第四十一話 港町ファロス
それにしても、由賊の船が堂々と港に停まっているものなのか――
わからない。
ぐぅ、と間の抜けた音が響いた。
エリシアがお腹を押さえて照れくさそうに笑う。
「まずは飯だな」
港通りの飯屋に入り、二人で卓につく。
魚を焼く香ばしい匂いと、煮込みの湯気が店内に満ちていた。
背後の席から、ざらついた声がかかった。
「姉ちゃん、兄ちゃん、この辺りで見ない顔だなあ。二人旅かい?」
「……そうだけど」
「気をつけた方がいいぞ」
初老の男が、湯呑を置きながら身を乗り出してくる。
「最近、この港で下働きしてた子どもや孤児が消えてるんだ」
「消えた?」
エリシアが眉を寄せる。
「ああ、なんでも由賊が子どもを攫って、遠い東の大陸で奴隷にしてるとか。東は奴隷の値も高いらしい」
男はリセルをちらと見て、口元を歪めた。
「兄ちゃん達は分別ありそうだが、それでも気をつけろよ。子どもだけで歩いてたら狙われる。知らない奴にはついて行くな」
「子ども扱いするな」
リセルが低く返す。
横から別の男が口を挟んだ。
「おい、バカにするなって。なぁ、俺の息子より若そうだが、しっかりした面構えだ」
「……行こう」
食べ終えた器を置き、不機嫌そうに席を立つリセルに、エリシアは慌てて後を追った。
外に出て石畳を歩き始めたとき、通りの影が、少し長くなっていた。
背後から声がかかった。
「……そこの二人」
振り返ると、二十代そこそこの青年が立っていた。
背は高すぎず低すぎず、威圧感はない。だが、背筋は真っすぐに伸び、立ち姿に妙に隙がない。首に巻かれた黒い布が口元を覆い、その上から覗く瞳は落ち着いた紫色で、港のざわめきの中でも揺れなかった。
潮風が吹き抜け、赤みをほのかに帯びた柔らかな茶色の髪が、陽を受けて一瞬だけ暖色にきらめく。港の喧騒の中で、なぜかその気配だけが、しんと静まり返っていた。
リセルの視線が、男の外套の袖口に止まる。左腕には黒い布が巻かれていた。
黙っていると、男は静かにリセルとエリシアに視線を向けた。まるで、顔から何かを読み取るような、観察するような目だった。最初から、二人の様子を知っていたかのように。
「追われてる顔だな」
「……なんで……」
「待て、当ててやる」
男は話そうとするリセルに片手を向けて遮る。
視線がわずかに細められ、間をおいてから言葉が落ちた。
その目が、かすかに笑ったように見えたのは気のせいだろうか。
「……北から来た。そうだろう?」
「……何だ、お前」
「何か、探してるな」
淡々と告げる声。
あまりに的確で、胸の奥がざわつく。
布の影から辛うじて見えた口元は笑っているようにも見えた――けれど、その目は少しも笑っていなかった。
「港の中に、俺と同じ布を巻いてるやつがいる。そいつに、『風は西から』って言え。手を貸してくれる」
返事をする間もなく――男はあっという間に通りの角に消えていた。
男が消えた路地をのぞき込むも、もうその姿はなかった。
「なんか、占い師みたいな人だったね」
「あんな占い師がいてたまるか」
リセルは、吐き捨てるように言った。
「でも、あれって……もしかして由賊かな」
「……可能性はある。でも」
飯屋の男の言葉が頭をよぎる。
――人攫いかもしれない。子どもだけで歩いていたら、狙われる。
そのとき、港のざわめきの中に、かすかな泣き声が混じった。
リセルは足を止め、声の方を探る。木箱の影に、小さな背中がうずくまっていた。
「……おい、どうした」
顔を上げたのは、栗色のふわふわした髪の男の子だった。年は四つか五つに見える。涙で濡れた頬を袖でこすり、かすれた声で答えた。
「……父ちゃんと、はぐれちゃった。魚を売りに来て……ちょっとだけ船から降りたんだけど……戻ったら、もういなくて」
「こんなところにいたら、危ない」
「リセル、探してあげよう?」
エリシアの声に、ため息と一緒に頷く。
「どの辺りではぐれたの? 一緒にさがすよ」
エリシアが笑いかけると、安心したのか、男の子はまだ涙の残る目を瞬かせた。
港は潮と魚の匂いが濃く、足元には網や縄が散らばっていた。
すれ違う船員や商人が大声でやり取りをし、荷を運ぶ声が響いていた。
やがて、船の密集地の一角で、子どもが「あ!」と声を上げる。
桟橋の先で、同じ髪色の男が慌ててこちらに駆けてきた。
「こら! 探したぞ! 船にいろっていったのに……しょうがねぇいたずら坊主だ!」
「父ちゃん! ごめん!」
父子は抱き合い、父親はリセルたちに何度も頭を下げた。
見送りながらエリシアが「すぐみつかってよかったね」と安堵の笑みをこぼす。
「……そうだな」
(ああいうのが、子どもだ。俺たちは違う。怪しいかどうかは、見ればわかる)
不思議と、黒い布の連中を探す気になっていた。
「……ちょうど船も商人もたくさんいる。黒い布の連中がいるか、確かめよう」
「そうだね!」
「ただ、あの言葉を掛けるかは、会ってから決める」
そのとき、視界の端に一隻の船が入った。
他の船と同じように積荷を降ろし、商売の声を飛ばしている。
黒い布を腕や腰に巻いた船員たちは、荷の出し入れや商談に忙しそうだ。
だが、その中に一人――明らかに場違いな男がいた。
二十代後半ほど。
薄手の服の上に、明るい色の分厚い上着をきっちりと羽織っていた。
埃と潮風の中で、どこか噛み合わない。
船員らしい逞しさも、商人らしい鋭さもない。
それでも、船の荷を抱えている。
手つきは慣れているようでいて、どこか身が入っていない。
口元には柔和な笑みが浮かび、青い瞳は印象的で、港の喧噪を映していない。
「ん? 何か用かい?」
青年は背後のリセルとエリシアに気づくと、ふと向き直って笑った。
端正な顔立ちがくしゃっと崩れ、笑みが顔全体に広がる。
だが、その奥には、静かに人を測るような理知的な光が潜んでいた。
リセルは面食らった。
港の船員の中で、この柔らかすぎる物腰は異質だった。
「どうしたの? 迷子かい?」
「あ、あの……」
不意をつかれたように、エリシアの視線がわずかに逸れ、指先が無意識に外套の裾をつまんだ。
彼がにこっと笑った拍子に、丸みのある黒い帽子の下から、金色がかった髪がひと房だけ潮風に揺れた。
その横で、リセルは、あの言葉を言うべきか迷った。
ふと視線を巡らせると、この船のそばに、同じ黒い布を身につけた者がまだいた。荷を積んだままの木箱が、乱雑に積まれている。ここを拠点にしているらしい。
一人は、荷の山の前に立つ、ひときわ体格のいい男だ。
無言のまま木箱を担ぎ上げるその動きは重そうに見えて、実際には驚くほど無駄がない。
もう一人は、つなぎ姿の若い女だった。
積み荷の留め具を確かめ、道具袋から何かを取り出しては、手早く調整している。
その指の動きだけがやけに軽く、港の喧噪に埋もれない速さを持っていた。
会話は交わしていない。
けれど、互いの動きを確かめるような間合いだけが、はっきりとある。
港の風景に溶け込んでいるはずなのに――
胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
リセルが黙っているのを見て、エリシアが口を開きかけた。
「えっと……きょうは……あの、風が……」
「エリシア」
まだ判断には早い――
そう思って制止しようとした、そのときだった。桟橋の先から、甲板を蹴る音と怒声が重なった。
金属がぶつかる甲高い音。
潮の匂いに、わずかな焦げが混ざる。
通りを行き交う人々の足が一瞬止まり、ざわめきが走った。
混ざり込む、低く荒れた罵声。
港の騒ぎはさらに大きくなる。
子どもの泣き声と、誰かが叫ぶ声が響いた。
「なに?」
「わからない。でも――」
理由はなかった。ただ、嫌な感じがした。
リセルは短く息を吸い、声のする方へと駆けだした。




