百四節 桜色の袖
Side 朝比奈 昌澄
私は、どこか逃げるような気持ちで部屋を出ました。
冬の国から届いた親書。
国交再開。
同盟。
婚姻。
そして、兄上と光さんの未来。
喜ばしい話ばかりのはずなのに、情報量が多すぎて、少しだけ頭を冷やしたかったのです。
部屋の熱気を背に廊下へ出た、その瞬間でした。
ぱしっ、と。
袖を掴まれます。
振り返ると、千歳さんが立っておりました。
栗毛色の髪。
深草色の瞳。
今日はいつもより少しだけ落ち着きがないように見えます。
「ねえ、昌澄くん」
「は、はい?」
思わず背筋が伸びました。
千歳さんは、ほんの一瞬だけ視線を彷徨わせます。
それから、意を決したように口を開きました。
「その……前に言ったこと、ちゃんと続きにしたくて」
「前に、言ったこと?」
聞き返した瞬間、千歳さんの頬がふわっと赤くなります。
「……喜哉の城壁の上で、昌澄くんに言われたこと」
ああ、と胸の奥で何かが跳ねました。
一年前。
あの時私は、勢いのまま、とうとう千歳さんへ気持ちをぶつけました。
士官学校二年の頃から好きだったこと。
ずっと見ていたこと。
婿入りだって本気で考えていること。
全部、一気に言って、最後は笠谷先輩と綾人さんと弟たちに面白がられながら、千歳さんからは「お友達からで」と返していただいたのです。
あれの、続き。
そう理解した瞬間、心臓がうるさいほど鳴りました。
千歳さんは赤くなったまま、けれど逃げずに続けます。
「清澄団長の婚姻も、国のごたごたも、いろいろ落ち着いてきたでしょう?」
「ええ」
「だから、その……」
ここで一度、ぎゅっと私の袖を握り直しました。
「私に、ちゃんと時間を下さい」
真っ赤でした。
顔も。
耳も。
首筋まで。
ここまで見事に赤くなれるものなのですね、と妙な感心をしてしまうほどに。
「え?」
間の抜けた声が出たのは、どうか許していただきたいところです。
千歳さんは、その一声でさらに赤くなりました。
けれど、意地でも言い切るつもりなのでしょう。
「その、今さらだけど……お友達の続き、ちゃんと考えたいの」
そこまで聞いた瞬間、私は慌てて手を振りました。
「ま、待ってください!?」
千歳さんが、びくりと肩を揺らします。
ですが、ここで受け身に回るなど無理でした。
だって、これは。
ずっと待っていた“続きを話してもいい合図”ではありませんか。
「それは私に言わせてください!」
気づいた時には、もう千歳さんを抱き締めておりました。
……ええ。
順番がどうとか、距離感がどうとか、そういう理性的な判断は、一瞬で吹き飛びました。
千歳さんの身体は、相変わらず小さくて、温かくて、抱き締めた瞬間に胸の奥がどうしようもなく苦しくなります。
私は、そのままはっきりと言いました。
「前にも申し上げましたが、私は千歳さんが好きです」
自分でも驚くほど、声はよく通りました。
「士官学校二年の時から、今までずっと、気持ちは変わっておりません!」
はっきり言えば、十二歳から二十三歳の今まで、ずっと彼女一筋です。
「えっ、ちょ――」
「お友達からで充分幸せでした。ですが、欲を言うなら、その先に行きたいです」
「ま、待って、昌澄くん――」
「待てません」
きっぱり言い切りました。
「私は千歳さんが好きです。ずっと好きでした。今も好きです。これから先も、たぶんずっと好きです」
言い切ったところで、ようやく気づきます。
……妙に、静かでした。
嫌な予感がして振り返ると、案の定、部屋の中の面々が揃ってこちらを見ておりました。
しかも全員、ものすごく生暖かい目をしているのです。
綾人さんは、見るからに面白がっておりますし、
昆明殿下に至っては、隠す気すらありません。
王太子殿下も第二王子殿下も、笑いを堪えるのに失敗しかけております。
そして兄上?
どうしてそんな、
「ほう」
みたいな顔をしておられるのですか。
やめてください。
その顔は大変によろしくありません。
さらに第一騎士団の皆さままで、妙に頷いておられるのですが、いつからそんな見守る気満々の空気になっていたのでしょう。
「……っ」
千歳さんが、私の腕の中で小さく呻きました。
見れば、もう耳まで真っ赤です。
さっきまでの桜色が、今は燃えるみたいな濃い色になっておりました。
「……そんな大きな声で言わなくても、聞こえるのに」
掠れたその声が、ひどく可愛らしくて、胸の奥がまた妙に熱くなります。
「すみません」
「謝るところなの?」
「いえ、むしろ誇るべきかもしれませんが……今のは少しだけ勢いが勝ちました」
そう返すと、千歳さんは私の胸元へ額をこつんと当て、小さく笑いました。
「うん……それは分かった」
その笑い方が、嬉しさを堪えきれていないものでしたから、こちらまでどうしようもなく頬が熱くなります。
「……あの」
千歳さんが、少しだけ顔を上げました。
深草色の瞳が、まっすぐこちらを見ます。
そこに浮かんでいたのは、柔らかな桜色でした。
「じゃあ、今度は私から、ちゃんと言うね」
一度、小さく息を吸って。
「昌澄くん」
「はい」
「お友達から、卒業したいです」
胸が、大きく跳ねました。
千歳さんは、そのまま真っ赤なまま続けます。
「私も、ちゃんと昌澄くんの隣に行きたい」
その瞬間、もう何をどう返したのか、正直よく覚えておりません。
ただ、頷いた気がします。
ええ、ものすごい勢いで。
そして、おそらく。
大変みっともない顔で、嬉しそうにしていたと思います。
その証拠に、背後から綾人さんの吹き出した声が聞こえました。
「うわ、すげぇ顔してる」
「綾人さん!?」
「いやだって、さっきまで一応副団長らしい顔してたのに、今すげぇ年相応」
やめてください。
そういう観察は本当に要りません。
王太子殿下まで、愉快そうに口元を押さえておられました。
「今日は祝い事が多いねえ」
「冬の国との同盟に続いて、こっちもまとまりそうだしね」
第二王子殿下まで追撃をなさらないでください。
昆明殿下に至っては、隠しもせず拍手しております。
「めでたい、めでたい!」
「昆明殿下、どうかお静かに……!」
私が呻くように抗議すると、兄上は兄上で、ひどく楽しそうに目を細めておりました。
「よかったですね、昌澄」
「兄上、その言い方はやめてください」
「なぜです? 事実でしょう?」
大変に腹立たしいですが、否定はできません。
そんなやり取りをしているうちに、千歳さんは私の腕の中で、とうとう堪え切れなくなったのでしょう。
小さく笑って、それから困ったように言いました。
「……もう少し、静かなところで返事したかったんだけどな」
「申し訳ありません」
「でも」
そう言って、ほんの少しだけ私の袖を引きます。
「昌澄くんらしいから、いいか」
その一言に、胸の奥がまた熱くなりました。
戦が終わり、
国交が戻り、
恋人たちがようやく結ばれて。
その先に、こういう未来があるのなら。
悪くない、と思ってしまったのも、きっと本音でした。




