第四十三話 共鳴
沈黙が重く沈む。
リセルは歯を食いしばり、足を踏み出した。
炎の影が、二人の間で揺れる。
「……やるのか、坊主」
ドレイドの笑みが、夜に落ちた。
空気が裂ける音――
次の瞬間、火花が散った。
刃が頬をかすめ、熱い線を残す。
ドレイドは剣先を下げ、間合いを外そうともしない。
その目は、何かを待っているように静かだった。
「……出さないのか?」
低く、揺れのない声。
「俺相手に、丸腰のままでどうするよ。炎出さないと、死ぬぞ」
リセルは息を詰める。
次の瞬間、剣閃が視界を裂く。
脇腹に、熱が走った。
「……っ」
深くはない。
だが、肉を抉った。
——殺す気はない。
なのに、相手の視線は獲物を逃す気のない捕食者のそれだった。
突然、胸の奥で何かがはじけた。
視界が、揺らぐ。
自分のものではない感情が、熱と共に胸の奥から押し寄せ、逃げ場を奪っていく。
怒り。絶望。焼け焦げた匂い――そして、誰かの声。
『……兄ちゃんがくるまで待とう』
焚火に揺らぐ灰のように、人影が浮かび上がった。
(……あれは、ドレイド?)
今より少し若い顔。
全力で駆け戻ってきたその目の奥には、焦りと恐怖が入り混じっていた。
その集落は、もう形を失っていた。
崩れた家の影に、二つの小さな体。
小さな女の子――まだ七つか八つくらいだろうか。
その体はぐったりと力を失い、少年の腕に抱かれていた。
少年は震える唇で、まるで自分に言い聞かせるように繰り返した。
『……大丈夫。兄ちゃんがくるまで待とう。兄ちゃんなら、やっつけてくれるから』
ドレイドは駆け寄り、二人の体を抱き起こす。
『おい……大丈夫か! しっかりしろ!』
その声は届かなかった。
女の子の瞳はすでに閉じられ、動かない。
少年はその小さな体を抱きしめ、どこか遠くを見て呟き続けた。
『……大丈夫。兄ちゃんが……みんな……やっつけてくれるから』
ドレイドは必死で何かを叫び、少年の肩を揺さぶった。
それでも少年は、うわごとのように「大丈夫だから」と女の子に向けて繰り返すだけだった。
言葉を失うドレイド。
(お前……もう、見えてないのか)
炎に照らされたその横顔。
咆哮とも嗚咽ともつかない声が喉から溢れる。
(……間に合わなかった)
胸を裂くような痛みと共に、その言葉がリセルの心に落ちた。
境界が溶け、怒りが混ざり合い、炎が奥底からせり上がってくる。
熱と轟音が、世界を呑み込んでいた。
地面が裂け、赤い亀裂が脈打った。
空気は灼け、息を吸うたび肺が焼ける。
草は音もなく黒に溶け、風さえ火に飲まれて消えた。
リセルの視界は赤と黒に塗りつぶされていた。
炎は牙を剥き、咆哮し、すべてを噛み砕く――。
もう止まらない。
止めたいのに、止まらない。
胸の奥で何かが叫び、血を吐くような怒りが手足を突き動かす。
(――また、守れなかった)
脳裏に焼き付いた光景が、炎と重なる。
父と母の血。フィンの笑顔。
そのすべてを、燃やしてしまえと炎が囁く。
轟音が耳を裂く。
焦げた匂いが喉に刺さる。
世界が、赤黒の地獄に変わっていく。
――そのとき。
ころん、と。
炎の轟きに呑まれそうなほど、かすかな音。
あまりにも場違いなその音に、リセルは一瞬、動きを止めた。
胸の奥の怒りが、ひどく遠くに感じられた。
「リセル!」
白い光が飛び込んできた。
炎が彼女を呑み込む――その瞬間、世界が弾けた。
轟音が、消えた。
まばゆさが視界を貫いた。
炎と光が、ぶつかり合っていた。
赤と橙の奔流に、白が差し込み、溶けていく。
爆ぜる音が鈴の音と重なる。
炎の破片が、光の粒子に変わって宙を舞った。
――金。赤。橙。
そこに、青と白が混ざり、虹のように揺れる。
砕けたガラス玉のきらめきが、風に散ったみたいだった。
(あの鈴……)
炎に焼け、弾けたはずのガラスが、光の中で七色に瞬いた。
春の雪と、夕日の色と、あの笑顔を思い出させる光だった。
リセルは光の中で、エリシアを見た。
炎の中で――燃えていない。
ただ、そこに立っていた。
手を伸ばし、まっすぐこちらを見ていた。
迷いのない瞳で。
(なんで……)
声にならない問いが、喉の奥でかすれた。
光が、世界を満たした。
轟音も、熱も、もうなかった。
残ったのは、鈴の音と、静かな風だけだった。
その風に、白いものが舞った気がした。
――雪?
いや、光の欠片だ。
ひとひらが指先に触れ、淡く消える。
(……きれいだ)
視界が、闇に沈んだ。
* * *
……耳に残っていたのは、風の音と、鈍い鈴の響きだった。
リセルは重いまぶたを押し開ける。
息は荒く、体中に熱がこびりついている。
焦げた匂いが鼻を刺した。
周囲には黒い焼け跡が広がっている。だが、誰も――焼けていない。
エリシアも。
彼女はすぐそばで、こちらを見ていた。
その手に、小さな擦り傷があるだけで、他は無傷だった。
視線を落とすと、地面に転がったものが目に入った。
――鈴。
ちぎれた紐と一緒に、ガラス玉がころんと横たわっている。
炎に焼けてひび割れたそれが、なお淡く光を返していた。
リセルの視界の中で、炎が静かに消えていった。
あの胸を裂く絶叫も、嗚咽も、嘘だったみたいに跡形もなく。
残ったのは、焦げ跡と、黒い影だけ。
(……あれは、ドレイドの弟と妹なのか?)
言葉にならないまま、拳が震える。
「――へぇ」
その声に、リセルの肩がびくりと跳ねた。
気づけば残り火の奥に、黒い影が立っていた。
「その子、燃えないんだな。……ユーファには見えないが。でも、まぁよかったな」
「よかったな」と口にする声は、ひどく冷たく響いた。
さっき垣間見た渦巻く感情。
確かに奥底には炎があった。
だがドレイドの顔は氷のように凍りついていた。それは、触れたら皮膚を裂く氷の刃のようだった。
ドレイドの視線が一瞬だけ、エリシアに落ちる。
「普通なら飛び火してる。坊主の中で、火が暴れたのに……不思議なもんだ」
ドレイドの片目が鈍く光った。
「もう少しで、出せそうだったのにな、炎」
リセルは顔を上げる。喉の奥が焼けるようで、声が出ない。
「見えたんだろ?」
ドレイドの声が低く落ちた。
「……あの景色。お前の記憶が、俺にも流れ込んできた。似てるな、俺たち」
リセルの指がわずかに震えた。
「そのまま暴れさせてやればよかったのにな」
ドレイドは、笑っていない。
その瞳の奥で、まだ炎が燻っている。
視界の端で、エリシアがわずかに身を寄せた。
「リセルは、あなたみたいに炎を使わない。――傷つけるためのものじゃない……!」
睨みつけた。
「一緒にしないで!」
焦げた匂いの中で、二人の呼吸だけがやけに大きく響いた。
だが、その静けさは長くは続かなかった――。
遠くで、馬の蹄が土を打つ音がした。重く、律動の揃った足音。
それは戦場を知る兵の行進のようで、港の混乱とは別の冷気を運んでくる。
ドレイドがちらと港の外れを見た。
「よりによって、ラファス兵か。ヴェルナ兵ならまだしも……」
炎を反射する瞳が、わずかに鋭さを増す。
「やつらの軍装、火が通らない」
そう言うと、剣を下げてリセルを見やる。
「じゃあな。お前も早く逃げな」
低く笑い、口元をわずかに歪めた。
「――次に会うときは、ちっとはましな火をみせてくれ」
リセルは、その赤黒い瞳から視線を逸らせなかった。
「じゃねぇと、誰も守れねぇだろ」
一瞬だけ、ドレイドの目に何かが揺れた。
それが後悔なのか、期待なのか、リセルには分からなかった。
「……お前も、俺と同じだろ?」
その言葉だけを残して、背は闇に消えた。その背は、人混みと炎の向こうに消えていった。
港の炎は衰える気配もなく、赤く暮れかけた空をじわじわと黒く染めていく。
遠くの海はすでに群青を落とし、波間に月の欠けた光が揺れた。
煙に紛れて、いつの間にか夜が降りてきていた。
その闇を割るように、馬の影が浮かび上がる。
黒い外套を翻した男が、ゆっくりと馬を降りた。
長い外套の裾が、地面の焦げ跡をかすめる。
「――やはり、生き延びていたようですね……フィルナ殿」
低く、氷のように冷たい声。
その声に絡め取られたみたいに、胸が沈んだ。
指先の力が抜ける。わずかに震えた。
足音だけが、近づいてくる――。




