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灯火の誓い〜孤独を選んだ少年と、名を奪われた少女の逃避行ファンタジー  作者: 水瀬 莉音
第六章 アルバトロスの影

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第五十一話 幻影

 食堂を後にしても大部屋には戻らなかった。

 甲板で風にあたりたかった。

 船上はしんと静まり返り、月明かりだけが波を照らしている。足元の板はかすかに揺れ、黒い海と夜空の境が溶け合っていた。


 ここは、昼間とは別の場所――現実から切り離されたような空間だった。

 船室からはまだ灯りが漏れていた。スイが起きて何かをしているのだろう。

 だが、もう一度中に入る気にはなれなかった。


 何を言えばいいのか。

 お前にできることはもう何もない――そう突きつけられるのが怖かった。


「……眠れないのか」


 低い声に振り向くと、クロファが手すりに肘をついて立っていた。

 月光を浴びた白銀の髪が滑らかに揺れ、細身の体は風に溶けて頼りなげに見える。

 だが、金の瞳だけは夜の中で不自然に輝き、現実感を奪っていた。

 その姿は、エルカの郷に伝わる“風の守り神”の影を思わせた。


「海の上は……落ち着かない」

「そうか」


 それ以上を求めない相槌が、不思議とやわらかく耳に残った。

 その時、沖の闇に影が揺れた。

 帆だ。軍用か偵察か――ただの漁船には見えない。

 リセルの体が強張る。

 隣のクロファが人差し指を唇に当て、口の端を歪めた。


「……シーッ。黙っていればわからない。見えないようにしている」

「見えない……?」

「幻術だ」


 リセルは闇に浮かぶ帆影を凝視した。

 だが次の瞬間、月光に滲むようにかき消え、ただの波の陰にしか見えなくなる。


(……本当に、見えていない?)

 背筋に冷たいものが走った。


「……風読みとは違うのか?」

 思わず口にした問いに、クロファは興味なさそうに肩をすくめる。

「風? そんなものではない。光を歪めているだけだ。人は“見えない”と思ったものは、もう見ようとしなくなる」

 金の瞳が揺れ、人を喰ったような笑みが浮かんだ。

 しばし沈黙ののち、クロファが横目でリセルを見る。

「……黎火れいかさと、目指してたんだな。ユーファはそこで力を、エルナは手放す――そういう伝承だ」


 そして、海を見つめながら、クロファは静かに言葉を紡いだ。

 不思議な声だった。高くも低くもない。

 ただその声音は淡く、水面を揺蕩たゆたわせる風のようだった。

 歌の一節のようなその響きが、夜の潮騒へほどけていく。


 ――ひとつの民は、焔とともに暮らしていた。

 焔は灯りであり、恵みであり、守りだった。

 だが民は分かたれ、再びひとつになることはなかった。

 ある日、強き火を恐れた国が郷を焼いた。

 焔は絶たれ、歌は忘れられた。

 けれどまだ、灯は絶えていない。

 炎の記憶は、遠い誰かの胸に、静かに残っている――


「なんだ、それ? 昔の伝承か? なんでお前が知ってるんだ」

「別に。このくらい、歴史に聡ければ知っている。お前はユーファで、あの子はエルナの末裔だろ? 分たれた民が偶然出会った……興味深い話だ」

 どこか楽しげにクロファが口の端を上げた。その目は、相変わらず海と空の境目を、見るともなしに見ていた。

 リセルは拳を握りしめた。

 急に、言葉が堰を切ったように溢れた。

「…………俺は、ずっと、この力が怖かった。あの日から、奪われた人を思うと――溢れ出すのが止まらないんだ……」


 こんな風に話すつもりはなかった。

 そもそも自分はいつだって、うまく話せない。

 口にする前に飲み込み、喉の奥でほどけて消えてしまう。


 でも、今は違った。


 夜の海に立つ不思議な空気。クロファの現実から半歩はみ出した気配――それが、心の奥の言葉を引き出していった。なぜか、クロファにはそういう気配があった。人なのに、人ではない。話した言葉は、人に話しているというよりも、空間に吸い込まれていくような感覚だった。


 手ごたえがない。

 まるで、風に舞う布のあいだを、そのまま風が抜けていくみたいに。


 クロファは眉をわずかに上げ、ちらりとリセルを見た。

 それから、何も言わず、視線をまた海へ戻す。


 一度口をついて出た言葉は、もう止まらなかった。


「あの炎がでるときは……境目がなくなって、自分が消えていく。体を失う感覚になるんだ。

 それに……あの、誰のものかもわからない焼き尽くされた風景が頭から離れない。訳もわからず誰かを傷つけるのが怖かった。

 だから、黎火れいかさとに行けば、暴走せずにすむと思った。エリシアだって……何の力かは言わなかったけど、自分の力をなくしたいんだって、そう言ってた。

 そのために、俺たちは隠れていた場所から出てきたんだ。

 でも……もうそのさとはないって、お前が言った。

 そんな場所のために、俺はあの子をまた危険にさらしたんだ…………」


 一気にそこまで言うと、リセルは船の手すりを両手で握りしめた。顔を伏せて、唇を引き結ぶ。

 クロファはしばし黙り、夜の風に視線を流す。


「確かにそういう伝えはある。だが考えたことはないのか? なぜそういう伝えが残っているのか。……ユーファとエルナが、かつてそこに共にいたからだろう」

「…………お前の言い方は回りくどくてわからない」


 クロファがふっと笑う。白銀の髪が月に淡く光った。


「ならそれでいい。……場所がなくなったとして、お前はどうする?

 それでも見てみたくはないか。かつての祖先の土地を」

「わからない。そこに行く意味は、もう……」


 ――もうないのかもしれない。


「諦めるのか? あの子のことも、自分の力のことも」


 答えられないリセルを見つめ、クロファは言葉を置く。夜目にもその目が好奇心の光を帯びたように見えたのは錯覚だろうか。


「……俺たちがどこに寄港するか、知りたくはないか?」


「え……?」


黎火れいかさとだ。今は廃村だが、隠れ家にはちょうどいい。

 他の子どもたちはさらに東のルシトに送られる。……まぁ、あいつは――スイは見捨てられないたちでな。途中で拾った子どもを東へ流すのは、いつものことらしい」


 クロファは月明かりの海を見たまま、淡々と言った。


「だが、今回の本命は別だ」


 金の瞳がわずかに細められる。


「あいつは、エルナの子を救い出すためにかなり前から動いていた。足がつかないように東の人間まで呼んで、聖堂のボヤまで偽装した。あいつにしては……随分踏み込んだ手口だったわけだ」


「それが、分からない。スイは、なんのために……」


 クロファはそれには答えない。ただ、夜の海へ視線を流した。


「王城に連れていかれた程度で、諦めるとは思えんな」


 リセルは息を呑む。


「……どういう意味だ?」

「このまま東へ行くだけだと思ったか?」


 クロファの口の端がゆっくり歪む。


「あいつにはまだ手札があるということだ」


 夜風が白銀の髪を揺らした。


「お前も、その手札のひとつになってみるか?」

「なんで、それを……今、俺に言う?」

「さぁ……諦めてない顔をしていたからかな。人の縁はわからない。出会ったのも偶然じゃないかもしれない」


 リセルは息を呑んだ。


「……すべてはお前次第だ。夜明けまでには決めるといい」


 夜風が吹き抜け、白銀の髪とともにクロファの気配は闇に溶けていった。


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