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灯火の誓い〜孤独を選んだ少年と、名を奪われた少女の逃避行ファンタジー  作者: 水瀬 莉音
第六章 アルバトロスの影

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第五十七話 闇の向こう

 こうして、生誕祭までにスイが戻ってくることはなかった。

 日は過ぎ、残り一か月を切ったころだった。剣が手になじみ、ラグドの踏み込みの速さについていけるようになっていた。

 その日、ラグドの剣を受け止め、反撃した。ラグドの外套の襟に剣先が触れ、布を裂いた。


「……剣は、少しは見られるようになったな」


 小さく舌打ちしたかと思うと、ひどく不服そうにラグドが言った。


 それからだった。訓練の内容が変わった。

 もう殴り倒されるような稽古は減り、代わりに崖を登らされる。縄一本で。

 落ちれば骨が折れる高さだ、とラグドは平然と言った。


「これ、なんか意味あるのか?」


「彼女の部屋は高い塔の上にあるってうちの大将が言ってたろ? 水路から抜けても正面から階段上って助けにいく間抜けはできねぇ。潜入は常に裏をかく。基本だ。ま、普通の奴はできないかもしれないがな。お前はできるだろ」


「適当に言うなよ」


 示された崖はかなりの高さだった。風も強い。ロープ一本では不安定すぎる。

 腰に命綱をくくってから、練習が始まった。古びた革手袋を渡されたが、手袋越しじゃ感覚が鈍る。結局、素手で掴んだ。


 初めは、ざらついた麻縄が食い込み、手の皮が裂けた。掌にあて布を巻いて続ける。

 何度か挑戦するうちに、ようやく中腹まで辿り着いた。指が痺れ、岩の出っ張りを掴み損ねる。体が宙に放り出される。


「――っ!」


 腰の命綱が引っ張られ、体が止まった。揺れながら、荒い息を吐く。


「もう一回だ」とラグドの声。


 指先が石の冷たさで痺れる。

 下を見ると荒れた波が群青の底なし沼のようで、足がすくむ。塩気のある風が頬を叩いた。


 文句を言っている場合ではない。無心に繰り返した。

 太陽が高くなったころ炙った魚の香りが漂ってきた。

 広場では、焚き火の傍らでイリアスが串を返し、「おーい」と声をかけてくる。


「休憩にしねぇか? 焼けたぞ」


 広場のジルドが「やった!」と駆け寄り、レンデルは黙って焚き火を見ていた。

 休憩の合間、ラグドが隣に腰を下ろした。

 焚き火の傍ら、魚をかじりながらリセルはふと口にする。


「なあ、ラグドは、どうしてスイの仲間やってるんだ?」


 ラグドは煙を吐き、鼻で笑った。


「……あれだ。あの船上の殿様には、弱みを握られてんだよ。ま、借りってやつだ」

「借り……?」


 視線を向けると、ラグドはそっぽを向いた。


「深ぇ話じゃねぇ。それだけのことだ。ただ一つ言えるのは、俺はろくでもねぇことに手を貸してたってことだ。そこからは足を洗ったんだ。よくも悪くも、あいつのせいでな」


 そう言い捨てたあと、ラグドはリセルをじっと見据えた。


「お前も……今さらだけど、本当にいいのか?」

「何がだよ」

「スイだよ。あいつはな、一度は突っぱねるくせに、使えると思ったら容赦なく使う男だ」

「薄々分かってた」

「分かってて、飛び込むのか。お前、相当の馬鹿だな」


 リセルは小さく笑った。


「でも、入れるのは俺だけだろ」

「他にもいくらでも方法はあるかもしれない。一つしかないなんて、あいつに限ってありえねぇ」


「でも、あいつは条件をのんでくれた。……エリシアは自由にするって。そういう約束は、守ると思う」

「ふーん。ずいぶん信用されたもんだな」


 信用。


 その言葉に、リセルはしばし目を伏せた。


(いや、きっと……そういうんじゃない)


 あれは取引だ。


 手札でも駒でも、なんでもいい。

 使いたければ使え。使われてやる。


 その代わり、エリシアは自由にしてもらう。

 その約束だけは違わせない。


「――もし破ったら、そのときは俺も黙ってない」


 ラグドはしばらく黙り、それから吐き捨てるように言った。


「……お前は馬鹿だ。何にもしなくても東に逃げられたのによ」

「うん」


 リセルは静かに笑って頷いた。

 ラグドは舌打ちした。


「……正真正銘の大馬鹿野郎だ。俺はよ、お前に最初から稽古つける気なんざなかった」


「え?」


 黎火の郷についてから、ラグドが一度も剣を握らせようとしなかったことを思い出す。


「……なんでだよ」

「俺は、自分が教えた奴が死地に行くのを見るのはもうごめんだ」


 焚き火がぱちりと鳴る。


「ジルドだってそうだ。あいつが勝手に食い下がっただけだ」


 ラグドは魚の骨を火に放った。


「別に飯炊きだろうが荷運びだろうが、それで生きていけるならその方がいい」


 煙を吐く。


「スイもそういう男だ。いけすかねぇが、人を勝手に戦場へ放り込んだりはしねぇ」


 それから、じろりとリセルを見る。


「なのにお前は、自分から飛び込もうとしてやがる」


 焚き火の火を見つめたまま、ラグドがぼそりと言った。


「その子とは、数日一緒にいただけだろ? どうしてそこまで踏み込む?」


 ラグドの問いに、リセルは視線を落としたまま言葉を探した。


「……俺は、ずっと、生き延びるのが、俺を助けてくれた人との約束なんだと思ってた」


 一瞬躊躇し、それから静かに続ける。


「フィンってやつがいた。両親を亡くした俺を拾って、育ててくれた。五年くらいだったけど、幸せだった。でも、そのフィンも俺を庇って死んだんだ」


 拳を開いて閉じる。震える息を吐く。


「俺は二度と、誰かを失いたくなかった。だから、一人で放浪するしかないと思ってたんだ。でも違った。そうやって生きてても、心は動かない。冷たくて、止まってるみたいで」


 かすかに笑う。


「それを変えてくれたのがエリシアだった。雪が……きれいに見えたんだ。

 フィンが死んでからずっと色なんてなかったのに。あの日、初めて景色に色が戻った。気づいたら、フィンのことを思い出せるようになってた」



 ――あの頃、フィンと見た雪は砕いた氷みたいに光っていた。



 吹雪の去った次の日。柔らかく積もった雪が草原を覆い尽くしていた。

 青や金の光が散り、世界が静かにきらめいていた。

 フィンとの焚き火の夜がよみがえる。

 ぱちぱちと爆ぜる音と共に立ち上る火の粉。

 悪戯っぽく笑ったフィンの横顔が、炎に照らされて揺らめいていた。


 あいつは、目を逸らしながら頬を掻いた。

 そして、たしかに言ったんだ。


『お前はこれからも笑って、憎まれ口叩いて、俺といろよ』


 照れくさいことほど、フィンは少し掠れた声でぼそりと言うんだ。

 その響きまで、まるで今そこにいるようだった。


 リセルは大きく息を吸って吐いた。



「……フィンは言ったんだ。笑ってろって。一人で生きろ、なんて言ってなかった。俺は――間違えてたんだ」


 リセルは唇を噛みしめ、顔を上げる。


「だから俺はエリシアに会いに行く。今度こそ、一緒に行こうって伝えたいんだ。

 エリシアが救ってくれたから、今度は俺が彼女を助けたい。

 助けたいって気持ちのままに動くことが、俺にとって生きるってことなんだ。

 ……エリシアはきっと、王城で生かされてはいる。

 でも、あそこに閉じ込められるのは辛いはずだ。

 生きてるのに自分じゃいられないなんて……それは、死んでるのと同じくらい辛いことだと思う。

 だから、助けたい。エリシアには、ちゃんと笑って生きていてほしいんだ」


 ラグドはしばらく黙っていたが、やがて鼻で笑った。


「ガキのくせに、ずいぶん立派なこと言うじゃねぇか」


 不器用に口の端をゆがめ、肩を揺らす。


「……まぁ、そういうガキは嫌いじゃねぇ」


 ラグドは吸い終えた煙草を地面に落とし、靴先で押し潰した。

 焚き火の煙が流れ、クロファが小さく呟いた。


「……やれやれ。決めてしまったやつには何を言っても無駄か」


 焚き火を見ていたレンデルがちらりと横目を寄こし、何も言わずにまた火に視線を戻した。


「まぁ、食べようぜ」


 イリアスが串を掲げる。

 ジルドが声を上げた。


「みんな食わないなら、俺が片付けますよ!」

「勝手に人の皿まで狙うな」


 ラグドが睨みつけると、ジルドは慌てて手を引っ込め、片手を頭の後ろに回してごまかした。

 そのやりとりに、リセルはふっと息をつき、握った木剣を見下ろした。

 ラグドはしばらく沈黙したのち、半ば諦めるように言った。


「……止められるもんなら止めてやりたかったがな。もう無理だ」


 木剣を肩に担ぎ、立ち上がる。


「ただ腹は括れよ。敵地に飛び込むんだ。甘くはねぇぞ」


「ああ」


 リセルは静かに頷いた。


 潮風が吹き抜ける広場に、訓練の熱と焚き火の煙が残っていた。

 夜が更け、仲間たちが小屋へ引き上げていった。


 リセルはひとり、崩れた井戸跡に腰を下ろす。

 夜空は明るく、滲む星々が銀砂のように散っていた。

 潮風が髪を揺らす。手のひらには、まだ木剣の感触が残っている。

 焚き火の残り香、笑い声の余韻――さっきまでの輪の温もりが、胸の奥に静かに広がっていく。


 目を閉じれば、隣で肩を震わせ泣いていたエリシアの姿が浮かぶ。

 次の瞬間には、最後に見た小さな背中が重なった。

 大きく息を吸い込み、指先に力をこめた。


 ――もう、奪わせない。あいつの未来も、笑顔も。


 ゆっくりと立ち上がり、剣を腰に差した。訓練用の木剣ではない、本物の剣だ。それから、もう片方の腰の短剣の柄を指でなぞる。旅の間じゅう、ただの一度も外したことのない重み。潮の匂いの中で、夜が深く息づいている。


 その闇の向こうに、まだ見ぬ光が兆していた。

――六章後半 黎火の郷編・完


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


次回は挿話を一話挟みます。


七章では、舞台を再び王都へ移し、エリシア側の物語が動き出します。


引き続き見守っていただけたら嬉しいです。

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