第四十九話 夜の船
──甲板作業を終えるころには、すっかり夕暮れになっていた。
赤い光が帆布に沈み、海面をきらきらと染め上げる。風に混じる潮の匂いが鼻をかすめた。
夕食のあとも、結局フェレンの機械室を手伝わされ、慣れない作業で体が固まっていた。
リセルは疲れた体を引きずるようにして、大部屋に戻った。
小窓から差す光はもう藍に沈み、灯りの明かりだけが布団や荷物をぼんやり照らしていた。
子どもたちは思い思いに散らばり、小さな声が飛び交っている。
その中で、淡い金髪の小さな女の子がしくしく泣いていた。胸に抱えた布人形の片腕が、無惨に千切れていた。
「……お母さんが、作ってくれてたお人形なのに……」
しゃくり上げる声に、周りの子たちも気まずそうに目を逸らす。
リセルは足を止めた。しばし迷ったが、女の子の前にしゃがみ込む。
「見せてみろ」
不思議そうな目で差し出された人形を受け取り、ほつれた糸を指で探る。
腰の袋から細い針と糸を取り出すと、迷いなく布を縫い合わせていった。
泣いていた子が目を丸くする。
「……治ってる」
「ほら」
リセルは女の子に手渡した。
女の子は嬉しそうに胸に人形を抱くと、ありがとうと笑った。こぼれた涙が頬を濡らした。
「よかったね!」
髪の短い快活な顔立ちの女の子が、人形を抱きしめる金髪の女の子の肩をさすった。
「どこが破れてたのかもわからない! 魔法みたい!」
ルカが感嘆の声を上げると、テオンやカイも集まってきた。
「ねぇ、これ、昔父さんからもらった帽子だったんだけど、穴が開いちゃってて……」
「あ、まって、リセル、私の髪飾りも!」
「……俺の襟巻も」とカイまで口を出す。
次々と差し出される小物に、リセルは面食らった。
「おい、一度に出すな」
文句をこぼしつつも、手は止まらなかった。針が布を通る音だけが静かに響き、大部屋のざわめきが次第に落ち着いていく。
しばらくして、ひと通り直し終えると、子どもたちは嬉しそうにそれぞれの持ち物を抱きしめた。
「ありがとう!」
「すごいね、お兄ちゃん」
照れくささに目を逸らすと、ルカが得意げに言った。
「ほら、やっぱりリセルはただの怖い人じゃなかったでしょ!」
カイがぼそりと漏らす。
「でも、その兄ちゃんは、ほんとの火の民なんだろ……」
「もう、そんなのどうでもいいじゃない。この恩知らず!」
ルカに一喝され、部屋に笑い声が広がった。
その後、灯りが落ちて布団に潜り込むと、ぽつりぽつりと小さな声が漏れはじめた。
「……ねぇ、ぶっちゃけさ、本当に東に行くと思う?」
「行ったとして、それからどうなるんだろ」
「誰か知ってる?」
返事はなく、沈黙が落ちる。
やがて布団の影からすすり泣きが聞こえた。昼間はあんなに笑っていた、快活な顔の女の子だった。
「もう、急にどうしたの?」
「本当は、私、知らないところになんて、行きたくない。でも……もう、家もなくなって帰るところもないし……」
その声につられるように、もう一人の女の子の声も震えた。
「私も……お母さんに会いたい」
リセルは暗がりの中で、天井を見つめた。
笑い声が消える。
残るのは、本当の不安だけだった。
外からは、木がきしむ音と波の寄せる音が、やけに大きく響いてくる。
それでも、少しだけみんなより年上のルカが、気丈に言った。
「でもさ、スイ様は、悪い人じゃないよ、絶対。だって私を助けてくれたもん。本当に働かせたり、売るつもりなら、こんな風に自由にさせてもらえてないと思う」
テオンが体を起こして、明るい声で言った。
「みんな、大丈夫だよ。俺なんて、父さんが〈背運び〉で帰ってこなくて、港で一文無しでさ、腹減って動けなくなってるときに、あの人達がここに連れてきてくれたんだ。そんな金にもならないこと普通してくれないって」
「東の大陸ってどんな国があるのかな」
「怖くないとこだといいね」
ぽつぽつと話す声が徐々に少なくなっていった。
子どもたちはそれぞれ眠りに落ちていく。
健やかな寝息と、波の音が混ざって静寂に溶けていった。
リセルは布団の中で小さく拳を握り、布端を強くつかんだ。吐き出したい言葉を呑み込み、吐息を押し殺す。
――それでも、みんな、前を見ている。
けれど、自分だけは。
(俺は――)
このまま、東になんていけない。
夜になると、目を閉じてもエリシアの顔が浮かぶ。
どうすればいいのか。どうするべきなのか――
答えは、まだ見つからない。
布団の中で、目を閉じた。
それでも、眠りは来なかった。
藍色の夜の船は、静かに波に揺れていた。




