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灯火の誓い〜炎を宿す少年と、癒しの力をもつ少女。それでも、選んでしまう旅。その炎は、守りか――灯火の竜の記憶か。   作者: 水瀬 理音
第五章 淡雪の鈴

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第四十四話 名前の輪郭

 港の外れに、まだ熱がこもっていた。

 焦げた板の匂いが潮風に混じり、煙の残滓がゆらりと空に溶けていく。

 遠くでは、鎮火に駆け回る怒声と、物を引きずる音が続いていた。

 ドレイドの影が闇に消えていく。


 その直後、別の音が近づいてきた――重く、律動のそろった蹄の音。

 冷えた夜気の中に、港の騒ぎとは異質な緊張が混じる。


「ずいぶんと、遅かったですね」


 冷ややかな声が、静寂を裂いた。

 塵さえも、動かなかった。

 

 リセルは咄嗟に振り返る。

 その声を合図に、木立の奥から数人の兵士が現れた。

 

 黒い外套に、軽い軍装。

 要所だけを固めた銀の鎧が、鈍く光る。


 その中央に、漆黒の軍装の男が立っていた。

 ――ラファス王直属の軍司令官、ヴァルデン。


 彼の視線が港の方角をかすめた。

 炎の残り火が、わずかに揺れている。


「……もう、いないか」

 

 その瞳はリセルを素通りして、エリシアに向けられた。


「ご無事でなによりです、フィルナ殿」


 低く抑えた声には、温度らしいものは欠片もない。


「私の見立ては正しかった。禁忌の森を抜けてヴェルナに入るなら、やがて港に寄るはずだと。もう少し発見が遅れていれば正式な捜索に移るところでした。……手間が省けましたよ」


 リセルの隣で、エリシアが息を呑む。

 一歩、無意識に下がった。


 男の視線がゆっくりとこちらへ向けられる。

 黒髪の下、深灰の瞳が光を捉えた。

 その奥は、磨かれた刃のようだった。


「お怪我はありませんか?」

 ただの確認だった。

 そう言わんばかりの、平坦な声で。


(あの人は――)

 その声を聞いた瞬間、エリシアの背にぞわりと冷たい記憶が這い上がる。

 ――初めてこの男を見たのは、聖堂の裏手だった。


 その日もまた、「規律違反」として罰を受けた。名を名乗っただけで。

 冷たい石畳に膝をつき、聖職者に腕をねじ上げられ、背に鞭を受けた。


 肉が裂ける音とともに、焼けるような痛みが背中を走る。

 けれど痛みよりも悔しさの方が強かった。


 そのときだった。重い足音が響いた。

 黒い外套の男――ヴァルデンが、静かに歩いてきた。

 王直属の軍司令官。

 視察という名目で、聖堂に滞在している男だった。


 彼は一言も発さず、その場を冷ややかに見渡した。

 次の瞬間、無言で聖職者の腕を掴むと、ためらいなく拳を振り下ろす。

 鈍い音が、空気を裂いた。


 聖職者の顎が折れ曲がり、血飛沫が石畳に散った。

 男は吹き飛び、動かなくなった。

 辺りは凍りつくような静けさに包まれる。

 誰も、動かなかった。


「王の庇護下にある者に傷をつけるとは、王を侮辱するのと同じこと。

 今後このようなことがあれば、聖職者とて処刑の対象になる。忘れぬことだ」


 怒気も慈悲もなかった。

 ただ、氷のような秩序だけが、そこにあった。

 助けられた――はずなのに、怖かった。


 それ以来、体罰はなくなった。

 だが、代わりに『丁重に扱え』という命令が下った。

 食事は時折抜かれ、灯りのない石の部屋に閉じ込められ、支給されたのは薄布一枚の礼装だけ。

 名前を呼ばれなくなったのは、いつからだったか。


 叱責でも、祈りでもなく、ただ帳面の中で「フィルナ」と記されるようになった。

 たとえ痛みがなくなっても、冷たさと飢えが、ゆっくりと心を削っていった。


 結局、彼がもたらしたのは、救いではなかった。

 ただ、王命に従い、『丁重に扱え』と命じただけ。

 それが、エリシアに残された孤独という名の、冷たくも"優しい檻"だった。


 フィルナという名で呼ばれ、本来の名前を口にすることも許されなかった。

 そうして、彼女は少しずつ、自分の輪郭を失っていった。


 ――今、目の前にその男がいる。

 あのときと変わらない、隙のない佇まい。

 何一つ感情を映さない、無機質な声。

 彼はきっと、また命令に従って動いているだけなのだ。

 エリシアは、唇をかすかに噛みしめた。


 ヴァルデンの口元が、ほんの一瞬、笑みの形を取ったように見えた。


「束の間の旅は楽しかったですか?」


 リセルはすぐに身構えたが、男は一歩も動かず、ただ静かに告げた。

「ご安心を。手荒な真似をするつもりはありません。今のところは、ですが」

 その言葉に、エリシアの顔から血の気が引く。


「あんた、何者だ」

 リセルが低く問うと、ヴァルデンは少しも表情を崩さぬまま、エリシアだけに視線を向けた。


「あなたが逃げたことで、どれだけの人間が責を負わされたかお分かりですか?」

「どういう意味ですか?」

「あなたの世話係の女を覚えていますか? 毎朝、食事を運んでいた」

 エリシアの顔が強張る。

「……やめて」

「それから――本を渡していた者もいた」

 一拍、間が落ちる。

「あなたの逃亡に関わった聖堂女も、だ」

 エリシアが小さく首を振る。

 唇が震える。


「彼らが今、どこにいるか。どんな罰を受けたか、想像に難くないでしょう。ですが、今戻ればまだ間に合います。これはあなたが犯した罪には、ずいぶんと寛大な処置です。

 事実、既に数名は拘束されています。牢に入れられ、処刑の準備も進められていると聞きます。あなたの帰還が、唯一の免罪符になるでしょう」


 エリシアが震える手で裾を掴む。


「もちろん、従えばの話です。大人しく従えば、私は手荒な真似はしません。ですが、抵抗すれば――彼らの命は保証できません」


 リセルが一歩踏み出す。

 その瞬間、ヴァルデンが初めてわずかに声の調子を変えた。


「なんだ、少年。君には関係ないはずだが」


 一瞬、ヴァルデンの視線がリセルの目を捉えた。

 火の揺らぎのなかで、その視線がリセルの髪から、瞳へとゆっくりと動いていった。


「なるほど」


 低く呟いたあと、彼はあっさりと視線を外す。


「君は、火の民か。ならばこの地にいる分には私の管轄外だ。だが、一歩ラファスの領内に足を踏み入れたなら、その処遇も私の任になる」


 それは静かな、しかし決定的な脅しだった。


「まあいい。君の素性など、今の任務には無関係だ。私の任務は、この方を連れ帰ること。それ以外に興味はない」


 それは警告にも、黙認にも聞こえた。


「連れ帰るって、ただの荷物みたいに言うなよ」

 拳を握りしめ、低く言い放った。

「こいつは、戻らない」


 ヴァルデンは眉を上げた。


「それはお前が決めることではない。……どけ」


 ヴァルデンは一歩、ゆっくりと前に出た。

 踏み出した足元の湿った土が、じくりと音を立てる。

 春の気配を孕んだ空気が、ふたりの間に張り詰めた静寂をもたらした。


「最後の警告だ。そこをどけ」


 不意に、エリシアが割って入った。


「リセル、もういいの!」


 彼女はヴァルデンとリセルの間に立ち、リセルの肩に両手を添えて押し戻す。

 華奢な指が、かすかに震えていた。


「エリシア、お前……!」

「いいの、リセル、私、戻らなきゃ……そうしないと、他の人達がひどい目にあう」

 

 その震えが、手越しに伝わる。

 胸の奥を、刺した。

 

 顔を上げた彼女の瞳に、炎が揺れる。

 光がにじみ、歪んだ。


「だから、あの人達についていく」


 何か言い返したくても、言葉が出てこない。

 その瞬間――。


「――そういうことだ、少年」


 低く、乾いた声が背後から落ちた。

 振り返ろうとしたときにはもう遅かった。

 首筋に鋭い衝撃が走り、世界の輪郭が揺らぐ。

 音もなく、視界がずれる。


「このことはもう忘れてくれ。その代わり、我々も君のことを忘れてやるよ……ユーファの少年」


 耳元で、氷の刃のような囁きが残る。


「――お前……っ!」


 沈みかける意識にしがみつき、膝に力を込めて立ち上がろうとした――

 だが次の瞬間、みぞおちに衝撃が走り、息が止まった。


 そのまま、体が崩れる。

 うつ伏せに倒れた。

 冷たく湿った土が、頬と胸に触れた。


「リセル!」

 エリシアの叫びが、遠くで繰り返し響いている。


 ――守らなければ。


 そう思っているのに、体が動かない。

 世界が暗く、遠くなっていく中――。

 ヴァルデンの冷ややかな声だけが、鮮明に響いた。


「さあ、行きましょう。フィルナ殿」


 行ってはだめだ。

 何かが喉の奥から絞り出された。


「――エリシア」


 最後の呟きは、容赦なく踏みしめられる兵士の足音に、無情にかき消された。

 その声だけが、彼女の名前の輪郭を、まだ呼び続けていた――。


 薄れゆく意識の中、風が白いものをさらっていった。

 割れた鈴がころんと転がり、青や橙や白──春の雪のような光が散った。


 もう何も聞こえなかった。

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