第三十九話 雨の焔
春祭りから一日。その余韻がまだ心にじんわりと広がっていた。
リセルとエリシアは港町へと歩みを進める。
道は山裾を抜け、やがて森へと入り込んだ。朝から低く垂れ込めた雲が、山道の色を重く沈めていく。
降り出した雨は止む気配を見せなかった。
崖下の窪地に急遽しつらえた焚き火場は、上から張り出した岩陰に守られていた。
それでも、風に乗った雨粒が時折吹き込む。
リセルは手をかざす。静かに集中し、手のひらに炎を灯した。
濡れた枝に火をつけるのは難しいが、手から直接落とした小さな火は、乾いた芯に沿ってじわりと燃え広がっていく。
彼は手早く細い枝をくべ、火の輪を育てていった。
鍋の中では、昼前に仕留めた野兎の骨とわずかな肉、それに乾燥させていた山菜が煮えていた。
白い湯気が立ちのぼり、肉の香ばしい匂いが雨の匂いに混ざる。
焚き火の傍に座るエリシアは、膝を抱えて体を丸め、吐いた息が白く溶けた。
「……あったかいね」
その笑みが、しとしとと降る雨音に紛れた――その時。
草を踏む、重い足音。
リセルは顔を上げ、腰を浮かした。エリシアを庇うように前に身をかがめた。
音の主は、崖の傾斜をゆっくりと下りながら、窪地に近づいてくる。
「――お、いいとこ見つけたな」
姿を現したのは、ずぶ濡れの男だった。
雨水が外套を伝い、岩肌に滴り落ちる。
深くフードをかぶった外套の裾から、腰に差した黒い鞘の柄がのぞいている。
それが見えた瞬間、リセルは無意識に、腰の短剣の柄を強く握った。
肩が、わずかに強張る。
男の外套の袖口から、火傷の痕が浮かぶ手首がのぞく。
男はためらいもなく火の輪に踏み込み、外套を岩肌に引っかけた。
その動きは自然すぎて、逆に違和感があった。まるで、最初からそこにいるのが当然かのように。
外套を脱ぐと、男の髪の色に、わずかに目を見張った。
――赤い髪。
髪はリセルと同じ赤だが、いくぶん黒みが強く、後ろで無造作に束ねられていた。
「……誰だ」
リセルの声は低く、張りつめていた。
男は肩をすくめると、口の端だけで笑った。
「誰でもいいだろ。同じ雨に打たれた仲だ。火を少し、分けてくれ。それと、飯もな」
「あ、どうぞ!」
弾んだ声に、リセルが思わず振り返る。
エリシアはいそいそと、鍋のそばにあった木の椀を手に取っていた。
「おい、エリシア――」
「だって、困ってるんでしょ?」
彼女は微笑みながら、鍋からスープをすくい、男の前に差し出した。
「……へぇ、あんた、優しいな」
男は受け取ると、軽く顎を引いた。
その拍子に、彼の頬にも薄い火傷の痕が幾筋か見えた。
そして、目――
黒曜石のような瞳の奥に、細い紅が走っていた。
雨で濡れた石に、炎の色が射したみたいに。
硬質な光を宿したその瞳に、リセルの呼吸が、わずかに止まった。
「……ガキの頃、よく弟や妹に食わせてやったのを思い出すよ」
「……?」
「昔話だ。忘れろ」
男はスープを啜りながら、焚き火をじっと見つめた。
その目は、まるで炎の奥に何かを探しているようだった。
しばらくの沈黙。
男の視線が、遠くに外れた。
焚き火の中で、枝がぱきんと折れた。
「――お前、弟に似てんな」
リセルがわずかに眉をひそめた。
「……は?」
「気にすんな。ただの感傷だよ」
男の口元はゆるんでいたが、目はどこまでも冷めていた。
笑っているはずなのに、目が離せない。
声は柔らかい。敵意もない。けれど――
腹の底に、何か得体の知れないものを飼っている気配がした。
それは眠っているようで、ずっと目を開けてこちらを見ている。
名前も姿もないそれが、男の奥で息をしているのを、確かに感じた。
炎が、ぱちりとはぜる。
「……いい火だな」
その声に、少しだけ湿った熱が混じった。
リセルの背が、かすかにこわばる。
「まあ、そんな警戒するな。何もしねぇよ。降り出して困ってたら、たまたま面白いもんを見たもんだから寄ったんだ」
リセルは火から目を離さず、静かに身構えた。
「……見たって、何を?」
「お前……さっき、この火。道具もなしに起こしてただろ?」
黒曜石のような目が、ふたたびリセルをまっすぐに射抜く。
リセルは息を呑んだ。
隣のエリシアが肩を揺らす気配がした。
「別に、だからどうってことねぇよ。見ての通り、俺もユーファの末裔だからな」
「お前も?」
男は椀を飲み干すと、満足そうに息を吐いた。
「ああ。同胞に会うのは初めてか? そんな顔してる。安心しろよ。俺は同胞には親切にするって決めてんだ。
……ついでに教えとく。そのうち、この国からイースガルド連盟はいなくなる」
「……いなくなるって、体制でも変わるのか?」
リセルはわずかに眉をひそめた。
同時に、フィンの言葉が脳裏をかすめる。
確かに、体制を変えようとした王がいた。
だが、その王は病で死んだ。
それから、そんな話は聞いていない。
自分の集落が襲われたのも、そのあとだ。
男は、口元に皮肉の色を浮かべた。
「変わるんじゃない。変えるんだ。お前、興味ないか?」
「……話が見えないな」
「だろうな。やっぱ、いいや。忘れろ」
男は首を横に振り、少し笑うと――急に話題を変えた。
「それにしても、お前、そんなふうにしか火を使えないのか? そんな弱い火を出す奴がいるとはな」
胸の奥に、鋭いものが刺さる。
(……弱い火って)
あの日の記憶が、雨音と共によみがえる。
怒りに任せて放った炎。焼け焦げた匂い。炎に飲み込まれる感覚。
けれど、あのときの焚き火。エリシアの笑顔。
それは確かに、この火があったから生まれたものだった。
――俺は、これで十分だ。
暴走させたくないから、黎火の郷を目指している。
リセルは拳を握り、火を見つめ続けた。
「俺は、炎なんて出したくない。制御したいんだ」
男は目を細めた。
「……制御? 違うね。俺たちの力ってのは、飼い慣らしてでも、武器にするべきだ」
リセルは、言い返せなかった。
しばらく、ふたりのあいだに火の音だけが続いた。
やがて、男が問う。
「ところで、港に向かってるのか?」
「なんでわかった」
「俺もたまたま向かっててな。お前らの踏み跡が見えた。……こっちの谷筋は、港へ行く旅人がよく通る」
「そうだ。港に出るつもりだ」
リセルが淡々と答えると、男は小さくうなずいた。
「悪くねぇ選択だ。ヴェルナにいたって安心はできない。今、ちょうど面白い噂もあるしな」
「由賊の船のことか?」
「お、やっぱり聞いたか? あれはあれで、なかなか信憑性はある噂みたいだぜ。お前らみたいな奴は、行ってみてもいいかもな」
「お前は、違うのか?」
「俺か?」
男は視線を火に落とす。
「……用がある。昔の知り合いに、ちょっとな。多分、向かってる方向は同じだ」
そして、ふと立ち上がる。
「どうだ、暖を取らせてもらった礼がてら、港町まで連れてってやろうか?」
「……何が目的だ」
リセルはずっと柄に手を添えていた。男の目が細められた。
「炎は弱いくせに、警戒心だけは人一倍だな。じゃあ、これでどうだ?」
腰の剣を脇に下ろして両手を上げるしぐさをした。
剣は、焚き火のそばに転がったままだった。
「護身用だ。お前だって持ってるだろ?」
リセルが睨み返すと、男はやや口調をゆるめた。
「俺の炎は、もう冷えちまったからさ。……たまには、誰かと歩きたくなることもある。それに、その嬢ちゃん――」
エリシアが、小さく身をすくめた。
「連れがお前一人ってのも、心許ないしな」
「……余計なお世話だ」
「そんなことないです、リセルはすっごく頼りになるんですよ!」
エリシアが顔を真っ赤にして抗議する。
男は、ほんの一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして笑みを残した。
「……そっか」
その声に、少しだけ遠い響きが混じった。
男は火の向こうに歩き出した。
剣は、焚き火のそばに残されたままだった。
「方向は一緒だ。明日は港町まで送ってやるよ。俺はあっちの方で寝る」
思い出したように振り返る。
「あ、そうだ。俺は、ドレイドだ。よろしくな」
そう言って、横になった男は、ほどなくして静かな寝息を立てはじめた。
リセルとエリシアは顔を見合わせる。
「……悪い人ではないみたいだし、一緒に行ってもらう?」
「どう見ても、あやしいだろ」
「でも、道知ってるみたいだし」
リセルはため息をついた。
確かに、殺意や悪意は感じない。けれど、ドレイドと名乗ったその男の目の奥にある、押し殺した怒りのような、獣じみた気配に――リセルは、なかなか寝付けなかった。
翌朝、支度が終わると、ドレイドは短く「港まで案内する」とだけ言い、先に歩き出した。
リセルとエリシアは視線を交わし、その背中を追った。




