第四十話 焦げた匂い
森はまだ湿っていた。夜の雨が葉に残り、滴がゆっくりと落ちる。
得体の知れない男だった。
だが、なぜか背を追うことに抗う気にはなれなかった。
害意があるなら、昨晩のうちに襲われている。
それでも、リセルは警戒を解かなかった。
軽装だが、身につけているものはしっかりしている。傭兵か、どこかの兵士の装備に近い。ドレイドは、何をして生きている男なのか。
三人は細い山道を下っていた。
その途中で、急にドレイドが足を止めた。そのまま、遠くの林に目をやった。
ドレイドを纏う空気が変わる。一段冷える。
思わず身構えるリセルに一瞥もくれず、ドレイドは二人の間を通り抜けた。
「――ちょっと先行ってろ」
「え?」
エリシアが振り返る。
「すぐ戻る」
そう言うと、男は道を外れ、林の奥へ消えた。
枝を踏む音が、すぐに遠ざかる。
リセルは眉を寄せた。
「……なんだ、あいつ」
「何か忘れ物かな」
「そんな顔じゃなかっただろ」
「じゃあ、あの、ほら……お花摘みとか……」
エリシアはリセルの耳元に口を寄せ、ごにょごにょと何かを言った。
頬がほんのり赤い。
リセルは一瞬黙り、否定する気も起きず溜息をついた。
雨の雫が葉から落ち、土に染み込む。森は静かだった。
しばらくして、枝が鳴る音が戻ってくる。
ドレイドだった。
「待たせたな」
何事もなかったように言う。
リセルは一歩近づいた。
かすかに、焦げた匂いがした。ドレイドの指先が、わずかに黒ずんでいる。
「……何してた」
ドレイドは肩をすくめた。
「俺かと思ったんだがな」
「は?」
「気づかなかったのか?」
ドレイドは軽く笑う。
「なんか、こそこそとしている奴らがいた。俺かと思ったが――案外、坊主かもな」
リセルの背がわずかに冷える。
ドレイドはそれに気づいたのか、ちらりとリセルに目線を送った。
黒い瞳の奥で、赤が揺れた。
「……どういう意味だ」
ドレイドは歩き出した。
「安心しろって」
振り返りもせず言う。
「もう伸びてもらった」
一拍おいて、ドレイドは付け加えた。
「……静かに、な」
そして、そのまま何事もなかったように道を下っていく。
――追われてた?
だとしたらそれは、ラファスの兵士か。
「待て……どんな奴らだった?」
「どこの奴かなんてわかんねえ。軽装だったし、身元が分かる装飾もなかったしな」
そして、愉快そうに笑う。
「その慌て方、図星か?」
「……」
「心配すんなって。もう追ってこれねえさ」
リセルはドレイドを見た。
黒い瞳に透ける赤が炎のように揺らめいた。
国境を越えてまで、追われていたら――。
その思考を遮るように突風が駆け抜けた。
やがて、一行は街道にでた。
通りを抜ける風が、乾いた草の匂いを運んでくる。
人の声と、馬車の軋む音。
三人は、石畳を一定の歩調で進んでいた。
「なぁ、黙って歩いててもつまんねぇし、なんか話そうぜ」
肩越しに振り返るドレイド。
陽光を受けた金具がちらりと光った。
「別に。歩きながら話すのは慣れてない」
リセルは帽子のつばを少し下げる。
「つまんねぇな。嬢ちゃん、こいついつもこんな感じ?」
「え?」
エリシアは困ったように笑う。
「そう、ですね」
「だろ? もうちょい面白い話できねぇのか」
軽く笑う声。
睨んだリセルに、ドレイドは肩だけで笑い返した。
風が吹き抜け、三人の足音だけがしばらく続いた。
「ふーん。まぁ、いいや。お前たち、どこの出身だ」
ドレイドが、歩く速度を落とさずに言う。
投げるような軽さ。それでも、耳に残る。
すぐにエリシアが答えた。
「私はラファスの西の田舎です。もともと地理的に、国は曖昧だったけど、ラファスに併合されたみたいです」
「そうか、遠くからよくここまで来たな。坊主は?」
「ヴェルナの麓の村だ。でも今はどこにも住んでない」
「ふーん、似たようなもんだな。俺も中央高原の村だった」
短い間。
足元の石畳が、陽に熱を帯びていた。
「お前、家族は?」
リセルは答えず、視線だけ前へ送った。
その沈黙を、ドレイドは気にする様子もなく続ける。
「俺の方は、もういねぇよ。村が襲われたときに、全部なくした」
ただ事実だけ。
余計な言葉は落とさない。
その乾いた声に、三人の歩幅がわずかに揃う。
「だからこうして流れ歩いてる。……おまえも、そうなんじゃねぇの? な、リセル」
「気安く呼ぶなよ。まだお前を信用してない」
「信用してない割に、素直についてくるじゃん」
言葉を受け流し、リセルは歩幅を一つ速めた。
陽が落ちかけた屋根の影が、三人の肩を交互にかすめていく。
「ユーファの特徴があるやつは、どこにいても目立つ。ヴェルナで定住しねぇほうがいいってのは……まぁ常識だ」
エリシアの眉がわずかに揺れた。
リセルは帽子を深くかぶり直す。
少し先の石畳が段差になっているのに気づかず、エリシアが足を踏み出す。
ドレイドの手が自然に伸び、彼女の腕を軽く引いた。
「足元」
短くそう言い、袖についた埃を指で払ってやる。
「ありがとう」
「気にすんな」
その軽さが、焚き火のそばで聞いた声と同じで――リセルは無言で歩調を速めた。
三人の歩調は、いつの間にか自然に揃っていた。
「ドレイドさんは、このあとどこへ?」
エリシアの問いに、彼は前を見たまま答える。
「港で掃除の仕事がある。頼まれてる場所まで行くだけだ」
「仕事、ですか?」
「ああ。まあ、そうだな」
嘘の色はなく、ただ当たり前のことを言っているように聞こえた。
「ドレイドさんも、ヴェルナから出たいとは思わないんですか?」
「いや、ヴェルナには俺の家族が眠ってる。この土地を離れる気はねえよ」
「でも……危険、じゃないですか?」
「危険、か。確かにそうだ。みんな連盟に怯えてる。ヴェルナの連中は気がいいし、カイラにも寛容だから昔から交流もある。それを他人の土地で好き勝手やってるイースガルド連盟さえいなくなりゃあ、みんな安心して暮らせるようになる」
潮の匂いが、風に乗って濃くなっていく。
潮風に混じって、鎧の金具が擦れる音がした。
港の門前では、連盟兵が荷を検め、帳簿に何かを書きつけている。
船員たちは手慣れた様子で銅貨を渡し、荷を通す。
ここでは、あの紋章の男たちを見慣れた顔でやり過ごすのが日常らしい。
リセルは大きく息をすって、かぶっている帽子に手をかけた。
通りの向こうに、船の帆柱と人混みが見えてくる。
甲板から怒鳴り声、軋む縄の音、海鳥の鳴き声。魚の匂いと鉄の匂いが混ざり、港のざわめきが全身に迫ってくるのを感じた。
石と木の建物は潮風に焼かれ、壁の色はくすんでいた。桟橋の板は濡れ、干した魚と油の匂いが漂う。
東の大陸――貿易大国ルシトの港は白い壁に紺碧の海が輝くきれいな場所だと、噂には聞いている。だが自分が実際に知っている港は――目の前のような、潮と魚と油の匂いが混ざる場所だった。山越えの仕事で訪れた小さな港町も、同じ匂いをしていた。
町に足を踏み入れると、港町の喧騒が、潮風に混じって押し寄せた。
その下で、荷を積む男たちのやり取りが耳に入った。波が石造りの桟橋を打ち、甲板では船員たちが荒い声を飛ばし合っている。
「今のうちに運べ! 夏が終わりゃ船なんざ出せねぇぞ!」
「冬になったら港が死ぬからな。山越えできる奴らの出番だ」
リセルは足を止め、ほんの一瞬だけ雪に閉ざされた峠を思い出す。背中に食い込む荷の重み、吐く息の白さ――あれは金になるが、命も削られる仕事だった。
干した魚の匂いに、鉄と油の匂いが重なる。
ドレイドは歩きながら短く言った。
「……ようやく着いたな」
「ここが……」
リセルが見上げる。
「港町ファロス。商人と胡散臭い連中が半分ずつの街だ。……連盟の取り立てもな」
エリシアは小声で呟く。
「匂いが混ざってる……潮と魚と、鉄の匂い」
船着き場を一瞥したドレイドが、ふっと笑った。
「俺はここで仕事がある。じゃあな」
「……掃除、って言ってたか?」
リセルが訝しげにドレイドに視線を送った。
「ああ、ちゃちゃっと終わらせないとな」
口の端だけを上げるその笑みは、冗談とも本気ともつかない。
「お前ら、港から船に乗るなら今日はチャンスだぜ。……それと、ここいらじゃ大規模な連盟兵団の話は聞いていないが」
ドレイドが足を止め、ちらとリセルの頭を見やった。
「どこに誰がいるかわからねぇ。髪はよく隠すことだな」
言い終えると、ついでのように自分のフードも深くかぶり直す。
布の影から、ほんの一瞬だけ口元が緩んだ。
「じゃあな」
群衆に紛れて姿を消すドレイド。
エリシアは首を傾げた。
「お掃除上手に見えないけど……人は見た目によらないのかな?」
「……今日がチャンスって、どういう意味だったんだ」
リセルの声は低く沈んだ。
「でもほら、やっぱりいい人だったね」
エリシアの明るい声が、小骨みたいに喉にささった。
でも――なんだ、このざわつきは。
ドレイドの腹の底に沈んでいる、冷えた怒りのようなもの。
あの目の奥に、一瞬だけ覗いた深淵。
肌の内側までひやりとする、あの感覚。
……いや、わからない。今は考えている場合じゃない。
「とにかく、俺たちは〈由賊〉の噂を確かめよう」
リセルは港の先へと視線を向けた。
それでも、彼が去ったあとも――
港のざわめきや潮の匂いに紛れて、まだどこかに、彼の気配の残滓が漂っている気がした。
やがて、港の喧騒が二人を飲み込んでいく。




