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灯火の誓い〜孤独を選んだ少年と、名を奪われた少女の逃避行ファンタジー  作者: 水瀬 莉音
第六章 アルバトロスの影

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第五十四話 焦燥

 背後から、明るい声が割り込んだ。

「おーい、まだ奥があるぞ。ここは人目につく」

 振り返れば、櫂を肩に担いだイリアスがにやりと笑っていた。

「本当に安全な場所は、潮の奥だ」


 一行は再び小舟に乗り込み、狭い洞窟へと漕ぎ入った。

 岩肌すれすれを進むたび、天井から冷たい水滴が落ちて肩を打つ。

 やがて潮の匂いが濃くなり、薄暗い洞を抜けた瞬間――視界がぱっと開けた。


 切り立った崖に囲まれた静かな入り江。

 蒼い光を湛えた水面は波も立たず、外の世界から切り離されているようだった。


 岩壁の裂け目を抜けた一行を迎えたのは、崩れかけた石垣に腰を下ろす一人の男だった。

 夕暮れの残光に浮かぶ無精髭、荒れた外套。

 その視線が一瞬、リセルで止まった。


「レンデル。変わりないか」


 ラグドが短く声をかける。

 男は立ち上がり、鞘に手を添えたままうなずいた。


「……ああ」


 男はちらりとリセルに視線を向ける。


「その少年は?」

「ああ、あの船上の殿様に言われてな。預かってる」  


 リセルは言葉を返さず、黙ってレンデルを見返した。

 無表情のその瞳には、興味も感情も宿っていない。  


「まぁいい。俺は言われた通りにするだけだ。小僧もついてこい」

「小僧じゃない、リセルだ」


 レンデルは少しだけ眉を動かしたが何も言わずに荷物を下ろすのを手伝った。

 ラグドは周囲を見回し、顎で奥を示した。


「とにかく、小屋に入ろうぜ。話はそれからだ」

 入り江の奥、崩れかけた石垣の脇に、小さな小屋があり、中には古い暖炉が残っていた。

 長く使われていないのか、炉床には灰が溜まり、空気が湿っている。

「火も起こしてないのか? ったく気が利かねぇな」


 レンデルが肩をすくめる。

「薪がもったいなくてな」

 ジルドが両腕で体を抱きしめながら、身震いした。

「なぁ、お前さ。火の民なんだろ? 火起こし手伝えよ」

「ああ……」


 リセルは一瞬、手を止めた。

 野営なら慣れている。だが、こういう炉は長いこと使ってない。

 黙って、薪を組み、火打石を打つ。

 火花が散り、弱い火が一瞬だけ灯ったが、すぐに消えた。


(面倒だ。力を使ってしまおう)


 そう思って、いつもの加減で掌から火を落とす。

 ぼっ、と鈍い音がして、煤が舞い上がる。

 顔に、髪に、容赦なく降りかかった。


「わっ……!」

 咳き込みながら顔を上げた瞬間、水桶に映った自分の姿が目に入った。

 髪は黒くくすみ、頬も額も灰まみれ。

 まるで炉の中から這い出てきたみたいだ。


「ぶはっ!」

 最初に吹き出したのはジルドだった。

「なんだそれ! 爆発したみたいじゃねえか!」

「うるさい、笑うな!」


 イリアスが腹を押さえる。

「いや、幽霊だろ。灰の精霊でも拾ってきたのか?」

 リセルは無言で袖で拭った。だが、余計に煤が伸びて、まだらになる。

「やめろって顔じゃないぞ、それ!」

「最高だな、お前!」


「……いい加減にしろ」


 ラグドが低く言った。

 だが顔を背けた肩が、小刻みに震えている。


「……お前も、笑ってるだろ」

 リセルがのぞき込むと、

「笑ってねぇ」

 ラグドの声が微妙に裏返り、また笑いが起きた。


 リセルは唇を噛み、何も言わず外に出た。

 冷たい潮風が、煤の匂いを少しだけさらっていく。


 * * *


 それから数日が過ぎた。

 スイはルシトに孤児を預けてから戻るため、ここに合流するのはまだ数日かかるらしい。


 リセルは火を起こし、串に刺した川魚を炙っていた。

 脂が落ち、ぱち、と小さな音がした。焼けた皮の匂いに、潮のにおいが混じる。

 視線は、火ではなく訓練場へ向いている。


 ジルドが木刀を構え、何度もラグドに斬りかかる。

 踏み込みは鋭いのに、足払い一つで転がされる。砂が舞い、歯を食いしばり、また立つ。

 ラグドは容赦しない。だが、突き放すわけでもない。

 間合い、重心、剣の角度。荒い口調のまま、要点だけは確実に教えていた。


 ――しごかれている。

 比喩じゃない、本当に。

 一方で、自分は――便利屋だ。


 荷運び、水汲み、川漁、火起こし。火はすっかり自分の担当になった。

 魚を獲り、焼いて、返す。


 手は動くのに、胸の奥だけが空いたままだ。

 レンデルは日課の素振りと筋力訓練を終えると、気配を消して偵察に出る。

 気づけばいない。気づけば戻っている。そういう男だ。


 クロファは木の根に身を預け、空を見ていた。

 ときおり、風の流れをなぞるように指先を動かす。

 それでも、何をしているのかはやっぱり分からない。


 ――俺は、なんでここにいる。


 胸の奥から重たいものが上がり、焚き火を睨みつける。

 息がひとつ、大きくこぼれた。

「おいおい、なんだその溜め息」

 イリアスが目を丸くし、髭を蓄えた顎をさすった。

「……ついてない」

「いや、思いっきりついてたろ」


 リセルは言い返すのをやめ、火に枝を一本くべた。

「スイは、ラグドに『俺を使えるようにしとけ』って言った。でも、ラグドは俺をどうする気もないんじゃないか」


 イリアスが肩をすくめる。

「ははぁ、ジルドばっかりって顔だな。いいか坊主。飯炊きは大事だ。まずはここで役に立て」

 返す言葉が見つからず、黙る。


 ジルドが水を飲みながら戻ってきて、にかっと笑った。

「リセルが来てから火起こしも楽になったし、助かってる。これからも頼む」

 胸の奥が、ざらりとささくれる。


 ラグドはその顔を見て、後頭部をぼりぼりと掻いた。

 焚き火の方へ、ちらりと視線だけを寄越す。


「不満丸出しだな。全部顔に出る奴だ」


 リセルは横を向いた。

 ラグドは岬の先を顎でしゃくる。

「まあ待て。スイはお前を見てろと言った。戻るのに、そう時間はかからねぇよ。

 ほら、あれだ」


 海の向こう。

 霞んだ地平線の奥に、黒い影のような大陸が浮かんでいた。


「東の大陸は近い。この半島はルシトが一番近ぇ。子どもを送り届けて戻るだけなら三日で足りる。それからラファスに入って、王城の様子を探るんだってよ。――それまで、せいぜい役に立っとけ」


「……何もしないでいるのが嫌なんだ」

「俺が与えた仕事が不満か? さぼったら追い出すって言ったよな」

「そうじゃない。ただ――」

 喉の奥で言葉がほどけて消える。


 ずっと動いてきた。止まれなかった。

 歩く。運ぶ。獲る。縫う。繕う。

 手を動かしていないと、崩れそうだった。


 いまは、火を起こして、焼けるのを待つ。

 訓練を見る。海を見る。ただ、それだけだ。


 取りこぼした時間が、砂みたいに足元へ積もっていく。

 このまま埋もれてしまいそうで、息を吐いた。


「……こういうのに、慣れてない」


 ラグドは笑わなかった。


「じゃあ、慣れろ。どのみち、お前をどうするかは、スイが決める」


 焚き火がはぜ、火の粉が舞った。

 風が吹き抜けた。

 波音だけが、変わらず続いていた。

 リセルは黙って魚を返した。


 * * *


 夜が来るたび、眠れずに岩壁に背を預けた。

(待てない。いてもたってもいられない)

 エリシアのことを思うたび、あの黒外套の兵士の冷たい目が脳裏にちらつく。


 ゾッとするような視線。今もあの城で彼女を見ているかもしれない――そう思うだけで体が粟立った。

 そもそも、ラグドやスイは、本当にこのあとエリシアを救う気があったのだろうか。


 自分は何を期待して、ここにいるんだ。


 火の番をしに来たジルドが、体を両腕で抱くようにしながら肩を震わせた。

「まだ夜は冷えるな。な、リセル、ちっと火を大きくしてくれよ」

 ジルドが情けない声を出して、すぐ隣に腰を下ろした。


「自分でやればいいだろ」

 若干、距離をとるように、座りなおしたリセルは、横目でジルドを睨んだ。

「そう言うなよ、お前のそれ、便利なんだから」

 ジルドは悪気なく言う。だからこそ、少し堪えた。


 しぶしぶ消えかかった焚火に薪をくべ直し、掌から火を落とす。

 ぱち、と小さな炎が広がり、暖かさが岩壁を照らした。

 ジルドが満足げに笑って、焚火に手をかざした。

「あったけぇー。そういう能力なら、俺も欲しかったな」

 リセルの頭に、あの日の言葉が落ちてきた。


『そんなふうにしか火を使えないのか?』

『――そんな弱い火を出す奴がいるとはな』

『ちっとはましな火をみせてくれ』


 リセルは、記憶の中の、その赤黒い瞳から視線を逸らせなかった。


『じゃねぇと、誰も守れねぇだろ』


 焚き火がぱち、と弾けた。


 リセルは頭を横に振った。

 小さな火を起こして、雑用をして。

 それでも、焚き火は静かに燃えている――。


 * * *


 その日の夜、リセルはついにしびれを切らした。

 もう、待つだけの日々には耐えられなかった。

 スイが戻ると言っていた日から、ずいぶん時間が経っている。


 海を挟んでいるだけだ。

 晴れた日なら、向こう岸の灯が見える距離だったはずだ。

 海峡に橋を架ける話が出たこともある。ヴェルナの鉱石があれば不可能ではない、とラグドが言っていた。だが、それは多くの国の技術と利害が絡むため絵空事で終わったとも。


 スイがそろそろ戻るだろうと、ラグドとレンデルは交代で夜にイリアスと小舟を出し、合流地点に待機しにいった。しかし、そんな日が何度も続き、朝方に帰ってきては首を振った。


「まいったぜ。あいつ、戻るって言ってた日から三日は経ってるのに来ない」

 ラグドがぼやき、レンデルは肩をすくめた。

「いつものことだ。遅れるときは、だいたい厄介ごとを片づけてる最中だろう」

「だったらいいけどな」


 その夜、リセルはラグドに頼み込んだ。

「……俺も、小舟に乗せてくれ」

 もう、これ以上待てない。


 スイが帰ってきたからなんだというのだろう。

 彼らがどうする気なのか、聞いたわけでも約束したわけでもない。

 冷静に考えると、自分はただ東に行くのを拒み、下船した。


 だが今は、雑用ばかりをさせられているだけだ。

 何も知らされないまま待つことほど、残酷なことはなかった。


「……おまえ、焦るのはわかるが、一緒に来たって何もないぞ。スイを迎えに行くだけなんだからな。ほら、毛布やるから寝てろって」

 リセルはそれを片手で制した。

「いらない。どうせ眠れない」


 そう言って、無理に乗せてもらった。ラグドはもう何も言わなかった。

 もう黎火の郷にとどまるつもりはなかった。外套の下に、小さくまとめた荷物を隠す。腰の短剣をなぞる。スイが帰ってきても来なくても――ここを出る。そう決めていた。

 帽子とフードでごまかせば、ラファスでも動けないことはない。今までもそうだった。


 王城がどれほどの警備なのか分からない。それでも、エリシアが王城にいるのなら、忍び込む糸口を見つけなければならない。もしかすると――誰も、自分の出番なんて想定していないのかもしれない。ラグドにしたって、どう見ても真面目に面倒を見る気なんてないようだった。


 でも、だからどうした。

 誰かに頼るのは自分らしくない。


(守りたいなら、助けたいなら、一人でも、俺は、行く)


 舟は入江を抜け、黒い水面に銀の月を映した。

 合流地点に着くと、イリアスは舟を沢に寄せた。


「ここで待機だ」

 ラグドは周囲を偵察すると言い、繁みに消えた。

 ――さっきから、背中に視線を感じていた。

 それでもリセルは構わず、森へ駆け込んだ。

 枝を踏みしだく音が、夜の静けさにやけに大きく響いた。


「おい」

 その瞬間、背後から肩を掴まれた。

「放せ!」

 もがくが、びくともしない。


「バカガキ。動けば分かるんだよ。焦ってるやつの足音ってのはな」

「ほっといてくれ!」

「お前ひとりで突っ込ませるなって、スイに言われてる」


 低い声が耳元に響き、リセルは悔しさに唇を噛んだ。


「……待てないんだ! それに……あんたらは本当に彼女を助ける気があったのか?

 計画が失敗して、エリシアは城に行った。そのあと、どうするつもりもなかったんじゃないのか!」


 荒い息のまま叫ぶ。


「ここまで連れてきてくれたのは感謝してる。でも、お前たちが何もしないなら――俺は一人でも行く!」


 入り江に沈黙が落ちた。風が呻き声のように鳴る。

 ラグドが低く言った。


「……少しは辛抱しろ。時間はまだある」

「でも……」


 リセルの声は震える。


「その間に、エリシアがどんな扱いを受けているか……」

 ラグドは言葉を詰まらせた。

「……傷つけたりはしないはずだ。冷静になれ」

 リセルは押さえつけられたまま、荒い息を吐いた。


 その時、足音が近づいてきた。


「よっ、騒がしいな」


 藍色の外套とフードで顔を覆ったその姿――だが声は、紛れもなくスイのものだった。


「……ずいぶん遅かったな」

「すまない。予想外に時間をとられてな」

「毎回毎回、よくそんな綱渡りで勤まるもんだ」

「そういうな。だが、それでも、いままでばれずにやってるだろ」


 そこまで言うと、ちらりとリセルを見やり尋ねた。


「で、どうしたんだ?」


 ラグドが顎をしゃくった。


「こいつが、一人で抜け出そうとして止めた」

「……そうか」


 スイの視線が、真っ直ぐにリセルを射抜いた。


「おい、リセル。お前に聞かせる話がある。――王城での彼女の様子だ」


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