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灯火の誓い〜孤独を選んだ少年と、名を奪われた少女の逃避行ファンタジー  作者: 水瀬 莉音
第六章 アルバトロスの影

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挿話 火の番

 ヴェルナに越境してから数日。

 ファロス港へ向かう旅の途中だった。


 リセルが手のひらから落とした火が薪に移り、オレンジ色の焚き火となって藍色の夜の中に小さく爆ぜていた。


 春になり、野営も命の危険があるほど冷え込まなくなった。

 宿を使えば足がつくかもしれない。

 だから夜は今も森の中で過ごすことが多い。


 エルカの郷で用意してもらった簡易テントは狭く、二人でようやく横になれる広さしかなかった。

 エリシアには少し寒い思いをさせている気がした。


 その日の夜の森は静かだった。

 夜は心が静かになる。

 ひんやりと肌をなでる空気さえも、澄んで心地よく感じる。


 リセルにとって、一日の終わりに火を眺める時間は心を整える時間でもあった。

 炎を見ていると、頭の中のざわめきが少しずつ沈んでいく。

 それは、エリシアが旅に当たり前のようについてくるようになってからも変わらない。

 変わったとすれば、眠る時、テントは一人では使えないということ。


 さすがにそれは、意識するだろ……。


 湿った土の匂いと、焚き火の煙だけがゆっくり流れていく。

 林の葉擦れの音だけが、藍色の夜にさわさわと響いている。

 銀の星々のあいだを薄い雲が流れていくのが、月明かりに照らされておぼろげに見えていた。


「そろそろ寝ようかな……」


 少し眠そうに目をこするエリシア。


「……先、寝てて」


 火を見つめたまま、リセルが言った。


「……リセルももう休まないと」


「ちゃんと火の番をしてから寝るから。だから寝ててくれ」


 少し間を置いて、低く付け足す。


「……そのほうが、落ち着く」


 最後のほうは消え入りそうに掠れていた。

 エリシアは毛布を抱えたまま、リセルを見る。

 リセルはいつも夜遅くまで外を見張っている。


 だいたいエリシアが寝る時には座って火を見ているし、目を覚ました時には先に朝のスープの準備をしている。

 いつ寝ているのだろうと、エリシアは少し心配していた。

 横顔は焚き火に照らされて赤く揺れていた。


「でも……ちゃんと寝る? というか……リセルっていつもちゃんと寝てるの?」

「寝てる」

「本当に?」

「寝るって」


 ぶっきらぼうに返して、薪を火にくべる。


 同時に入るのは気まずいだろ。

 エリシアが寝てしまってからそっと端にうずくまって寝ている。

 朝はどうせすぐ目が覚める。

 別に無理しているわけじゃない。


 いろいろ言いたかったけれど、結局うまく言葉にならなかった。

 エリシアはちょっと肩をすくめ、上をちらりと見たが、諦めたように小さく息を吐いた。


「……わかった」


 テントに入る。

 焚き火が小さく爆ぜた。

 しばらくは布ずれの音や姿勢が定まらないのか身じろぎする気配が続いたが、やがてそれは規則的な寝息に変わる。


 リセルは、それを確かめてからそっと自分もテントに入った。


 ちゃんと、そこにいる。


 それを感じながら目を閉じると、不思議と安心した。


 * 


 どれくらい眠っていたのだろう。

 エリシアは、テントから差し込む朝のかすかな光に、ふと目を覚ます。

 焚き火の匂いが、まだ薄く残っていた。


 薄暗いテントの中。

 隣に、人の気配があった。

 リセルだった。


(ちゃんと寝てる……)


 少しだけ肩の力が抜ける。

 自分の方が早く目を覚ますことがなかっただけで、リセルはちゃんと寝ていたんだ。


 そう思うと、口元が緩んだ。

 それだけのことなのに胸がきゅっとなった。


 ちゃんと、いる。

 寝てる……。


 リセルはそう広くないテントの反対端のほうで、背を丸めるようにして眠っていた。


 毛布が半分ほど落ちている。

 毛布から出てしまっている薄い肩が寒そうだった。


 エリシアはそっと身を起こす。

 起こさないように、静かに毛布を引き上げた。


 ――その瞬間。


「……ん」


 眠ったまま、リセルが毛布をぎゅっと掴む。

 そのまま身体を丸めて、包まり直した。

 まるで、いもむしみたいだった。

 思わず、エリシアの口元が緩む。


「ねぇ、知ってる……?」


 耳元で小さく囁いた。


「リセル、自分で思ってるより寒がりだよ」


 返事はない。

 規則正しい寝息だけが返ってくる。


「私、知ってるよ……ほんとは寒いの、苦手なんだよね」


 毛布に包まったまま、リセルは小さく寝返りを打った。

 その姿を見ているうちに、エリシアも少し眠たくなる。


 そっと傍に横になる。

 さっきより、少しだけ近く。


 焚き火の残り香。

 静かな寝息。

 早朝の空気はもう、冷たくなかった。


 エリシアはいつの間にか眠りに落ちた。

 二人の寝息が重なる。


 * 


 少し後。

 先に目を覚ましたのは、リセルだった。

 ぼんやり目を開ける。


「……っ!?」


 目の前に、エリシアの寝顔があった。

 光の色みたいな長いまつ毛。

 少しだけ血色がない白い顔。


 柔らかな淡い金色の髪が頬にかかり、顔を半分隠していた。

 息をするたびに上下する細い肩。


 なによりも近い。

 思わず息を止める。

 静かな寝息。


 近い。

 近すぎる。


「なんだこいつ……」


 小さく呟く。


「……寒がりか?」


 自分の毛布をそっと引き寄せる。

 起こさないように、静かにエリシアへ掛けた。


 それから、なるべく音を立てないようテントを出る。


 朝の空気がまだひんやりしていた。

 木々の隙間から、淡い光が落ちている。


 葉の影がちらちらと揺れる。

 眩しいほどではない。

 やわらかな木漏れ日だった。


 リセルは小さく伸びをした。


「……今日は晴れそうだな」


 鍋に水を入れようとして、ふと手を止める。



『リセルー! いつまでやってんだ!』


 不意に、声が蘇る。


『朝飯できてるぞ!』


『早く降りてこい』


 麓の小屋から届くフィンの笑い声。

 草をはむトナカイ。

 白い雪原。

 冷たい雪の匂い。

 

 もうあの朝は戻らない。


 でも。


 リセルは目を細めた。


 今は――

 火の番をする理由がある。


 朝の光が、静かに木々の間で揺れていた。



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