第四十四話 名前の輪郭
港の外れに、まだ熱がこもっていた。
焦げた板の匂いが潮風に混じり、煙の残滓がゆらりと空に溶けていく。
遠くでは、鎮火に駆け回る怒声と、物を引きずる音が続いていた。
ドレイドの影が闇に消えていく。
その直後、別の音が近づいてきた――重く、律動のそろった蹄の音。
冷えた夜気の中に、港の騒ぎとは異質な緊張が混じる。
「ずいぶんと、遅かったですね」
冷ややかな声が、静寂を裂いた。
塵さえも、動かなかった。
リセルは咄嗟に振り返る。
その声を合図に、木立の奥から数人の兵士が現れた。
黒い外套に、軽い軍装。
要所だけを固めた銀の鎧が、鈍く光る。
その中央に、漆黒の軍装の男が立っていた。
――ラファス王直属の軍司令官、ヴァルデン。
彼の視線が港の方角をかすめた。
炎の残り火が、わずかに揺れている。
「……もう、いないか」
その瞳はリセルを素通りして、エリシアに向けられた。
「ご無事でなによりです、フィルナ殿」
低く抑えた声には、温度らしいものは欠片もない。
「私の見立ては正しかった。禁忌の森を抜けてヴェルナに入るなら、やがて港に寄るはずだと。もう少し発見が遅れていれば正式な捜索に移るところでした。……手間が省けましたよ」
リセルの隣で、エリシアが息を呑む。
一歩、無意識に下がった。
男の視線がゆっくりとこちらへ向けられる。
黒髪の下、深灰の瞳が光を捉えた。
その奥は、磨かれた刃のようだった。
「お怪我はありませんか?」
ただの確認だった。
そう言わんばかりの、平坦な声で。
(あの人は――)
その声を聞いた瞬間、エリシアの背にぞわりと冷たい記憶が這い上がる。
――初めてこの男を見たのは、聖堂の裏手だった。
その日もまた、「規律違反」として罰を受けた。名を名乗っただけで。
冷たい石畳に膝をつき、聖職者に腕をねじ上げられ、背に鞭を受けた。
肉が裂ける音とともに、焼けるような痛みが背中を走る。
けれど痛みよりも悔しさの方が強かった。
そのときだった。重い足音が響いた。
黒い外套の男――ヴァルデンが、静かに歩いてきた。
王直属の軍司令官。
視察という名目で、聖堂に滞在している男だった。
彼は一言も発さず、その場を冷ややかに見渡した。
次の瞬間、無言で聖職者の腕を掴むと、ためらいなく拳を振り下ろす。
鈍い音が、空気を裂いた。
聖職者の顎が折れ曲がり、血飛沫が石畳に散った。
男は吹き飛び、動かなくなった。
辺りは凍りつくような静けさに包まれる。
誰も、動かなかった。
「王の庇護下にある者に傷をつけるとは、王を侮辱するのと同じこと。
今後このようなことがあれば、聖職者とて処刑の対象になる。忘れぬことだ」
怒気も慈悲もなかった。
ただ、氷のような秩序だけが、そこにあった。
助けられた――はずなのに、怖かった。
それ以来、体罰はなくなった。
だが、代わりに『丁重に扱え』という命令が下った。
食事は時折抜かれ、灯りのない石の部屋に閉じ込められ、支給されたのは薄布一枚の礼装だけ。
名前を呼ばれなくなったのは、いつからだったか。
叱責でも、祈りでもなく、ただ帳面の中で「フィルナ」と記されるようになった。
たとえ痛みがなくなっても、冷たさと飢えが、ゆっくりと心を削っていった。
結局、彼がもたらしたのは、救いではなかった。
ただ、王命に従い、『丁重に扱え』と命じただけ。
それが、エリシアに残された孤独という名の、冷たくも"優しい檻"だった。
フィルナという名で呼ばれ、本来の名前を口にすることも許されなかった。
そうして、彼女は少しずつ、自分の輪郭を失っていった。
――今、目の前にその男がいる。
あのときと変わらない、隙のない佇まい。
何一つ感情を映さない、無機質な声。
彼はきっと、また命令に従って動いているだけなのだ。
エリシアは、唇をかすかに噛みしめた。
ヴァルデンの口元が、ほんの一瞬、笑みの形を取ったように見えた。
「束の間の旅は楽しかったですか?」
リセルはすぐに身構えたが、男は一歩も動かず、ただ静かに告げた。
「ご安心を。手荒な真似をするつもりはありません。今のところは、ですが」
その言葉に、エリシアの顔から血の気が引く。
「あんた、何者だ」
リセルが低く問うと、ヴァルデンは少しも表情を崩さぬまま、エリシアだけに視線を向けた。
「あなたが逃げたことで、どれだけの人間が責を負わされたかお分かりですか?」
「どういう意味ですか?」
「あなたの世話係の女を覚えていますか? 毎朝、食事を運んでいた」
エリシアの顔が強張る。
「……やめて」
「それから――本を渡していた者もいた」
一拍、間が落ちる。
「あなたの逃亡に関わった聖堂女も、だ」
エリシアが小さく首を振る。
唇が震える。
「彼らが今、どこにいるか。どんな罰を受けたか、想像に難くないでしょう。ですが、今戻ればまだ間に合います。これはあなたが犯した罪には、ずいぶんと寛大な処置です。
事実、既に数名は拘束されています。牢に入れられ、処刑の準備も進められていると聞きます。あなたの帰還が、唯一の免罪符になるでしょう」
エリシアが震える手で裾を掴む。
「もちろん、従えばの話です。大人しく従えば、私は手荒な真似はしません。ですが、抵抗すれば――彼らの命は保証できません」
リセルが一歩踏み出す。
その瞬間、ヴァルデンが初めてわずかに声の調子を変えた。
「なんだ、少年。君には関係ないはずだが」
一瞬、ヴァルデンの視線がリセルの目を捉えた。
火の揺らぎのなかで、その視線がリセルの髪から、瞳へとゆっくりと動いていった。
「なるほど」
低く呟いたあと、彼はあっさりと視線を外す。
「君は、火の民か。ならばこの地にいる分には私の管轄外だ。だが、一歩ラファスの領内に足を踏み入れたなら、その処遇も私の任になる」
それは静かな、しかし決定的な脅しだった。
「まあいい。君の素性など、今の任務には無関係だ。私の任務は、この方を連れ帰ること。それ以外に興味はない」
それは警告にも、黙認にも聞こえた。
「連れ帰るって、ただの荷物みたいに言うなよ」
拳を握りしめ、低く言い放った。
「こいつは、戻らない」
ヴァルデンは眉を上げた。
「それはお前が決めることではない。……どけ」
ヴァルデンは一歩、ゆっくりと前に出た。
踏み出した足元の湿った土が、じくりと音を立てる。
春の気配を孕んだ空気が、ふたりの間に張り詰めた静寂をもたらした。
「最後の警告だ。そこをどけ」
不意に、エリシアが割って入った。
「リセル、もういいの!」
彼女はヴァルデンとリセルの間に立ち、リセルの肩に両手を添えて押し戻す。
華奢な指が、かすかに震えていた。
「エリシア、お前……!」
「いいの、リセル、私、戻らなきゃ……そうしないと、他の人達がひどい目にあう」
その震えが、手越しに伝わる。
胸の奥を、刺した。
顔を上げた彼女の瞳に、炎が揺れる。
光がにじみ、歪んだ。
「だから、あの人達についていく」
何か言い返したくても、言葉が出てこない。
その瞬間――。
「――そういうことだ、少年」
低く、乾いた声が背後から落ちた。
振り返ろうとしたときにはもう遅かった。
首筋に鋭い衝撃が走り、世界の輪郭が揺らぐ。
音もなく、視界がずれる。
「このことはもう忘れてくれ。その代わり、我々も君のことを忘れてやるよ……ユーファの少年」
耳元で、氷の刃のような囁きが残る。
「――お前……っ!」
沈みかける意識にしがみつき、膝に力を込めて立ち上がろうとした――
だが次の瞬間、みぞおちに衝撃が走り、息が止まった。
そのまま、体が崩れる。
うつ伏せに倒れた。
冷たく湿った土が、頬と胸に触れた。
「リセル!」
エリシアの叫びが、遠くで繰り返し響いている。
――守らなければ。
そう思っているのに、体が動かない。
世界が暗く、遠くなっていく中――。
ヴァルデンの冷ややかな声だけが、鮮明に響いた。
「さあ、行きましょう。フィルナ殿」
行ってはだめだ。
何かが喉の奥から絞り出された。
「――エリシア」
最後の呟きは、容赦なく踏みしめられる兵士の足音に、無情にかき消された。
その声だけが、彼女の名前の輪郭を、まだ呼び続けていた――。
薄れゆく意識の中、風が白いものをさらっていった。
割れた鈴がころんと転がり、青や橙や白──春の雪のような光が散った。
もう何も聞こえなかった。




