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灯火の誓い〜炎を宿す少年と、癒しの力をもつ少女。それでも、選んでしまう旅。その炎は、守りか――灯火の竜の記憶か。   作者: 水瀬 理音
第五章 淡雪の鈴

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第四十話 焦げた匂い

 森はまだ湿っていた。夜の雨が葉に残り、滴がゆっくりと落ちる。

 得体の知れない男だった。

 だが、なぜか背を追うことに抗う気にはなれなかった。


 害意があるなら、昨晩のうちに襲われている。

 それでも、リセルは警戒を解かなかった。


 軽装だが、身につけているものはしっかりしている。傭兵か、どこかの兵士の装備に近い。ドレイドは、何をして生きている男なのか。


 三人は細い山道を下っていた。

 その途中で、急にドレイドが足を止めた。そのまま、遠くの林に目をやった。

 ドレイドを纏う空気が変わる。一段冷える。

 思わず身構えるリセルに一瞥もくれず、ドレイドは二人の間を通り抜けた。


「――ちょっと先行ってろ」

「え?」

 エリシアが振り返る。

「すぐ戻る」


 そう言うと、男は道を外れ、林の奥へ消えた。

 枝を踏む音が、すぐに遠ざかる。


 リセルは眉を寄せた。


「……なんだ、あいつ」

「何か忘れ物かな」

「そんな顔じゃなかっただろ」

「じゃあ、あの、ほら……お花摘みとか……」


 エリシアはリセルの耳元に口を寄せ、ごにょごにょと何かを言った。

 頬がほんのり赤い。

 リセルは一瞬黙り、否定する気も起きず溜息をついた。


 雨の雫が葉から落ち、土に染み込む。森は静かだった。

 しばらくして、枝が鳴る音が戻ってくる。

 ドレイドだった。


「待たせたな」

 何事もなかったように言う。

 リセルは一歩近づいた。

 かすかに、焦げた匂いがした。ドレイドの指先が、わずかに黒ずんでいる。


「……何してた」

 ドレイドは肩をすくめた。

「俺かと思ったんだがな」

「は?」


「気づかなかったのか?」

 ドレイドは軽く笑う。

「なんか、こそこそとしている奴らがいた。俺かと思ったが――案外、坊主かもな」

 リセルの背がわずかに冷える。


 ドレイドはそれに気づいたのか、ちらりとリセルに目線を送った。

 黒い瞳の奥で、赤が揺れた。

「……どういう意味だ」

 ドレイドは歩き出した。

「安心しろって」


 振り返りもせず言う。

「もう伸びてもらった」

 一拍おいて、ドレイドは付け加えた。

「……静かに、な」

 そして、そのまま何事もなかったように道を下っていく。


 ――追われてた? 


 だとしたらそれは、ラファスの兵士か。

「待て……どんな奴らだった?」

「どこの奴かなんてわかんねえ。軽装だったし、身元が分かる装飾もなかったしな」

 そして、愉快そうに笑う。

「その慌て方、図星か?」

「……」

「心配すんなって。もう追ってこれねえさ」


 リセルはドレイドを見た。

 黒い瞳に透ける赤が炎のように揺らめいた。

 国境を越えてまで、追われていたら――。

 その思考を遮るように突風が駆け抜けた。


 やがて、一行は街道にでた。

 通りを抜ける風が、乾いた草の匂いを運んでくる。

 人の声と、馬車の軋む音。

 三人は、石畳を一定の歩調で進んでいた。


「なぁ、黙って歩いててもつまんねぇし、なんか話そうぜ」

 肩越しに振り返るドレイド。

 陽光を受けた金具がちらりと光った。


「別に。歩きながら話すのは慣れてない」

 リセルは帽子のつばを少し下げる。

「つまんねぇな。嬢ちゃん、こいついつもこんな感じ?」

「え?」


 エリシアは困ったように笑う。

「そう、ですね」

「だろ? もうちょい面白い話できねぇのか」

 軽く笑う声。


 睨んだリセルに、ドレイドは肩だけで笑い返した。

 風が吹き抜け、三人の足音だけがしばらく続いた。

「ふーん。まぁ、いいや。お前たち、どこの出身だ」

 ドレイドが、歩く速度を落とさずに言う。


 投げるような軽さ。それでも、耳に残る。

 すぐにエリシアが答えた。

「私はラファスの西の田舎です。もともと地理的に、国は曖昧だったけど、ラファスに併合されたみたいです」


「そうか、遠くからよくここまで来たな。坊主は?」

「ヴェルナの麓の村だ。でも今はどこにも住んでない」

「ふーん、似たようなもんだな。俺も中央高原の村だった」

 短い間。


 足元の石畳が、陽に熱を帯びていた。

「お前、家族は?」

 リセルは答えず、視線だけ前へ送った。

 その沈黙を、ドレイドは気にする様子もなく続ける。


「俺の方は、もういねぇよ。村が襲われたときに、全部なくした」

 ただ事実だけ。

 余計な言葉は落とさない。

 その乾いた声に、三人の歩幅がわずかに揃う。


「だからこうして流れ歩いてる。……おまえも、そうなんじゃねぇの? な、リセル」

「気安く呼ぶなよ。まだお前を信用してない」

「信用してない割に、素直についてくるじゃん」


 言葉を受け流し、リセルは歩幅を一つ速めた。

 陽が落ちかけた屋根の影が、三人の肩を交互にかすめていく。

「ユーファの特徴があるやつは、どこにいても目立つ。ヴェルナで定住しねぇほうがいいってのは……まぁ常識だ」


 エリシアの眉がわずかに揺れた。

 リセルは帽子を深くかぶり直す。


 少し先の石畳が段差になっているのに気づかず、エリシアが足を踏み出す。

 ドレイドの手が自然に伸び、彼女の腕を軽く引いた。

「足元」

 短くそう言い、袖についた埃を指で払ってやる。


「ありがとう」

「気にすんな」

 その軽さが、焚き火のそばで聞いた声と同じで――リセルは無言で歩調を速めた。

 三人の歩調は、いつの間にか自然に揃っていた。


「ドレイドさんは、このあとどこへ?」

 エリシアの問いに、彼は前を見たまま答える。

「港で掃除の仕事がある。頼まれてる場所まで行くだけだ」

「仕事、ですか?」


「ああ。まあ、そうだな」

 嘘の色はなく、ただ当たり前のことを言っているように聞こえた。

「ドレイドさんも、ヴェルナから出たいとは思わないんですか?」

「いや、ヴェルナには俺の家族が眠ってる。この土地を離れる気はねえよ」


「でも……危険、じゃないですか?」

「危険、か。確かにそうだ。みんな連盟に怯えてる。ヴェルナの連中は気がいいし、カイラにも寛容だから昔から交流もある。それを他人の土地で好き勝手やってるイースガルド連盟さえいなくなりゃあ、みんな安心して暮らせるようになる」


 潮の匂いが、風に乗って濃くなっていく。

 潮風に混じって、鎧の金具が擦れる音がした。

 港の門前では、連盟兵が荷を検め、帳簿に何かを書きつけている。


 船員たちは手慣れた様子で銅貨を渡し、荷を通す。

 ここでは、あの紋章の男たちを見慣れた顔でやり過ごすのが日常らしい。

 リセルは大きく息をすって、かぶっている帽子に手をかけた。


 通りの向こうに、船の帆柱と人混みが見えてくる。

 甲板から怒鳴り声、軋む縄の音、海鳥の鳴き声。魚の匂いと鉄の匂いが混ざり、港のざわめきが全身に迫ってくるのを感じた。

 石と木の建物は潮風に焼かれ、壁の色はくすんでいた。桟橋の板は濡れ、干した魚と油の匂いが漂う。


 東の大陸――貿易大国ルシトの港は白い壁に紺碧の海が輝くきれいな場所だと、噂には聞いている。だが自分が実際に知っている港は――目の前のような、潮と魚と油の匂いが混ざる場所だった。山越えの仕事で訪れた小さな港町も、同じ匂いをしていた。


 町に足を踏み入れると、港町の喧騒が、潮風に混じって押し寄せた。

 その下で、荷を積む男たちのやり取りが耳に入った。波が石造りの桟橋を打ち、甲板では船員たちが荒い声を飛ばし合っている。


「今のうちに運べ! 夏が終わりゃ船なんざ出せねぇぞ!」

「冬になったら港が死ぬからな。山越えできる奴らの出番だ」


 リセルは足を止め、ほんの一瞬だけ雪に閉ざされた峠を思い出す。背中に食い込む荷の重み、吐く息の白さ――あれは金になるが、命も削られる仕事だった。

 干した魚の匂いに、鉄と油の匂いが重なる。

 ドレイドは歩きながら短く言った。


「……ようやく着いたな」

「ここが……」

 リセルが見上げる。

「港町ファロス。商人と胡散臭い連中が半分ずつの街だ。……連盟の取り立てもな」


 エリシアは小声で呟く。

「匂いが混ざってる……潮と魚と、鉄の匂い」

 船着き場を一瞥したドレイドが、ふっと笑った。


「俺はここで仕事がある。じゃあな」

「……掃除、って言ってたか?」

 リセルが訝しげにドレイドに視線を送った。

「ああ、ちゃちゃっと終わらせないとな」


 口の端だけを上げるその笑みは、冗談とも本気ともつかない。

「お前ら、港から船に乗るなら今日はチャンスだぜ。……それと、ここいらじゃ大規模な連盟兵団の話は聞いていないが」


 ドレイドが足を止め、ちらとリセルの頭を見やった。

「どこに誰がいるかわからねぇ。髪はよく隠すことだな」

 言い終えると、ついでのように自分のフードも深くかぶり直す。

 布の影から、ほんの一瞬だけ口元が緩んだ。


「じゃあな」


 群衆に紛れて姿を消すドレイド。

 エリシアは首を傾げた。


「お掃除上手に見えないけど……人は見た目によらないのかな?」

「……今日がチャンスって、どういう意味だったんだ」

 リセルの声は低く沈んだ。

「でもほら、やっぱりいい人だったね」


 エリシアの明るい声が、小骨みたいに喉にささった。

 でも――なんだ、このざわつきは。

 ドレイドの腹の底に沈んでいる、冷えた怒りのようなもの。


 あの目の奥に、一瞬だけ覗いた深淵。

 肌の内側までひやりとする、あの感覚。

 ……いや、わからない。今は考えている場合じゃない。


「とにかく、俺たちは〈由賊ゆうぞく〉の噂を確かめよう」

 リセルは港の先へと視線を向けた。

 それでも、彼が去ったあとも――

 港のざわめきや潮の匂いに紛れて、まだどこかに、彼の気配の残滓が漂っている気がした。


 やがて、港の喧騒が二人を飲み込んでいく。


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― 新着の感想 ―
不器用そうに見えてエリシアの足元を気にするドレイドは、意外といい人なのかも? 港町に着いた瞬間の、潮と油の匂いがこっちまで漂ってきそうなリアルな描写が最高でした。
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