第五十五話 取引と覚悟
入江の空気は、潮と湿った岩のにおいが混じっていた。
小舟を降りると、スイはまず周囲を見渡し、短く指示を出した。
イリアスは小舟を入江に着けに行った。ジルドとレンデルは外で交代の番をしている。
残されたのは――スイ、ラグド、クロファ、そしてリセルだけだった。
「……こっちだ」
崩れた小屋に入ると、壁に掛かったランプがひとつ揺れていた。
煤けた石壁、脚の欠けた卓――荒れた部屋だったが、スイが外套を払って腰を下ろすと、空気が変わった。
くたびれた木の椅子が、まるで宮廷の玉座にでもなったように見える。
姿勢は崩れず、指先の動きまで研ぎ澄まされ、この場にそぐわない気配を放っていた。
「で、一人で飛び出してどうするつもりだった? ラファスにいては、ユーファは生きていけないぞ」
スイの声は低く、揺らがない。
「……なんで、そこまで気にかける。関係ないだろ?」
リセルは睨み返した。指先が強張る。
「それが、そうでもないんだ」
スイは短く沈黙し、深く息を吐いた。
「俺が由賊になったきっかけだからな。……もう、ユーファは見捨てない。見捨てられないんだ」
隙間風が入り込み、ランプがからからと乾いた音を立てた。
スイの横顔に微かな痛みが走った気がして、リセルは息を呑んだ。
「昔見たんだ。ヴェルナで連盟に襲われた集落を。……ひどい有様だった。女も子どもも、みんな殺されていた」
拳が、かすかに震えていたように見えた。
「あれが、ただのカイラだったのか、ユーファだったのか。そんなことは問題じゃない。ただ、あんな風に、踏みにじられていいはずがない」
リセルは目を伏せた。
あの日。あの吹雪の夜に焼かれていく自分の集落が、焦げた臭いとともに胸をかすめた。
スイは、まっすぐにリセルに目を向ける。
「ラファスは弱い者から切り捨ててきた。ユーファやカイラを連盟に追わせ、他国にまで踏み込んで排除してきた。……それを、もう見たくないんだ」
その言葉には、淡い怒りが滲んでいた。
「だから、お前が一人で突っ込むくらいなら……こっちから王城に送り込んでやろうと思ってる」
リセルは思わず言い返した。
「……それって、どっちも同じじゃねぇか」
スイは口元にかすかな笑みを浮かべる。
「どうだろうな」
――わずかな間の後、瞳が鋭く光った。
「だが、あんな場所に計画もなく突っ込んでいくよりは、ましなはずだ」
彼は卓に簡素な羊皮紙を広げた。
押さえた手に導かれ、古びた部屋が一瞬だけ作戦室に見えた。
「王城の地図だ。彼女はこの塔にいる。王の間の近く、中庭に面した建物だ――」
スイは淡々と説明を続けた。
鍵はかかっていない。だが、常に侍従が張りつき、黒衛が巡回している。
自由ではない客人。
檻の中で食事を与えられている、ほとんどそれに近い。
リセルは拳を握りしめる。
彼女があの黒外套の視線に晒されていると思うだけで、胸が焼ける。
「エリシアを、ずっと追ってたって言ってたよな。聖堂でボヤ騒ぎまでおこして……どうして、そこまでするんだ」
ほんとうに助けたいだけなのか。
それとも何か裏があるのか。
リセルは、まだ信じきれなかった。
スイは一瞬視線を逸らし、窓の外の布を見た。
「さぁな」
目を伏せ、両手を組む。
「見捨てられなかったからかな。名前も意志も奪われるやつを、もう見たくなかった」
その声音には、どこか自分自身を責める色が混じっていた。
リセルは低く言う。
「そんな曖昧な理由で……信じろっていうのか」
スイは静かに答えた。
「詳しくは説明できない。だが、ひとつだけ言える」
ランプの火が揺れ、スイの横顔に影が落ちた。
「彼女は、母親が死んだ時点で、解放されるべきだった。掟でも恩赦でもない。ただの、人としての筋だ」
「……エリシアの母さんは、死んだのか?」
「ああ。反国政軍に利用され、命を落とした」
スイは椅子に片肘をかけ、静かに続けた。
「俺の父も、体制を変えようとして殺された。弱者を踏みにじる今のやり方を正そうとしてな」
リセルの肩が、わずかに強張る。
「……スイの父親って」
言いかけて、スイの表情を見て口をつぐんだ。これ以上は聞けない――そう思わせる、冷たい空気があった。
「だから、同じように利用される人間をもう見たくない。彼女が王政の道具にされるのは、なおさら許せない」
スイは短く息を吐き、言葉を足した。
「それに、王政が聖女制度で固まるのを止めたい。本来、聖女は聖堂が選ぶ。……だが、王が“奇跡を起こす聖女”を抱えれば、力の均衡は崩れる。聖堂も黒衛も王の道具になる。止める者がいなくなる。
奇跡で権威を固める王は、自分の足場の弱さを知っている。だから聖堂の力を取り込もうとする。恐れているんだ」
スイは、両手を組んだ。
「聖堂だろうが王だろうが、均衡が崩れれば、いつも押し潰されるのは弱者だ」
小さく肩を落とし、苦笑した。
「……それだけじゃ、理由にならないか?」
空気が静かに震えた。
リセルは視線を逸らせなかった。
「……俺が言えるのはそこまでだ。それ以上は立場が許さない」
リセルは、ただ黙っていた。胸の奥で、信じたい気持ちと疑いがせめぎ合う。その顔を見て、スイは小さく息を吐くように笑った。
「そんなに俺が信じられないなら、取引でもするか? お前が欲しいのはあの子だろ。俺が欲しいのは……そうだな、俺たちに協力する覚悟だ」
「いや、それじゃ足りない」
リセルが即座に言い返す。
「助けたあとの、彼女の自由も約束しろ。利用するために助けるなら、その協力はできない」
空気が張りつめた。
ラグドが舌打ちする。
「いまの話、ちゃんと聞いてたのか? スイはな――」
だがスイは、手を上げて制した。
「いいだろう。エリシアを助ける。助けたあとは東に連れて行く。ちゃんと暮らせるように身元も生活も整える。あとは、好きにしたらいい」
「……本当に?」
「その代わり、お前は二つ付き合え。今回の潜入と、東での仕事だ。お前の自由は、その後だ」
短い沈黙。
リセルは荒い息を吐き、ゆっくりと頷いた。
「分かった。取引だ」
「そうこなくちゃな」
その時、クロファがふっと口を開いた。
「無鉄砲で、先なんて考えてない。……だが、いい目をしてる。お前にそっくりだ」
スイが横目で睨む。
「褒め言葉のつもりか?」
「さぁな。ただ、そういうやつには協力者が必要だろう。……お前もそうだったはずだ」
ラグドが鼻を鳴らす。
「確かにな。似てるぜ、昔のお前にな」
スイは一瞬だけ目を伏せ、そして薄く笑った。
「そうかもしれないな……」
ラグドが腕を組み、低く言い張る。
「だが、潜入は本来、俺の役目のはずだ。専門なのは俺だろう。斬り込みも逃げ道も心得てる。ガキにやらせるより確実だ」
スイは眉ひとつ動かさず、地図の一点を叩いた。
「それがな。調べてきた潜入経路に、問題がある」
「……問題?」
「王城の中庭に繋がる水路だ。潮の満ち引きを利用すれば侵入できるが――大きい体じゃ通れない。鉄格子も狭い。……お前じゃ詰まる」
ラグドの顔が険しくなる。
「だからって、兵士でもないただのガキを突っ込ませるのか」
「こいつの、この体格だから通れるんだ」
スイはリセルを上から下まで見るしぐさをした。その声は冷静だった。
「行きは水路、帰りは来賓の船に紛れる。母船も近海に出しておく。偽装すれば城門を通るよりずっと安全だ。見せかけなんて、いくらでも作れる」
その視線が一瞬、クロファをかすめた。
リセルはその言葉に喉を鳴らした。
胸の奥では恐怖と焦燥がせめぎ合っていた。
だが――迷いはなかった。
「なら、俺がやる」
「……覚悟がきまったようだ。スイ、そろそろあの子の力のことを話してやれ」
クロファがスイを促した。
スイはしばらく黙っていたが、やがて視線をリセルに戻した。
「王が欲しているのは、癒しの力だけじゃない――聖女制度は知っているか?」
「聞いたことはある。でも詳しく知らない」
リセルは首を振る。
「王政は代々、聖堂と結びついた聖女を立てて権威を保ってきた」
――名ばかりの聖女。誰も奇跡を起こせはしない。
「……だが、エリシアは違う」
スイの声が低くなった。
「彼女には特別な力がある」
リセルは身を乗り出した。
「どんな力だ?」
「……“身代わりの力“だ」
スイは重々しく言った。
「契約した相手の傷を吸い取り、自分に移す。そして治す」
リセルの顔が青ざめる。
「それって……」
「命でさえも一度きり、肩代わりできる」
スイの言葉に、リセルは息を呑んだ。
「命を、肩代わり……?」
「そうだ。契約した相手が殺されても、代わりに彼女が死ぬ。相手は生き残る」
ラグドが低く付け加える。
「王はそれを知り、彼女を己の“盾”にしようとしている」
リセルの全身に悪寒が走った。息が止まり、心臓が凍りつく。あのとき震えていたエリシアが、何も言えなかった理由が――腑に落ちた。
「……そんなの、ただの道具じゃないか!」
声が掠れ、掌に爪が食い込んだ。怒りが腹の底から喉元に駆け上がる。
スイは短く頷く。
「だから、なんとしてもその前に助け出さなければならない」
クロファが静かに言葉を継ぐ。
「人の命を食う契約か。……国の権威を保つための聖女制度。反吐が出るな」
ラグドは吐き捨てる。
「ああ。まったく、くだらねぇ」
リセルは強く拳を握った。
「助ける……絶対に」
胸の奥で熱が広がった。
潜入を成功させる。
エリシアに、そんな恐ろしい契約をさせはしない。
ランプの炎が大きく揺れ、古びた地図に影を落とした。
小さな部屋が、いつしか王城に挑む作戦室のように見えていた。
スイは静かに息を整え、地図を指先で叩いた。
「狙うのは生誕祭だ」
「生誕祭?」
「その日は人が散る。祝祭は、見せるための軍隊が要る。守る兵より、見せる兵が優先される」
スイは短く言った。
「生誕祭は初夏。王が年に一度だけ民の前に姿を現す日だ。普段は外交でさえ姿を見せぬ男が、その日だけは兵を引き連れて城を出る。正規軍は凱旋の儀礼に、近衛兵も旗持ちで持っていかれる。王直属の黒衛もな」
そこで一拍間を置いた。
「……王が夜会の顔になる。兵士は広間の周りに配置される。エリシアのいる王室の塔は、奥まっている。普段よりは、手薄になる」
リセルは思わず問いを漏らした。
「……生誕祭は、いつなんだ?」
「春が過ぎればすぐ。二か月後だ。それに、その後すぐエリシアが成人する。そうなれば王は正式に聖女の契約を結ぶだろう。だから今回を逃せば、猶予はない」
言葉は淡々としていたが、その重みは冷えた空気のように部屋に沈んだ。
リセルの喉が鳴る。時間は少ない。迷う余地など残されていなかった。
スイは続けた。
「王城の南門の裏には、王室御用達の港がある。その日なら俺が船をつけられる。行きは水路、帰りの母船は来賓の船に紛れる。警戒は祭礼に割かれる。……それが唯一の道だ」
ラグドは舌打ちし、頭の後ろを無造作に掻いた。
「なら、時間があるうちに叩き込むしかねぇな。潜入の技術、気配の殺し方……ガキだからこそ通れる道を、逆手に取るんだ」
スイは頷いた。
「訓練はお前に任せる。俺は長くここにはいられない。夜明けを待たずに戻る。生誕祭までにやるべきことは山ほどあるからな」
そのまま立ち上がり、外套を翻す。
「黎火の郷にはクロファを置いていく。役立たずに見えるかもしれないが、幻術は使える。もしもの時には助けになる」
ランプの火がはぜ、影が揺れた。
リセルは大きく息を吸って、両掌を握りしめた。胸の奥に宿った熱は、もはや恐怖ではなかった。
――必ず成功させる。
エリシアに、あの契約を背負わせはしない。
小さな荒屋で交わされた誓いが、重く静かに燃え続けていた。




