第五十三話 夢の果て
ラグドが肩で担いだ樽を揺らしながら吐き捨てるように言った。
「こいつはジルド。俺にしごかれてる戦闘員の卵だ」
呼ばれた薄茶の髪の青年は慌てて背筋を伸ばし、似合わない無精髭の顔を赤くした。
一応鍛えてはいるのか、ラグドほどでなくてもがっしりはしていた。
顔つきがまだ若い。
「……まだ見習いっすよ、ラグドさん」
「で、そっちの長髪はイリアス。もともとこの辺の村の漁師だが、それじゃ食えねえからアルバトロスに雇われてる」
ラグドの言葉に、日に焼けたイリアスが白い歯を見せて笑う。たっぷりの口髭を蓄えた、いかにも漁師らしい男だった。
「まぁ、櫂を漕ぐのは任せとけ。海も川も、このあたりは庭みたいなもんだ」
荷を背負った一行は、川沿いの小さな浜へと歩き出した。
湿った風が吹き抜け、干した魚の匂いが鼻をかすめる。
「それにしても、リセルだっけ」
横で歩いていたイリアスがにやりと笑った。
「細っこいのに力持ちだな。往復しないで運び切れるから助かるよ」
リセルは息を整えつつ、肩に食い込む縄を握り直した。
後ろを歩くクロファは、相変わらず手ぶらで涼しい顔をしている。
それを見たラグドが舌打ちした。
「おい、少しくらい運べよ、役立たず。見物してるだけなら帰れ」
クロファはちらりと視線を寄こし、わずかに口の端を上げた。
「あいにく、俺は運ぶより眺める方が性に合っている」
「性に合うだぁ? こっちは重労働だってのに……!」
ラグドの怒鳴り声が川面に響く。
イリアスが肩をすくめて笑った。
「どうせ運ばせたって、この旦那の細腰じゃあ荷物につぶされちまう。何もしないでついて来てもらう方が、まだ荷物が減らせるってもんだ」
「ラグドさん、俺が二人分働きますって!」
ジルドが慌てて声を張り上げる。
どうきいても嫌味にしか聞こえないが、クロファは意に介していないようだった。依然、涼しい表情を崩さない。
やがて一行は荷を小舟に積み込み、川を遡った。
両岸は断崖に挟まれ、流れは次第に細くなる。
まるで行き止まりに見えた岩壁に、イリアスが顎をしゃくった。
「ほら、あそこだ。普通は気づかねえ」
岩肌の裂け目に小舟が吸い込まれていく。
暗がりに潮の匂いが満ち、頭上から冷たいしぶきが落ちた。
やがて視界が開け、岩壁に抱かれた入り江が姿を現す。
外海からは決して見えない、ひっそりとした浜だった。
リセルは荷の間に身を沈め、遠ざかる船を目で追った。
――子どもたちの笑い声、冷たいスイの背中。
胸の奥にまだ火種が残っているのを感じながら、黙って水面の先を見つめていた。
舟を降り、崖の裂け目を抜けてたどり着いたその場所に、沈黙が広がっていた。
黒く焦げた石垣、崩れかけた祠、砂に埋もれた廃屋。
風が吹き抜けるたび、呻き声のような音が胸を揺さぶる。
「……ここが、黎火の郷」
リセルは足を止め、荒れ果てた光景を見渡した。
「なんど聞いても薄気味悪い音だよな」
ジルドが身震いした。
崩れた石段を上がると、低い台座がひとつ残っていた。
風の音だけがそこに触れている。
イリアスが足を止めた。
「……ここ、昔は“誓いの碑”が立ってたんだ」
縁は削り取られ、文字も残っていない。
「ラファスが粛清のときに持ち去った。力のある民を見分けるのに使ってたらしい」
リセルは黙ったまま、台座に目を落とした。
「碑に触れると、光が立つ。それで……誰が“力を持つか”わかったんだと。今でも、ユーファを捕らえたら、まずそれで“力の有無”を調べて――それから処刑するって話だ。ひどいもんだ。この地を踏みにじった挙句、最後は遺物まで利用してる」
イリアスはそれ以上言わなかった。
風が吹き、苔の薄い匂いだけが残った。
誰も手を触れなかった台座の前で、沈黙がひとつ落ちた。
「この辺りは風鳴りがすごくてな。夜になると、うめき声が聞こえるって。粛清された民の怨念だって気味悪がって、地元のやつは誰も寄りつかない。
ラファスの人間は、こういう場所を本気で恐れる。火に焼かれた魂は、夜になると歩き回るって。……だから誰も来ない。俺たちにとっては、都合のいい拠点だ」
イリアスが荷を背負いなおしながら、にっと笑った。
「それを、俺たちが逆手にとって利用させてもらってるってわけだ」
リセルは荒れた土地を黙って見つめた。
風化して砂となった廃墟に、どれほどの想いが眠っているのだろう。
ただ、そこにあるだけで危険視されたユーファ。
戦うよりも癒すことを選んだエルナ。
ここで暮らした人たちは、今生きるこの地の人たちと何が違ったのだろう。
きっと、これだけは言える。
――ラファスは、ここに在った命を踏みにじり、人が住めない場所にしてしまった。
残されたのは、形を失った生活の跡と、空っぽの廃屋だけ。
その物悲しさが、ただ胸を刺した。
「人がいなくなると、建物はすぐに風化する。悲しいな……人の郷は」
達観した物言いのクロファを、リセルは思わず睨みつけた。
「お前が言うと、なんか他人事みたいだ」
「……お前にはそうではない、か」
リセルは押し黙った。
ここは知らない。
リセルにとっての故郷は、ヴェルナの草原だった。
(少なくとも――ここは、俺の故郷じゃない)
それなのに、胸の奥がひどく空っぽだった。
拳を握る。
ただ、ここに来れば答えが見つかると思っていた。
エリシアの力の謎、自分の火が暴走する理由、二人の民族が分かれた経緯。何でもいい。手がかりが欲しかった。
けれど、目の前にあるのは砂に埋もれた廃墟と、呻き声に似た風だけ。
「……本当に、廃墟なんだな」
声にした途端、胸の奥まで空っぽになる気がした。
「こんなとこのために、俺たちは……」
喉が詰まり、言葉が崩れる。
どうして、あの時――一緒に行くというエリシアを受け入れてしまったんだ。
こんな場所だと分かっていたら。
あいつは……あそこにいた方が、まだ良かったんだ。
クロファが静かに言った。
「ずいぶん落ち込んでいるな。光る石でも転がってると思ったか?」
リセルが振り返ると、クロファは口の端をわずかに上げていた。
「そんな顔をするな。物は朽ちても、人がいる限り……全部が消えるわけじゃない」
リセルはクロファを振り返った。
郷がなくても、力の答えが見つからなくても。
――まだ、自分にはできることがあるはずだ。
両手のひらを見つめる。
あの焚き火のゆらめきも、エリシアの笑顔も、隣に座ったあのぬくもりも。
取り戻したい。
もう誰からも何も奪われたくない。
もう逃げるのはやめだ。
生き延びるためだけに逃げ続けるのは、もうできない。
風が再び鳴り、巻きあがる炎にも似た音を立てた。
胸の奥が熱かった。
空っぽだったはずの場所に、火が戻ってくる。
止まっていた鼓動が、熱を打ち始める。
その熱が、ゆっくりと体の奥を巡っていく気がした。
リセルは拳を握りしめていた。




