第四十二話 掃除の時間
港の外れへ向かう足元に、影が長く伸びていた。
西の空は橙から群青へと変わり、波間の色も重く沈む。
潮風は昼より冷たく、頬を刺すようだった。
船の影がゆらめき、港全体がゆっくりと夜の顔に変わっていく。
桟橋の先で、爆ぜるような音が響いた。
次の瞬間、轟音とともに炎が噴き上がる。
桟橋の木板が吹き飛び、炎が空をさらに赤く染めた。暮れなずむ空と炎がせめぎ合い、港が昼と夜のあいだで揺れていた。
衝撃で海鳥が一斉に舞い上がり、甲高い鳴き声が混ざる。
悲鳴と怒声が港じゅうを駆け抜け、焦げた木の匂いが潮風に混ざる。
熱気が押し寄せ、視界の向こうで影がゆらりと揺れた。
炎の中から、剣を手にした男が現れる。
もう一方の手には、まだ火の残る痕――ドレイドだった。
「……掃除の時間だ」
低く呟くと、倒れかけの男の首筋に迷いなく刃を滑らせる。
血が甲板に飛び散り、続けざま別の男の胸を貫いた。
錆びた赤褐色の軍装――連盟兵士だった。
炎の熱気にも怯まず、一人ひとりを確実に仕留めていく。
その動きは荒々しくも整っていた。
炎と混乱の中、逃げ場を塞ぎながら仕留めていく。
狩りの手並みだった。
剣の銀が炎を反射し、赤と白の閃きが交互に走った。
リセルは通りの陰から、その光景を見つめていた。
ただ派手なだけじゃない。炎はまだ纏わず、冷静に切る。
ぞくりと背筋が冷える。
炎の向こうに残ったのは、あと二人。
一人は剣を捨て、膝をついた。
震える手を胸の前で組む。
「や、やめてくれ……もう戦う気はない! 俺は……あいつらみたいに、平気でやれねぇ……こんなの、続けられねぇ……降りるつもりだったんだ……か、家族が……」
桟橋の陰から、小さな悲鳴。
女と子どもが駆け寄ろうとするが、周囲の混乱に押し戻される。
「ドレイド! 何してる!」
リセルの声が港の喧噪にかき消える。
ドレイドはちらと振り返り、低く吐き捨てた。
「なんだ、まだいたのか。早く港に行けって言ったろ」
そして命乞いしている男に歩み寄り――
「人に刃を向けたら、自分も殺されることは覚悟しないとな」
動作のついでのように、刃を振り下ろした。
「やめて!」
女の叫びが割り込む。
ドレイドの腕が一瞬止まる。それでも、刃は落ちた。
血しぶきが火に照らされ、一瞬だけ紅く輝く。
叫び声が炎の轟きに混ざって遠ざかる。
ドレイドは剣を払うと、何事もなかったかのように背を向けた。
「自分たちが何をしたか、忘れて元に戻れると思うな」
炎は港を飲み込み、黒煙が空を覆っていた。
甲板や石畳には、焼け焦げた木片と血が入り混じって散らばっている。
「リセル!」
振り返ると、エリシアが倒れた兵士の傍らにしゃがみ込んでいた。
男は全身の半分以上を炎に焼かれ、皮膚がただれている。
「まだ息がある!」
エリシアが手をかざす。
柔らかな光が胸元を包み、焦げた皮膚がわずかに戻りかけて――途切れた。
「……ダメ。火傷が広すぎる……」
歯を食いしばる。
「……どうしたら……」
「――無理するな」
リセルが低く言う。
光が、わずかに強まる。
「エリシア。それ以上はやめろ」
光が消える。
リセルは目を逸らした。
「……もう、助からない」
炎の奥、ドレイドがまだ動いていた。
「……やっぱり、お前はどこか信用できないって思ってた」
リセルは呟く。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
「そいつを放せ」
リセルが短剣に手をかける。
「やだね」
ドレイドは鼻で笑い、倒れた兵士の襟首を掴んだ。
相手はもう、抵抗の力も残っていない。
「こいつらが何をしたか、わかるだろ? お前も、憎いはずだ」
炎の光が、ドレイドの瞳の奥でちらついた。
「……俺がヴェルナからイースガルド連盟を追い払ってやる」
低く、確信のこもった声。
「お前は黙って見てろ。武器にもならねぇケチな火しか出せないやつは、尚更な」
その言葉が、炎よりも鋭くリセルの胸に突き刺さる。
煙が視界を覆い、ドレイドの姿がぼやけていく。
それでも、あの冷たい声だけははっきりと耳に残った。
刃が降りる寸前、リセルの手がドレイドの腕を掴んだ。
「やめろ!」
腕を掴まれた瞬間、ドレイドの動きがぴたりと止まる。
視線が、獲物からリセルへとゆっくり移った。
怒りでも迷いでもない、ただ獲物を見定めるような目。
最後の男は、その場に崩れ落ちた。
傷口から血が滲み、息は浅い。
ドレイドは一瞥もくれず――そして、リセルの腕をゆっくり振りほどいた。
その瞬間、二人の距離も切れた。
火花のように一瞬、二人の視線がぶつかる。
「……邪魔すんな」
「やらせない」
波音が耳の奥で膨らみ、港のざわめきが遠ざかっていく。
炎の赤が、互いの瞳の奥で揺れた。
振り向いたドレイドの頬に、赤い飛沫が一筋。だが、表情は崩れない。
「こいつらは連盟兵士だ。今なんと言おうが、女子どもまで殺してきた奴らだ」
「だからって……! 殺すことねぇだろ!」
「は?」
ドレイドの笑みが、わずかに冷たくなる。
「お前……本気で言ってんのか? この状況で、そいつら生かしてどうする。戻りゃまた仲間連れてくるんだぜ」
「それでも……!」
言葉を絞り出すリセル。その拳は震えていた。
「甘ぇんだよ、坊主」
ドレイドは歩み寄り、血に濡れた剣先を炎にかざす。
赤く染まった刃が、闇に不気味な光を放つ。
「お前の火、きれいだよな。優しくて、あったかい」
声色に皮肉はなかった。ただ、静かだった。
「でもな――怒りに怯えてるうちは、何も守れねぇ」
「……!」
「言っただろ? 怒りは押し殺すもんじゃない。飼い慣らしてこそだ」
焚き火の夜と同じ言葉。だが、今は刃の先で言う。
「……お前のケチな火でも、ないよりマシだ」
剣を肩に担ぎ、ふっと笑った。
「来いよ。使い方、教えてやるよ」




