第四十八話 船の午後
昼下がりの食堂は、ほんのり甘い香りで満ちていた。
机の上には果物や干し菓子が広げられ、子どもたちが思い思いにつまんでいる。
孤児ということを忘れるくらい、笑い声とおしゃべりが絶えなかった。
栗色の髪の年長の少年と、赤髪の小柄な少年――リセルの寝台に潜り込んだあの子も、今は何やらカード遊びに夢中になっている。
リセルは食卓の端に腰を掛け、エクシルにすすめられたハーブティを手にしていた。
胃の重さはまだ抜けなかったが、遊ぶ子どもたちを見ていると、妙に遠い感覚がした。
(……ここにエリシアがいたら、あの三人の女の子と仲良くなったのだろうか)
そう思うと、湯気の奥の苦味がいやに強く残った。
少し離れた席ではシュアやエクシル、クロファが遅めの昼食をとっていた。さらに奥に、ラグドも座っている。
シュアは、リセルと目が合った瞬間、にっこり笑って手を振った。
「気分はどう?」
明るい笑顔に面食らうも、無言でうなずく。
扉に近い席に腰を下ろすと、どこからか黒猫がすり寄ってきた。
(猫までいるのか……)
リセルは指先でその毛並みを撫でた。その柔らかい感触に、ようやく体が少しだけほぐれる。
「なぁ……俺たちって、どうなるんだ?」
赤髪の少年――カイが菓子をいじりながら、ぼそりと呟いた。緑の瞳が不安に揺れる。
「働かされるわけでもなく、飯も菓子も出されて……遊んでばっかりだ。……騙されてんだよ。東に着いたら、きっと売られるんだ。この船は奴隷船なんだ」
「そんなわけないでしょ!」
すぐさま黒髪の少女――ルカが立ち上がり、胸を張った。
「なんだよ、ルカにわかるもんか」
「スイ様がそんなことするはずないもん! だってスイ様は――異国の王子様なんだから!」
「ぶっ……!」
茶をすすっていたラグドが盛大に吹き出した。慌てて口を拭いながら、咳き込んでいる。
「なに、ラグドさん。行儀悪いよ」
「うるせぇ、お前が変なこと言うからだろ、ガキが」
ルカが得意そうに胸を張った。
「知ってるもん。大人は飲み込む力が弱くなるんだって。ばあちゃんが言ってた!」
「……それ、遠回しにじじいって言ってるぞ」
テオンが肩を震わせながら突っ込む。
「別に、遠回しじゃないし」
悪びれずにはっきりと答えるルカに、ラグドは額に皺を寄せ、低くうなった。
「おい、俺はその王子様とそんな変わらないんだぜ」
「えっでも、ラグドさんは、もっと上じゃ……」
ルカがさらに口を開こうとした瞬間、ラグドが肩肘をついて鋭い目で睨みつけた。
気づいたテオンが青ざめた顔で、ルカを慌てて押しとどめる。
重苦しい空気が一瞬走り、周りの子どもたちも息を呑んだ。
ラグドはわざとらしく重々しく言い放つ。
「……お前、今夜皿洗い担当な」
「えぇーっ!?」
ルカが顔を真っ赤にして叫んだ。次の瞬間、抑えていた笑いが弾けるように、子どもたちから大爆笑が起こった。
ラグドはニヤリと笑い、子どもたちを怖がらせては楽しんでいる節があった。
その横でカイが肩をすくめ、ぼそりと漏らした。
「……やっぱり俺たち、売られる前に使われてんだ」
「もうっ! あんたは暗いの!」
二人の言い合いに、周りの子どもたちがくすくすと笑う。
リセルはハーブティの湯気に目を伏せた。
笑い声の中、胸に残るのは妙なざらつきだった。
(……奴隷船? もしエリシアを助けて……売るつもりだったら?)
眉間に皺が寄り、思わず立ち上がってしまう。
「よぉ、楽しそうだな」
背後から声が落ちた。マストの影から現れた銀髪の青年――スイと、ばっちり目が合った。
「……お前、エリシアを助けて売るつもりじゃないだろうな」
リセルの声は低く、大真面目だった。
「は?」
スイの片眉が上がる。
背後からルカとテオンの笑い声が響いた。
「ほらね、引っかかった!」
「お前が言うからだろ」
スイは肩越しに二人を見やり、ため息をつく。
「……二人とも、誤解を招くようなことは言うな」
「でも事実じゃないもん。ね、スイ様がそんなことしないっていうのは当たり前のことでしょ?」
ルカが勝ち誇ったように笑う。
テオンが肩をすくめ、にやりとした。
「王子が奴隷商人って、その時点でおかしいよな」
スイはこめかみを押さえた。
「……なんか頭痛くなってきた」
そして、わざとらしく子どもたちを見渡し、ぼやくように言った。
「バカなこと言ってると……次の寄港地で降ろしてくぞ」
「置いてかれても、絶対置いてもついてくもん!」
ルカは即答する。
「……ほんと、スイも面倒くさいの拾ったな」
テオンがぼそりと呟き、その横でリセルも小さくうなずいた。
スイは小さく息を吐き、空いた席に腰を下ろした。
リセルは迷い、ついに声を出す。
「……昨日のこと、全部じゃないだろ。エリシアは――」
スイはゆっくり視線を上げ、低い声で返した。
「昨日で全て話した。聞いたところで、お前に何かできるのか?」
リセルの喉がひりつく。声が詰まった。
「お前に選択肢はあるのか?」
その言葉には、王城になど踏み込めない現実が滲んでいた。
リセルは拳を握ったまま、返す言葉を飲み込む。
そのとき袖をぐいと引かれ、フェレンの声が割り込んだ。
「ねぇ、リセルだっけ? もう具合よさそうなら、ちょっと手を貸して」
振り向けば、フェレンがロープを抱えて立っていた。
半ば強引に立たされ、食堂を出る。
扉を押すと、潮風と陽射しが一気に吹き込んできた。
帆布の影、ロープの軋む音、甲板を行き交う足音。
フェレンは手にしたロープをリセルに押しつけると、まじまじとその手を見た。
「君、きれいな手してるね」
リセルは思わず顔を背けた。
「……そうか?」
「ちょっとマストの調整が必要でね。ロープの結び方教えるから、覚えといて」
見よう見まねでロープを結ぶと、意外にも手が素早く動いた。
「やっぱり、思った通り! よく器用って言われない?」
フェレンの目がきらきらと輝く。
そのとき、甲板の端から低い声が落ちた。
「……フェレンに目をつけられたか」
振り向くと、白髪の男がロープを肩に担いだまま立っている。
白髪の男は、それを無造作に足元へ下ろした。
「面倒見はいいがな。気に入られたら最後、使い潰されるぞ」
「ええ、バルド……そんなふうに思ってたの?」
フェレンが目を丸くする。
「私がいつ、使い潰すって? こんなに優しいのに」
バルドは肩をすくめた。
「……その裏に、打算の文字がなけりゃな」
フェレンが口を尖らせる。
寡黙な印象だったが、わずかに目が笑っていた。
そこへ、テオンとふざけて走り回っていたカイが、リセルにぶつかった。
「突っ立ってんなよ。邪魔だよ!」
キッとにらみつけてくる。
いつの間にか木箱に座って、煙草をくわえたまま剣を磨いていたラグドが、顔も上げずに言った。
「気にすんな。あいつはまだガキだ。矛先を向ける相手もわかっちゃいねえ」
「どういうことだ」
「カイラだったらしいぞ。赤髪って理由で村を追われた。置き去りになってたとこを俺が拾った。お前みたいな本物の火の民をよく思ってないんだろ。ま、そのうちわかるさ」
リセルは短く答えた。
「……別にいい。そういうの、慣れてる」
「ほー、だから顔が根暗っぽいんだな」
「こらラグド! そういうこと言わない! まだ怪我してるんだから!」
フェレンが抗議する。
「その怪我人を率先してこき使ってるのは誰だ?」
「ち、ちがうよ! 気が紛れるかと思っただけ!」
子どもたちがくすくす笑う中で、リセルは小さく肩をすくめた。
その様子を見ていた子ども達が、また悪ノリを始めた。
「ほらな! やっぱり働かされてるじゃん!」
「奴隷船だー!」
きゃっきゃと笑い転げる。
ラグドはにやりと笑って、わざと子どもたちを煽るように視線を投げた。
そこへ、鍋を肩に担いだロウがのしのし現れた。
「おいお前ら、人の飯食って遊んでばかりと思うなよ。皿洗いと掃除くらいはちゃんとしてもらうからな!」
「……げっ!」
子ども達が一斉に口を閉ざす。ロウの言葉は妙に効くらしく、場がしんと冷えた。
フェレンはそんな空気も気にせず、さらにリセルの腕を取る。
「ね、ね、船も案内するから、来てみない?」
甲板に引っ張り出されたリセルは、なぜかフェレンに工具を渡され、帆の補修まで手伝わされていた。
糸を通し、裂けた布を押さえながら縫い目をなぞっていく。
言われた通りにやるだけで、指は勝手に動いた。
「リセル、ほんとすごいね!」
フェレンがぱっと顔を輝かせて声を上げる。
「覚えも早いし、手際がいい。何かそういう仕事してたの?」
「毛皮の縫製とか、まぁ、いろいろ」
リセルは顔を上げず、針を動かし続けた。
その様子を、少し離れたところで子どもたちがのぞき込んでいる。
「見て、まだ働いてる」
「やっぱり、少し大きくなれば使われるんだよ、俺たちも」
くすくす笑う声や、カイの悲観的な声が耳に入ってきた。
リセルは眉をひそめたが、黙って縫い目を結んだ。
こき使われているのは否めなかったが、黙って寝ているよりは手を動かしている方が幾分かましだった。
風にひらめく帆布の影の下、針の先だけがかすかに光った。
「そのうち、機械室も見せていい?」
それは、暗に機械室も手伝えということだろう。
リセルは小さく溜息をついた。
(……何もしないよりは、ましだ)




