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灯火の誓い〜孤独を選んだ少年と、名を奪われた少女の逃避行ファンタジー  作者: 水瀬 莉音
第六章 アルバトロスの影

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第五十話 希望の地

 眠ろうとしても、寝返りばかりが増えていく。


(……なんで、こんなに息苦しいんだ)


 エリシアは今、どこで、どんな夜を過ごしているのか。

 別れ際に触れた、あの震える指先。黒地に銀の装飾を走らせた軍服の兵士たち。冷えた深灰の瞳が脳裏をちらついた。


 エリシアは、あんな男に自らついて行った。

 そこで目をぎゅっと閉じ、頭を振った。


(……違う。本当はわかっている。あの子が割って入らなかったら、俺は斬られていた。エリシアは俺を庇ったんだ)


 記憶の中のドレイドが耳元で囁く。


 ――その弱い火で、守れるのか?


 胸のざわめきが膨らみ、堪えきれず布団をはねのけた。

 冷えた空気が頬に触れる。外に出れば少しは落ち着くかもしれない。

 そう思って大部屋を抜け出し、中層階を歩いていくと、食堂からまだ灯りがもれていた。


 ロウが仕込みでもしているのだろうか。皿洗いが残っていたら、やってもいい。

 そう思って覗き込む。

 そこには酒のグラスを片手にしたシュアと、果物を卓で切っては口に運ぶエクシルがいた。


 奥の長椅子ではロウが寝床代わりに横たわり、豪快ないびきをかいている。

 エクシルの足元では黒猫が丸くなり、喉を鳴らしながらミルクを舐めていた。

 ほのかに酒の香りが漂っていて、夜の空気に溶けていた。


 戸口に立つリセルに、すぐにエクシルが視線を送る。落ち着いた紫の瞳に射抜かれるようで、リセルは思わず足を止めた。

 引き返そうとしたところを、シュアが嬉しそうに手招きした。短い金髪がやわらかく波打ち、淡い青の眼がほのかに笑みを含んでいる。


「ちょうどよかった。リセルもどう? どうせ眠れないんだろ。夜は考え事が増えるからね」


 しぶしぶ中に入ると、エクシルが椅子を引いて座らせた。細身の体は隙なく整っていて、痩せた指が果物を器用に回している。

「何、飲んでるんだ」

「酒。ルシトから持ってきた上等なワイン。飲んでみる?」


「未成年に勧めるな」

 すかさずエクシルが制した。

「お前にはいいのがある。待ってろ」

 そう言って厨房に入ると、赤みがかった茶髪が灯りの奥へ消えていく。


「大部屋はどう? 子どもたち、不安がってるだろう、本当は」

 船灯りに、少し癖のある金髪がやわらかく揺れる。細身の体つきだが、果物の皿を差し出す腕は思ったよりしっかりしていた。


「説明が足りないんじゃないか。みんな東に行ってどうなるかがわからないから……不安なんだ」

「それは、君も含めて?」

「…………別に、俺は」


 リセルは切れ長の目を伏せ、長い睫毛の影を頬に落とした。


「本当に目的地に着くまでは、詳しいことは言えない。これでも綱渡りなんだ。でも、一つだけ言える。東のルシトはこことは違う」


 シュアの声は柔らかい。

 酒が回ったのか、いつもより少し抑揚が強かった。


「交易の港だからね。世界中から人が集まる。異国の言葉も珍しい衣も混じり合って、すぐに溶け込んでしまう」


 その光景がまだ想像できないのに、胸が熱くなった。

 半信半疑で縋っていた幻のような国は、本当に存在していたのだ。

 他人の口から語られるだけで、それは形を持ち、確かな手触りとして迫ってくる。


 ――こうして聞いていると、シュアの言葉の響きは少しだけ違った。

 話していることは分かる。

 けれど、ラファスやヴェルナで聞く言葉とはどこか違う。

 母音を飲み込むような、不思議な訛り。


「……あんた、もしかしてルシトの人間か?」


 シュアは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。


「ん? ああ、訛ってた?」

 肩をすくめ、グラスを揺らす。

「生まれはルシトじゃないよ。その隣の国さ。……こっちには何度も来てるし、ルシトにもラファス商人は山ほど来るからね。言葉はだいたい覚えるんだよ」


 やがてエクシルが戻り、リセルの前に湯気の立つマグを置いた。

「ほら、未成年はこっち」

 甘い匂いがふわりと広がり、酒の香りを塗り替えていく。

 薄茶色のどろりとした飲み物だった。


「……何これ」

「ココア。寝る前にはこれがいい」

 エクシルはシュアを横目で見た。

「飲むと、そいつ訛りが出るんだ。下手くそ」


「いいじゃないか、別に」

 シュアは笑って続ける。

「この船は、無理強いはしない。向こうに渡りたいって子だけ連れて行くんだ。残りたい子たちはヴェルナの別の伝手つてに預けてる。……スイがね」


伝手つてって……」

 リセルが前のめりになる。

「ルシトにも、スイの伝手つてで流れてきた子どもを受け入れてる学校みたいな場所もあって――」


 シュアは軽くグラスを揺らした。


「まぁ、普通なら身元もない連中は港で弾かれるんだけど……スイはその辺うまくやるんだよ。通行証だとか、受け入れ先だとか――」


 だが次の瞬間、エクシルが低く言った。

「シュア。飲みすぎだ。そのくらいにしとけ」

 グラスを持つ腕を掴まれ、シュアが不満そうに口を尖らせる。

「えー、いいじゃないか。せっかく面白くなってきたのに」


「そろそろ酒没収だ」

 そう言って、まだ少し酒の残った瓶をシュアから遠ざけた。

「こいつ、飲むと面倒くさいんだ」

 エクシルは緩んだ顔のシュアを横目に、指さして溜息をついた。


 その言葉に、酔って面倒を起こしたフィンを思い出し、リセルは真剣な顔で頷いた。

「なんかわかんないけど……じゃあ、やめたら」

「リセルまで…………」

 がっくりと肩を落とすシュア。


「言ったろ。その一杯で最後だからな」

 エクシルに釘を刺され、シュアは「はいはい」と大切そうにグラスを口に運び、肩をすくめた。

「とにかく、ルシトはラファスみたいに、出身や力だけで排除する国じゃない」


 グラスの中で赤い酒が揺れる。

「……まぁ、管理はされるけどね。登録制度もあるし、力を持つ人間は国に把握される」

 シュアは苦笑した。

「でも、合理主義なんだよ。危険だから消すんじゃない。“扱えるなら共に生きる”って考え方だ」


 淡い青の眼がゆっくり細まる。

「竜の力も、向こうじゃそこまで忌まれないよ」

 シュアはグラスの縁を指先でなぞった。


「“神獣の加護”だなんて言う連中もいるしね」

 軽くグラスをあおり、シュアは口元に笑みを浮かべた。

「昔の王様が竜に会った、なんて逸話もあるくらいだ」


 淡い青の眼が細められ、リセルを見やった。

「……ラファスだと、そういう力は異端扱いなんだっけ?」


 エクシルが視線を上げた。紫がかった瞳に光が差す。

「……まぁ、とにかくラファスみたいに、“最初から存在しないもの”扱いはされない」


 リセルはためらいながら口を開いた。

「……ルシトって国には、そういう力のある人間が他にも住んでるのか?」

「いるよ。まぁ、ここの火の民みたいなのは珍しいけどね」


 シュアは少し目を細める。

「体が妙に丈夫だったり、傷の治りが早かったり。そういう“少し違う”人間は案外いる。治癒の力を持つ人間なんかは、学院や研究機関で働いてたりもするし」


「便利なら国に使われるってことだ」

 エクシルが低く言った。

「搾取もある。でも……ここよりはましかもな」


 海鳴りが低く響く。


「少なくとも、“力を持って生まれた”ってだけで石を投げられたりはしない」


 リセルは黙ったまま、マグを見下ろした。

「まぁ、夢みたいな場所じゃないけどね」

 シュアは苦笑しながら続けた。

「それでも、ここより息はしやすいと思うよ」


 グラスを揺らしながら、シュアは頬杖をついた。

「君みたいな火の民は……おそらくイース大陸特有の竜の力に近いんだろうけど……」

「……憶測で喋るな」

 エクシルが釘を刺す。


「研究者は仮説を口にする生き物なんだよ」

「元、だろ。しかも専門違いの」

 低く返され、シュアは肩をすくめた。


「はいはい、元ね、も・と・研究者。今はしがない音楽家です」

 シュアは胸に片手をあてて、芝居がかった礼をして見せた。

「貧乏のな」


 二人の息の合ったやりとりに面食らう。

 

(研究者? 由賊が?)


 リセルが怪訝に眉を顰めても、シュアはにこっと破顔すると、おどけて言った。


「一曲どう?」


 そばにかけた楽器ケースに手をかける。すかさずエクシルが口をはさんだ。


「今クロファが外から見えないようにしてるんだから、余計な音立てるな」

「……見えないように?」

 リセルが眉を寄せる。

 だがエクシルは答えず、シュアの楽器ケースを押し戻した。


 ――東。


 噂だけを追いかけていたその場所が、少しだけ輪郭を持ちはじめていた。

 けれど、聞けば聞くほど分からないことも増えていく。


 力を持つ人間。

 管理する国。

 知らないものばかりだった。


 それに、クロファとかいう白銀の髪の男。

 “見えないようにしてる”とは、どういう意味なんだ。

 何一つわからない。

 だが、確かなことが、一つだけある。


「それなら…………ルシトは、エリシアが行くべきだった」


 二人は息を呑んだ。

 シュアはグラスを置き、視線を落とす。

 エクシルも口を開かない。ただ、前に置かれたマグをリセルの方へ押しやった。


「……早く飲め。冷める」

「え?」

「特別に配合したやつだ。眠れないときに効く」


 しぶしぶ口をつけると、どろりとした甘さが舌に広がった。


「――うわ、甘……」

 思わず顔をしかめると、シュアが小さく吹き出す。

「だろ? 眠れない時は甘いものが効くんだよ。体も温まるしね」

 エクシルも口の端をわずかに動かした。


「……あんたたちは、スイとはどういう関係なんだ」

「恩人でもあるし、雇い主でもある、と言っておこうか」

 シュアは笑みを含ませて、からかうように言った。淡い青の眼が柔らかく細められる。


「スイってさ、冷たいだろ?」

「別に」


 リセルは赤い髪を揺らし、マグを持ち上げて口元を隠すようにして答えた。視線がわずかに泳ぐ。


「あいつは、困ってる子どもを無事に東に連れていきたいだけ。ちょっと気が立ってるだけだよ。……ほら、もう考えるのはやめて、それ飲んだら寝な」


 これ以上聞いても、何も答えてくれないだろう。そう思いながら、リセルはマグをもう一度口に運ぶ。


(……甘すぎるだろ、これ)


 マグから立ちのぼる甘い湯気と、猫の喉鳴りに包まれながら、リセルは静かに目を伏せた。


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