しの力は、むやみに使わない。
自分を削らないように――フェルディエルとの約束。
本当に必要な時だけ、力を使う。
「そこまで巻かなくても、もう平気ですよ」
若い兵士が照れくさそうに笑う。
「油断するとまた開きますよ。ちゃんとおとなしくしていてくださいね?」
エリシアは落ち着いた声でそう言いながら、布を丁寧に締めた。
「フィルナ様に手当てしてもらったって、自慢してるんですよ」
隣の兵がこそこそ笑う。
「私には名前があります。フィルナなんて呼ばないでください」
「でも……あなたがいるだけで、宿舎の空気が違うんです」
エリシアが困ったように笑うと、兵士たちの表情が一層和らいだ。
「フィルナ殿!」
バルクの声が、宿舎の入り口から響いた。
振り向くと、レオンが若い兵士を支えている。
腕から血が滴り、顔が青白い。
「訓練中の事故です。深い傷で……」
エリシアは立ち上がり、駆け寄った。
「こっちへ。座らせて」
兵士を椅子に座らせ、傷を確認する。
深い。このままでは危ない。
(これは、力を使わないと)
「少し痛みますが、すぐに楽になります」
エリシアは手を傷にかざした。淡い光が広がる。兵士の顔から、苦痛の色が消えていく。 傷口が、ゆっくりと閉じていく。
その瞬間、視界がわずかに揺れた。
額を押さえ、深く深呼吸する。
「フィルナ殿!」
バルクが駆け寄る。
「大丈夫、ちょっとくらっとしただけ」
かすれた声で答える。
眩暈はすぐに消えた。兵士の傷は、完全に癒えていた。
「ありがとうございます……」
兵士が震える声で言う。
エリシアは小さく頷き、そっと手を引いた。
(やっぱり、大きな傷は、まだ負担がかかる)
フェルディエルの言葉が、胸をよぎる。
『無理をしてはいけない』
その言葉を、また胸に刻む。まだ練習が必要――それだけだ。
――そのとき
馬小屋の奥で、わずかに音がした。振り返る前に、場の空気がすっと冷えこむ。誰かが息を呑み、笑い声はぴたりと止まった。
足音は静かで整っていた。だが、それが引き連れてきた気配は、場にいた誰もが知っている――そして、避けてきたものだった。
ヴァルデンだった。
黒衛の黒衣をまとい、部下を従えて、柱の陰からゆっくりと現れる。
その姿を見た瞬間、兵士たちの間に緊張が走る。
「……黒衛の将」
「なんでここに……」
誰かの小さな呟きを最後に、誰もが言葉を飲み込んだ。笑っていた空気は霧散し、ただの静けさが広がる。
リュミエが、エリシアの袖をぎゅっと掴んだ。
その手が、小さく震えている。
エリシアはそっと、リュミエの手に自分の手を重ねた。
「……大丈夫」
囁きは小さいのに、揺れはなかった。
ただ真っ直ぐに、ヴァルデンを見返していた。
「……また来られるとは思いませんでした。もう、直接関わることはないと言っていたのに」
「任務が変わったのです」
その言葉に、ヴァルデンの視線が兵士たちを横切った。
触れたわずかな気配だけで、兵は本能的に後退し始める。
命令はない。声も発していない。
それでも彼らは、黒衛から距離を取る。
――関わらない。
それが、この国で兵として生き残るための常識だった。
「つまり、“王の都合”ですね」
兵たちが目を伏せる中、エリシアだけは視線を逸らさなかった。
黒衛の圧に怯える様子もなく、ただ静かにヴァルデンを見つめている。
「陛下からの命令を伝えにきました」
ヴァルデンの声が落ちる。
「――今後、あなたの行動は制限される。出歩きは侍女と衛兵の監視下でのみ許可され、許可なく宿舎、厨房、外庭へ出入りすることは禁じられる。違反すれば、即時の移送措置が下る」
言葉は冷たい。
だがその裏にあるものも、エリシアには分かっていた。
バルクが一歩前に出た。
「お待ちください。フィルナ殿は、これまで王命に逆らうことは何もしていません」
低く、でも確かな声。
剣に手をかけてはいないが、その立ち方は明らかに――守る姿勢だった。
ヴァルデンの視線が、バルクに向く。
「白衛、立場をわきまえろ。奇跡の力をこのように無造作に使うことは、陛下もお望みではない」
その声は静かだったが、氷のように冷たかった。
「……失礼しました」
バルクは一歩下がったが、視線は外さなかった。
レオンもまた、わずかに拳を握りしめている。
何か言いたげだったが、唇を噛んで黙っていた。
エリシアは微かにまばたきし、そして口元だけで笑った。
「……ずいぶん、厳重なんですね。私がどこで誰と話すか、誰を癒すか……そんなに王は気になるんでしょうか?」
「あなたが意図せずとも、人はあなたに心を寄せる」
「私は……ただ、癒しているだけです」
「その力が問題なのではありません。人は奇跡を見れば、その奇跡を起こした者を崇める」
ヴァルデンは一度だけ言葉を切った。
「その先が王ではなくあなたになれば、秩序は揺らぐ。それを陛下は危惧しておられる」
エリシアは少し視線を伏せてから、馬のたてがみにそっと手を添えた。
「……臆病ですね」
その声は、驚くほど静かだった。
「王座に座っているはずの人が、自分の地位が、私のような娘ひとりで揺らぐと本気で思っているなんて。それとも……私が何か、恐ろしいものに見えているのでしょうか?」
その言葉が落ちた瞬間、ヴァルデンの目が、ほんのわずかに揺れた。まばたきにも似た動き。剣を交えたわけでもないのに、静かに刺さった一撃だった。すぐに表情を戻す。
だが、一瞬遅れてからの言葉は、どこか重たかった。
「……王座は、守られるものだ。あなたは、静かに燃える。それは、誰かにとっては──火種だ」
「でも、私自身が火を放った覚えはありません。たった一言も、誰かに戦えなんて言っていません」
「……それでも、“始まる”ことがある」
わずかに間を置く。
「管理されぬ奇跡は、人心を乱す。それは、やがて争いを生む」
その言葉に、エリシアはしばらく黙った。やがて、ゆっくりとヴァルデンを見上げる。
「なら、どうぞ。閉じ込めてください。私が歩くことも話すことも、王が許さないというなら。でも、ずいぶん、不思議なことをするんですね」
「意向は確かに伝えました」
エリシアは下唇を噛み、視線を足元に落とした。
馬のたてがみにそっと触れ、ひとつ息を吐く。
ヴァルデンは一歩下がり、馬小屋の入口へ静かに視線を送った。
その合図に応じて、黒衛の黒衣を纏う影が二つ、音を断つように現れた。
若いほうが一歩踏み込んだ瞬間、足音より先に冷たい気配が場を撫でる。
誰も動かなかった。
もう一人は、重く、揺るぎない足取りで前へ出る。
鉄を思わせる気配が、床へ沈んだ。
若い兵士の顔に、見覚えがあった。
(――護送の途中、ヴァルデンが呼んでいた名。確か……ルシェ)
ルシェが一歩前へ出た。
「……フィルナ殿。今より、部屋に戻ってもらいます。以降の移動は、王の許可を受けた者の監督下でのみ行われる」
「……そう。そうやって、連れて行くんですね」
「王命です」
空気が張りつめた。
それでもエリシアは怯えるでもなく、ただまっすぐにヴァルデンを見つめていた。
「……それには慣れています。もう驚きはしません」
その声には、どこか乾いた響きがあった。
エリシアが何かを言おうと口を開いた、そのときだった。
「フィルナ様は、何も悪いことはしてません!」
一瞬、場が凍りついた。
「リュミエ!」
レオンが制止しようとしたが、リュミエは続けた。
「ただ、みんなを癒してくださっただけです。それのどこが悪いんですか!」
その声は震えていたが、必死だった。
ヴァルデンの視線が、ゆっくりとリュミエに向く。
その視線だけで、場の空気が凍った。
「下働きが、黒衛に口を利くか」
ヴァルデンの声は、驚くほど静かだった。
「お前——リュミエといったな」
名前を呼ばれた瞬間、リュミエの体が硬直した。
「ヴェルナ使節団への荷の失態。フィルナ殿への無許可の接近。そして今、王命への異議」
一つひとつの言葉が、罪状を列挙していく。
「三度も、だ」
ヴァルデンが一歩近づく。
「黒衛は、三度の違反に対しては——尋問を行う」
低く、続けた。
「規律を崩せば、誰かが血を流すことになる」
その言葉に、レオンが息を呑んだ。
バルクの肩がわずかに震え、指先が剣の柄へと伸びかける。
だが、触れる寸前で止まった。
動けば、もっと悪くなる。
彼は、その一線だけは本能で理解していた。
「尋問を受けたいのか?」
リュミエの唇が震えた。
声が出ない。
エリシアが、リュミエの前に立った。
「彼女に責任はありません。私が、ここに来たんです」
ヴァルデンは、わずかに視線をエリシアに移した。
「……フィルナ殿がそう仰るなら」
そして、リュミエに最後の一瞥をくれた。
「今回は、見逃す。だが――次はない」
その言葉の重みに、リュミエは膝が崩れそうになった。
レオンが、そっとリュミエの腕を支えた。
エリシアはゆっくりと、そばの馬にもう一度手を置いてから言った。
「そうやって、閉じ込めても、名前を奪っても……私は自分自身を忘れたりはしません。黙って従うだけのフィルナには、絶対になりません」
黒衛の兵士が動こうとした瞬間、ヴァルデンがわずかに手を挙げた。
影のような二つの気配が、刃を収めるように静止した。
そのわずかな仕草に、兵士たちもエリシアも、目を留めた。
「いいえ、あなたは従うしかない。そして……そうさせるのが、私の仕事です」
「それなら、簡単な仕事ではないですね。……苦労すると思いますよ」
エリシアは歩みを進め、黒衛の兵士の間を自ら通った。
誰に手を引かれるでもなく、まっすぐに、静かに。
扉の前で、エリシアは振り返った。
リュミエが、涙を堪えている。
バルクとレオンは、拳を握りしめたまま立っていた。
エリシアは小さく笑った。
「……ありがとう。みんな」
それだけ言って、扉をくぐった。
リュミエが、堪えきれずに泣き出した。
「フィルナ様……」
レオンが、リュミエの肩を抱く。
「……すまない。俺たちには、何もできなかった」
バルクは黙って、拳を震わせていた。
* * *
馬小屋の扉の向こうへ、エリシアは迷いなく歩いた。
黒衛の二人が左右につく。
その背は、誰にも触れられず、ただ静かに前へ進んでいく。
ヴァルデンは、その小さな背を見送った。
(……年端もいかぬ娘の言葉に、心が波立つとは)
春の風が入り、干し草がかすかに揺れた。
扉が閉まる音が、胸の奥に残った。
(……血の匂いを、まだ知らないのだ)
残された小屋には、馬の吐息と風の音だけ。
ヴァルデンは遅れて歩き出した。
石畳の廊下は冷たく、足音だけが規則正しく響く。
しばらくして、上階のほうで扉の閉まる音が、かすかに響いた。
少女が部屋へ入ったのだろう。
(――命令は完了した。彼女は王の手の中にある。それでいい。そうであるべきだ)
それでも。
『私は自分自身を忘れたりはしません』
声が、耳に残る。
ヴァルデンは立ち止まり、手袋越しに拳を握った。
目を閉じ、そして開く。
次の瞬間には、いつもの黒衛の将の顔に戻っていた。
彼は何も言わず、廊下の闇へ歩いていった。




