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灯火の誓い〜孤独を選んだ少年と、名を奪われた少女の逃避行ファンタジー  作者: 水瀬 莉音
第六章 アルバトロスの影

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第五十二話 寄港地

 やけにあたたかい。けれど腹のあたりが重くて、リセルは目を開けた。

 布団の上に、黒いかたまりが丸まっている。

 ふさふさの尻尾が小さく揺れ、寝息のような音がかすかに聞こえた。


「今度は猫……?」


 身を起こすと、黒猫はのんびり伸びをして、布団を占領したまま動かない。

 そこへ通りがかったエクシルが足を止めた。

「お前、こんなところにいたのか。どこほっつき歩いてたんだ」

 猫はちらりと顔を上げて鳴き、また丸くなる。


「……え、こいつ、お前の?」

「リュート。俺の猫だ。めったに人に懐かないんだけどな」

 リセルは猫とエクシルを見比べた。


「……なんで俺の布団に」

「気に入られたんだろ」

 エクシルは肩をすくめ、そのまま歩き去った。


 ルカが顔をのぞかせ、目を輝かせる。

「あ、リュートだ! いいなぁ、リセル。この猫ぜんっぜん懐かないんだよ」

 黒猫は相変わらず眠そうにしていた。

 リセルは小さくため息をつく。


 後ろから来たテオンが肩をすくめる。

「またロウに鍋で起こされたらたまんないし、食堂行こうぜ」

 子どもたちの笑い声に押されるように、リセルも布団を抜け出した。

 そこで昨日ロウに頼まれていた掃除を思い出す。

「悪い、俺掃除があるんだった」


 言うと、テオンはあっさり答えた。

「ああ、それなら、カイが早起きしてやってるよ。俺たち交代でやることにしたんだ」

 驚くリセルに、テオンは照れくさそうに両手を頭の後ろに組んで笑った。

「さすがにずっとタダ飯食わせてもらうわけにいかないし。そろそろやれることだけでもやらないとなって」

「……そうか」


 それでも気になって、リセルは甲板に上がった。

 カイが、初日に見た白髪の男と並んで、床を磨いていた。


 リセルに気づくと、カイはあからさまに顔を背けた。

 ため息が漏れ、踵を返そうとしたとき――


「……別に。借りを返すってわけじゃないんだ」

 小さな声が背中に追ってきた。

「子どもみたいに何もしないでいるのも、荷物になるからな。もう、そういうの、嫌なだけ」


 驚いて振り返ると、カイは頬をかきながら笑っていた。

 首には、昨日繕った襟巻きが巻かれている。そこに指がそっと触れていた。


「俺は、まだ小さいし、リセルみたいに器用になんでもできるわけじゃないけど……」


 隣の男がぼそっと言った。

「やれることに気づけるなら、お前はもう十分大きい」

 リセルはその男を見る。

 甲板に立つ壮年の船乗り――バルドだ。

 アルバトロスの舵も任される男なのに、不思議なくらい普段は目立たない。


「……代わってくれてありがとう。次は俺もやる」


 リセルがそう言うと、カイは白い歯を見せて笑った。

 その後ろで、ブラシのこすれる音だけが静かに響いていた。


 * * *


 食堂の朝食は、船酔いが治ったからか、初めてまともに食べられた。

 廊下を歩く足音に、甲板から戻ってきたスイが視線を向ける。

 少年と子どもたち、それに猫まで引き連れている光景に、スイは口元をわずかに緩めた。


「……猫にまで気に入られるとはな。お前、案外ここに馴染んできたんじゃないか?」


 リセルは思わずスイを見返した。心なしか、スイの口調は柔らかい。リセルは返事もせず視線を逸らす。

 その反応さえ、スイには満足げに見えたのが悔しかった。

 通り過ぎていく背中を見つめながら、リセルはそっと拳を握った。


(俺が、東に行く子どもたちと同じだと思っているのか。俺はまだ東を向けない。エリシアを置いていくなんてできないのに。

 なのに、俺がエリシアのことを聞かなくなった途端、この軽口だ)


 このあからさまな歩み寄りに、胸の奥がじりっと焼けた。喉が熱い。


「今日が最後の補給だ。寄港したら本格的に東の大陸に向かう」

 いつもの調子だったが、スイの声にはわずかな緊張が混じっていた。

「ここから先はラファス領だ。甲板に出るなよ。目立つと面倒だからな」


 リセルは無言でうなずいた。

 ルカとテオンも顔を見合わせ、小さくうなずく。

 賑やかな朝の空気の奥に、海の向こうから迫る影が、じわりと広がっていた。


 * * *


 港の気配が近づくにつれ、船内の空気が引き締まっていった。

「補給隊は到着しているな」

 スイが望遠鏡を下ろしながら呟く。


 波止場のざわめきがかすかに届く。潮と魚の匂いが鼻を刺した。

 甲板ではバルドが舵を微調整し、ラグドが縄を構える。

 船体がきしみながら桟橋に並ぶと、岸で待っていた二人の影が素早くロープを受け取った。


「ラグドさん、待ってましたよ!」

 陽気な青年が声を張り上げる。

「おう、やっと来たな!」

 隣の漁師風の男が豪快に笑い、樽の山を顎で示した。


「……変わりねぇか」

 ラグドは鼻を鳴らした。「また大荷物だな」とぼやきながら梯子を降りる。

 青年の肩を小突き、漁師の背を叩きながら、樽を担いで桟橋に立った。


 クロファも静かに降り立ち、リセルにちらりと視線を送る。

「……先に行っている。お前は子どもたちを頼んだぞ」

 短いやり取りにスイが頷く。

 その傍らで、リセルは唇をかすかに噛んだ。


 甲板では子どもたちが手すりに身を乗り出し、ラグドの背に声を飛ばした。

「ラグド、元気でな!」

「また会えるよな!」


 明るい声の奥に、どこか名残惜しさが滲んだ。

 クロファが背を向け、補給隊の方に向かうと、小さな沈黙が落ちた。


 その空気を断ち切るように、スイが声をかける。

「補給完了だ。――行くぞ、東に向かう」

 バルドが舵を回し、ロープが外される。

 エクシルとフェレンが手際よく動き、子どもたちも歓声を上げた。

 船はゆっくりと桟橋を離れかけていた。


 その流れの中で、リセルの胸の奥がじりっと焼けた。

 気づけば足は動いていた。


「……悪い!」


 振り返った子どもたちの「えっ?」という声を背に、リセルは甲板を駆け抜ける。

 叫びざま、船べりに手をかけて身を躍らせる。

 空気が一瞬止まり――足裏に衝撃が突き抜け、桟橋に着地した。


「リセル!」


 子どもたちが叫んだ。

 振り返ると、スイの青灰の目が静かにこちらを射抜いていた。

 それだけで、周囲の空気が張りつめる。

 一瞬怯みそうになるが、リセルは両足を踏ん張って両拳を握りしめた。


「俺は行かない」

「なんだと?」


 低く落ちた声に、空気が凍りつく。


「みんなと東には行けない。俺にはまだ、やることがある」

 青灰の瞳が冬の海のように光る。

「――今、なんて言った?」


 怒気を帯びた声が船上に落ちた。

「まさか、ここで下ろせって言うのか。冗談じゃない。ここはラファス領だ。何のために連れてきたと思ってる?」


 ひとつひとつの言葉が鋭く突き刺さる。

「ラファスで降りるなら、ヴェルナに置いてきた方がまだマシだろうが――それくらいわかるはずだ」


 空気が張り詰め、周囲の仲間も息をひそめた。

 リセルは拳を握りしめ、喉がひりつくように乾いていた。


「……約束したんだ」


 吐き出した声に、スイの瞳が細められる。


「誰とだ? あの子に迎えに来てと言われたか? 俺には黒衛について行ったように見えたが。――お前を巻き込まないためだったんじゃないのか」


 リセルは一瞬言葉を詰まらせた。

 脳裏にフィンの背中が浮かぶ。


(――違う)


 一緒に行こうと差し伸べた手。

 その瞬間から、自分は決めていた。

 エリシアを守りきると。


「一緒に行こうって俺から言ったんだ。だから――迎えに行く。それが俺の、俺自身への約束だ」


 静かな言葉に、甲板の空気がぴんと張り詰める。

 青灰の瞳が揺らぎ、スイはつぶやいた。


「……ユーファ(守りの戦士)の性か」


 その声はかすかで、リセルには届かなかった。

 だが得体の知れない瞳の奥に、わずかな揺れが見えた気がした。


「残るなら保護はしない。役に立てないなら放り出す。それでもいいのか?」

 リセルは迷いなく答えた。

「これでも二年、一人で生き延びてきた。初めから子ども扱いされる筋合いはない」

 短い沈黙ののち、スイの口元がわずかに緩んだ。

「言ったな」

 そのまま振り返り、声を張る。

「ラグド!」


 桟橋で樽を担いでいたラグドが顔をしかめて振り返る。

「はぁ? なんだよ」

「俺が戻る前に、そいつを少しは使えるようにしとけ」

「ああ? なんで俺がガキの世話なんか」


 ラグドは舌打ちし、肩で樽を揺らした。

 スイの青灰の瞳が鋭く光る。


「目を離すな。こういうのは、勝手に死に急ぐ」


 ラグドは苦虫を噛み潰したような顔をし、樽を乱暴に下ろす。

「……ちっ。好きにしろ。面倒増やすなよ」

 リセルは拳を握り、静かにうなずいた。

「それと。ラファス領でその髪は目立ちすぎる。なんかで隠せ。布でも帽子でもいい。見つかったら終わりだぞ」


 そのとき、桟橋を渡る軽い足音が近づいた。

「おーい、リセル!」

 振り返ると、シュアが片手を振っていた。

 いつもの調子の笑顔で、リセルに小さな包みを押しつける。


「使い古しで悪いけど、帽子やるよ」

 軽い生地の帽子だった。雪国のものではない。

 薄手の布が、海風にふわりと揺れた。

「東で待ってる。やり残したこと、片付いたら絶対来いよ。うまい飯屋があるんだ。連れてってやる」


 甲板の陰から、エクシルが顎を上げた。

 風に削がれるような声で、ぽつり。

「……無茶すんなよ」

 それだけ。

 続くはずの言葉は、どちらも呑み込んだ。


「シュア、行くぞ。長居しすぎだ」

 背後からスイの声が響く。

 振り返りもせず、ただ命じる調子だった。


「リセル。ラグドとクロファについていけ」


 合図とともに、アルバトロスの船は岸を離れた。

 帆が風をはらみ、音もなく遠ざかっていく。

 船は静かに波を滑っていった。


 クロファが金の目でじっとその影を追う。

 リセルの視線に気づいたのか、

 クロファは横目で一瞥し、ほんのわずかに口の端を上げた。


「……面白くなってきたな」


 リセルは面食らい、言葉を探したがすぐには出てこなかった。

 昨夜はどこか幻想じみて見えたその瞳も、明るい場所では、面白いものを見つけた子どものように輝いていた。


「あんた、もしかして楽しんでないか?」


「おい、ガキ」

 乱暴に呼ぶ声に振り返ると、ラグドが面白くなさそうに腕を組んでいた。

「余計な手間を増やしてくれたな。まず、それかぶれ。すぐに移動だ。ジルド! イリアス!」


 後ろで休憩していた男達に声をかけた。

「はい! ラグドさん! もう行くんですか?」

 若い方の薄茶の髪の青年があわてて背筋を伸ばした。顔には似合わない無精髭を薄く生やしている。


「ここで油を売るつもりはない。さっさと行くぞ」

「でも、こいつは? なんで置いてかれたんだ?」

「聞いてなかったか? 残るんだとよ。とんだ命知らずのせいで、荷物が増える」


「人手には変わりない。荷物運ぶのにちょうどいいや。これから川を遡るからな」

 長く伸びた茶髪を無造作に束ねた漁師風の男が、日に焼けた顔をほころばせ、口ひげを撫でた。


 リセルは振り返った。

 港を離れていく帆船が、もう小さく見える。

 甲板で手を振る子どもたちの声は届かず、ただ風と波にかき消されていった。


(次の掃除の約束、守れなくてごめん。カイ)


 胸の奥がじりっと焼ける。

 それでも視線は逸らさず、唇を噛みしめたまま、姿が見えなくなるまで立ち尽くした。


 あんなに渇望していた東行きの船。

 そのためだけに生きてきた。

 きつい労働も、命がけの〈背運び〉の仕事も――全部、船に乗るためだった。

 けれど、自分はその船から降りた。


 もう戻れない。

 何も知らなかった頃には。


 ――エリシアに出会う前の自分には、戻れないんだ。




          ――六章前半

           アルバトロスの船編 完――

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