第五十六話 剣と火
三日が過ぎた。
その頃には、スイの不在が常になっていた。
あの作戦会議のあと、ラグドはようやくリセルに訓練をつけ始めた。
朝の空気は重い。潮と土の匂いが肌にまとわりつく。
作戦のメンバーになったというのに、剣術の練習にはどうしても気が引けた。
生き延びるための術なら身についている。狩猟も弓も、フィンに叩き込まれた。
だが――剣は別だ。
人を斬るための道具。迷わず振り下ろす自信はない。
本当は、潜入のための動き方や気配の消し方を教わるものだと思っていた。
それなのに、稽古となればラグドは容赦がない。
あっという間に打撲だらけになり、いまも節々が軋んでいる。
岩の陰で吐いたこともあった。背中をさすってくれたのはジルドだった。
「最初はそうなるよな。ラグドさん、容赦ねぇからな。……そのうち慣れるって」
軽口の中に、わずかな同情が滲んでいた。
*
黎火の郷の広場。
その日も、崩れた井戸跡のそばで、ラグドは待っていた。
腕を組む姿は、獲物を待つ獣のようだった。
近づくだけで、背筋が冷える。
今日も膝をつくまでしごかれる予感がした。冷や汗がにじみ、喉が鳴る。
覚悟より先に、言葉が出た。
「……ラグド、今さらだけど。スイは、剣術じゃなくて潜入を――」
「甘えんな」
短く切り捨てられた。背筋が自然と伸びる。
「基礎もできねぇのに潜入なんざ無理だ。丸腰でどうする。見張りに鉢合わせたら?」
返す言葉はなかった。
「基本を身につけてから言え。……だが、そうだな。今日は剣はやめだ」
思わず顔を上げると、ラグドは口の端を上げた。
「体術から叩き込んでやる」
一瞬で肩が落ちた。
「足は肩幅。膝を軽く曲げろ。利き足は半歩下げる」
地面に線が引かれる。
「重心は腰に置け。肩に力入れるな」
真似をした瞬間、肩を軽く押されただけで前に崩れた。
「ほらな。一歩で倒れる」
構え直し、横に抜ける動作を繰り返す。
土を蹴る音と荒い息が、広場に重なる。
石垣の上では、クロファが片膝を立てて海を眺めていた。
訓練など見ていないようで、ときおり金色の目だけがこちらを向く。
「……やっぱり優しすぎる。攻めには向かない」
「見てるだけかよ」
ラグドが睨む。クロファは肩をすくめた。
「俺は教師役じゃない。ただの観察者だ」
近くで縄を巻いていたジルドが目を輝かせる。
「ラグドさん、かっこいいっす!」
「黙れ。素振り百本追加」
一喝で肩が跳ねる。木刀を握り直す音。
訓練は止まらない。
「避けるときは真正面に下がるな。半身。横へ流せ。
お前は迷いすぎる。耐えてばかりじゃ、ただの的だ」
「だから初めから、スイは潜入って——」
「口答えすんな。火の民は骨が丈夫だ。まずその体を生かせ」
ラグドが踏み込む。
「一つ覚えろ。避けた瞬間に一撃。勝つためじゃねぇ、生き延びるための反撃だ」
振り下ろされる木剣。
横に抜け、腰を捻り、突き出す。布が裂ける音。
「……そうだ」
ラグドの声に熱が宿る。
二度、三度。
踏み込み、避け、捻って打つ。
足裏が土に沈み、汗が頬を伝う。
やがてラグドが木剣を下ろした。
「完璧じゃなくていい。だが今の動きだけは体に刻め。死にかけた時、最後に残るのはこれだ」
潮風が吹き抜けた。木剣を握り直す手の中で、脈が強く打った。
*
――二週間後。
「今日は木刀はやめだ」
投げられた剣を慌てて受け止める。
「抜け」
喉が鳴った。
リセルは柄を握り、さやからゆっくりと引き抜く。金属が擦れる冷たい音が耳に刺さる。
向かいでラグドも剣を抜いた。
一歩、土を踏む。空気がぴんと張り詰める。
「構えろ」
言われた通りに剣を上げたつもりだった。
次の瞬間、視界からラグドの姿が消える。
「――っ!」
横合いから衝撃。剣ごと弾かれる。腕がしびれ、体勢が崩れた。
「遅ぇ!」
容赦ない一撃が畳みかける。
打ち込まれるたび、骨に響き、足元の土がぐらつく。
受けるだけで精一杯だった。
切っ先が、喉元に触れる距離まで迫る。
「迷うな。止まるな。考えてから動くな」
息が荒くなる。胸が焼ける。
それでも、足がすくんだ。
逃げたいわけじゃない。ただ、斬れなかった。
――俺に人が斬れるのか。
一瞬の躊躇。その隙を、ラグドは見逃さなかった。
踏み込み。肩の線が落ちる。刺突だ、と理解した頃には遅い。
銀の線が、一直線に喉へ走る。
「っ――!」
咄嗟に身をひねり、剣を合わせる。
火花が散り、手のひらが痺れた。重い。止まらない。
後退した土の感触。背中に崩れた石垣が迫る。
追い詰められる。
ラグドの瞳は淡々としていた。怒りでも苛立ちでもない。
ただ、迷いのない目。
――避けきれない。
胸の奥で何かがはじけた。
伸びてくる切っ先。
喉元へ直線で伸びてくる銀。
その瞬間だった。
指先が熱くなる。
息が、勝手に爆ぜる。
「やめ――!」
声より先に、力が走った。
掌から黒い火が噴き出し、ラグドの剣をはじき飛ばした。
燃える音が耳の奥で爆ぜる。空気が焦げる匂い。
皮膚の内側にまで、熱が入り込んでくる。
「わっ、あぶね!」
ラグドの外套の裾がぱっと炎を上げた。
次いで水音。そばにいたレンデルが、樽の水を迷わずぶちまける。
蒸気が白く立ちのぼった。
「ごめん!」
次の瞬間、ごつん、と硬い拳骨が頭に落ちた。星が散るほど痛い。
「ばかやろう! そんな火に頼るんじゃねぇ!」
「だって……」
ラグドが本気じゃないのはわかってる。
それでも、危ないと思うと出る。
息が詰まり、言い返そうとして、言葉が喉に引っかかる。
「だってもくそもあるか! それで本当に戦えると思ってんのか!」
リセルは唇を噛む。
「……戦ってるやつを見た」
炎を爆発させ、はじけた火が斬撃の軌道を照らしていた男。
ラグドが少し黙り、それから言う。
「……ファロス港の、あいつか」
「見てたのか」
「あんだけ騒ぎゃ見える。ぶっ倒れてたお前を拾ったのも俺とスイだ」
短い沈黙。
「……ああいう火を使いたいか」
「わからない」
「やめておけ。俺はああいう奴らを使う側にいたからわかる」
リセルが目を上げる。
「ヴェルナには、生き残ったユーファを都合よく使う組織がある。……俺はそこにいた」
言葉が落ちる。
「あの火はだめだ。使うほど自分も焼く。あいつの体、火傷跡だらけだったろ。命を削る力だ」
ラグドの声は低い。
胸の奥が、ひやりと沈んだ。
「頼るな。お前は――使わなくていい」
「でも」
「それにな。ラファスの装備はヴェルナ産の耐火素材だ。そう効かねぇ。不安定な力に縋るな」
少し間を置き、続ける。
「ユーファは骨が丈夫で打たれ強い。体温も高い。傷の治りも早い。思い当たるだろ」
「……考えたことない」
長く生きてきた身体だ。自覚は薄い。
「とにかくだ。俺の叩き込むもんを身につけろ。そしたら、そんな力いらねぇ」
リセルは視線を落とさず言う。
「それでも、この力を使いこなしたい。制御できれば、誰も失わずにすむって思った。だから黎火の郷に来た。でも、何も残ってなかった」
ラグドが舌打ちする。
「その力のことはもう考えるな」
「――ときに少年。その力は火なのか?」
いつの間にか、すぐ近くにクロファが立っていた。金色の瞳が、静かにこちらを覗き込んでいる。
リセルが眉をひそめる。
「火とは何だろう。人が最初に灯した光にすぎない。そうは思わないか」
金色の瞳の奥で、自分の髪が炎のように揺れて見えた。
その揺らぎの中に、自分が飲み込まれそうになる。
「あー、もう、お前は黙ってろ」
ラグドが手で追い払う。
クロファは眉を動かしただけで、意に介さず続けた。
「竜の力は形なんて持たない。形にしたのは人間だ。感情に似せてな。
ユーファは、たまたま火を選んだ。それだけだよ」
ラグドが小さく舌打ちした。
「お前の言うことは、回りくどくていけすかねぇ」
――火以外なら、何だというんだ。
この身を焦がし、覆いつくす黒い炎。
火以外の何かとして考えたことは、一度もなかった。
その問いだけが奥に残り、しばらく消えなかった。




