第四十五話 潮の音
雪明かりの先に、父と母がいた。
――あの時も。
ふたりは俺を逃がそうとして、『隠れてろ』と言った。
その隣に、フィンの姿が闇の中に浮かぶ。
ランプの光のように、はっきりと。
――隠れてろ。
そう言って俺を庇い、そしていなくなった。
そして、夕陽の丘にエリシアが立っていた。
春の雪が舞う中で、彼女はそっと笑う。
――もういいの。
もういいって、何が?
やめろ。
守ろうとするな。
俺を守ろうとした人は――
消えた。
守られたくない。
……もう、誰からも――!
* * *
目を開けると、涙が頬を伝っていた。
息が浅い。
胸の奥が、まだ冷たい。
その瞬間、潮の香が鼻を突く。
耳にまとわりつくのは雨音――そう思った。
けれど違う。
規則正しく、途切れず打ち寄せている。
耳障りだ。
雪なら、全部を吸い込んで沈めてくれるのに。
この空虚も、胸のざらつきも、白に溶けていくのに。
今は、何ひとつ入ってきてほしくなかった。
それでも、ランプの光が無理やり目に入ってくる。
横を向くと、見知らぬ青年が椅子にもたれ、腕と脚を組んでいた。
淡い銀の髪が目に入る。
目が合うと、口の端がかすかに上がる。
「……やっと起きたか」
リセルは慌てて目を擦った。
「なかなか起きないから、そろそろ死んでるんじゃないかと思ったぞ」
「――誰だ?」
青年は意外そうに眉を上げた。
青灰色の瞳が、冬の海の底のように深かった。
「お前の方が、俺たちを探してたんじゃないのか?」
「は?」
「シュアに声をかけようとしてただろ。爆発さえなけりゃ、合言葉を言えてたはずだ」
指で自分の上腕を叩く。黒い布が巻かれていた。
「――それ!」
リセルは半身を起こした。
途端に腹の奥が痛み、堪らず体を折り曲げる。
「まだ動くな」
青年が肩を押し戻す。強いが、乱暴ではない。
「噂を聞いて来たんだろ。俺はアルバトロス由賊団の一員だ」
そう言って、銀髪をかき上げながらリセルを一瞥した。
一瞬、視線が引っかかる。
息が、わずかに止まる。
足を組み替える。
それだけの動きなのに、目が離せない。
こんな動きをするやつは、見たことがなかった。
最初は、顔立ちのせいかと思った。
――違う。
動きだ。
青灰の瞳に、一瞬だけ値踏みする影が走ったが、すぐに消える。
残ったのは、皮肉めいた笑みと無駄のない仕草だった。
「……エリシアは?」
「あの子か」
青年は、しばらくリセルを見つめ、それから息を吐いた。
「黒衛――ラファス王直属の軍に連れていかれた。俺たちも探してたが……まさか、あいつまで来てるとはな」
あいつ――まるで知り合いのような言い方だった。
だがそれ以上に、「探してた」という言葉が胸をざわつかせる。
「……探してた? じゃあ、なんで俺だけ連れてきた。エリシアを――どうして見ていて何もしなかった!」
青年は目を細めた。
「黒衛は厄介だ。特に、あの将には……姿を見られるわけにはいかなかった」
「じゃあ俺は? 赤髪だから売るつもりか」
その問いが思いがけなかったのか、青年はきょとんとした顔で、顎に手をあてた。
「どうしてって……あそこに置いといたら捕まってただろ。爆発もあったし、お前がやったと思われても仕方なかった」
「俺じゃない」
「わかってる」
短く返し、溜息をつく。
「……悪い噂を信じてるな。売らねぇよ。お前は東行きだ」
「何だ、それ」
「聞かなかったか? アルバトロスは孤児を東に運んでる。それだけの船だ」
リセルは押し黙った。
手放しの善意なんて、すぐには信じられない。
「わかったら少し寝ろ。船医が手当てしたが、傷が開くぞ」
「――せ」
「あ?」
「ここから降ろせって言ってる」
痛む腹を押さえ、寝台から足を下ろした。
「おい」
青年の声を無視し、扉に手を掛ける。
潮風が頬を打ち、足元が揺れた。
不安定な感覚に、思わず壁にしがみつく。
そこは、船の甲板だった。
夜は更け、銀の星空が視界を埋め尽くす。
波のしぶきが海と空の境を作り、ようやくここが海の上だと気づく。
雨音だと思ったのは、海の音だった。
陸育ちのリセルには、この揺れは頼りなく、気持ち悪い。
「……一応聞くが」
背後から青年の声。
「降ろすって、ここでか?」
リセルは振り向きざまに睨みつけた。
立ち上がると、青年は自分より背が高く、見下ろされるように感じた。
「そんなわけないだろ!」
「怒るなよ」
青年はわずかに眉を寄せ、軽く片耳を押さえた。
肩をすくめる余裕に、余計胸がざわついた。
「おい、なんだなんだ、大声出して」
甲板の奥から影が動く。
「そいつ、起きたのか?」
不精髭に煙草を咥えた筋肉質の男が、柄杓を片手にのしのしと歩いてきた。
腰には場違いな深緑のエプロン。
長めの前髪から覗く鋭い目で、二人を順番に見て、無遠慮に近づく。
「大声出すな。まずはメシだ。怪我人用のメニューも用意してる」
ぐいっと体を曲げ、リセルの顔を覗き込む。
鋭い視線に思わず後ずさる。
「言っとくが、この船じゃ俺の飯が食えない奴は降りてもらう。海の上でも容赦しねぇ」
「ロウ、やめろ。まだ弱ってる」
「るせぇ。厨房来い」
そう言い残して、ロウと呼ばれた男は去っていった。
振り返ると、銀髪の青年と目が合った。
口の端が笑みに変わる。
「ま、まずは夕飯にしようぜ」
* * *
船の中層に通されると、そこは厨房と食堂がつながった場所だった。
「とりあえず食って寝ろ。後でだれかに部屋に案内させる。詳しい話は明日な」
銀髪の青年はそう言い残し、食堂を後にした。
がらんとした食堂には、もう誰もいなかった。
食事の時間はとっくに過ぎているらしい。
厨房には、食器が片付けもされずに散らかっている。
ぎこちなく席についたリセルの前に、ロウが乱暴にスープの椀を置いた。
茶金の髪が、わずかに揺れる。
湯気が立ちのぼり、魚と香草の匂いが鼻をくすぐる。
「食え。怪我人用にしてある」
ぶっきらぼうに言い残すと、さっさと奥へ引っ込んでいった。
スプーンを口に運ぶ。
粗野な態度とは裏腹に、優しい味だった。弱った体でも食べやすいように整えられている。
(……食える)
久しぶりにまともな食事をした気分だった。
椀が空になるころ、横から湯気の立つ茶が差し出された。
「……え?」
気配をまったく感じなかった。いつ入ってきたのかもわからない。
「よく眠れる配分にしといた」
顔を上げた瞬間、リセルは固まった。赤茶の髪の青年――あの港町で、リセルとエリシアに合言葉のことを伝えた男だった。あの時、顔は布で半分隠れていたが、その紫がかった目は特徴的だった。
「あのときの占い師!」
リセルの声に、赤茶の髪の青年はほんのわずかに笑ったように見えたが、すぐ無表情に戻り、茶を卓に置いた。
「占い師って!」
扉の方から吹き出すような声がして、金髪の青年が現れた。にやにやと笑みを浮かべながら。
「そりゃまた妙な呼び名をつけられたもんだ」
「お前も……!」
胸がざわつき、リセルは思わず立ち上がりかける。
金髪の青年は手をひらひら振って笑った。
「港じゃ俺が張ってたんだ。けど、あの爆発で台無しさ。接触どころじゃなくなった」
赤茶の髪の青年が、ちらりと視線を寄越す。
「シュアに合言葉を言いかけてただろ。もう少しで、二人とも間に合った」
リセルは息を詰めた。
――本当に、助けようとしていたのか。
胸が苦しくなる。もしあそこでドレイドと戦わなければ、エリシアも今ごろここにいた。
「ほら、飲めよ」
金髪の青年が茶を指した。
「エクシルのは効く。よく眠れるから」
「……でも、助けようとしてたなら……なんで、そんなまわりくどいことを」
リセルは茶には口をつけず、俯いたまま呟いた。
「俺たちにも限界があるんだ」
シュアは困ったように笑う。
「連盟やラファスの目をかいくぐるのは簡単じゃない」
エクシルが短く言葉を足した。
「合言葉は、俺たちなりの確かめ方だ」
「……そのせいで間に合わなかったんじゃないか」
リセルの言葉に、二人は返さなかった。
「俺だけ助かったって言われても……エリシアは連れていかれたんだ。あそこには戻りたくないって言ってたのに。それなのに――」
拳が震える。
誰よりも、許せないのは自分だった。
「……茶が冷める。今はとにかく、飲んで、寝ろ」
エクシルが短く言った。
「お前は助かったんだ」
一拍置いて、
「今はそれでいい」
「あの子は、大丈夫」
シュアが今度は優しく背中をさすった。
「連れていかれたからって、ひどいことはされてないはずだ。俺たちも、できることはやる」
心の奥から心配するような、柔らかい声だった。でもどこか押し殺した響きがあった。
リセルは言葉を飲み込んだ。これ以上何かを口にすれば、自分が崩れてしまいそうだったからだ。
二人は大部屋まで案内してくれた。
二段の寝台が四台ほど並び、すでにいくつも寝息が聞こえていた。
リセルは入口に近い寝台に腰を下ろしたが、横になる気にはなれなかった。
波の音。船底から伝わる揺れ。
夜は更けているのに、眠れない。
廊下に出ると、操舵室に近い個室から明かりが漏れていた。
気づけば足が向かっていた。
「……あの子をどうする」
「黒衛が動いた以上、下手には近づけない」
「一度、黎火の郷にいる補給隊と合流して――」
(黎火の……郷?)
フェルディエルに教わった名に、足が止まる。
エリシアのことを話しているのか?
胸が熱くなった。
扉を押し開ける。
視線が一斉にこちらに向いた。
スイ、エクシルとシュア、大柄の男。
窓際に、もう一人。
白に近い銀髪。
――五人。
張り詰めた空気。
喉が焼けるように熱くなり、声が飛び出した。
「……俺にも、聞かせろ」
一瞬、部屋の空気が止まった。
視線が交錯し、互いに短く合図を送り合う。
驚きと警戒と――ほんのわずかな興味。
リセルは息を呑む。
それでも、後戻りはできない。




