百一節 届いた手
Side 朝比奈 清澄
言われるがまま転移してきて、真っ先に目へ飛び込んできたのは、黒い異形の槍に貫かれながら、それでもなお息をしている想い人の姿だった。
胸の真ん中に、かろうじて青く光るのは、私が贈った薔薇型の人造魔石。
その表面には、今にも砕けそうなほど、黒い魔力の亀裂が走っている。
喉の奥が、ひどく冷えた。
けれど、それを表へ出している暇はない。
「詳しい説明は省きます。兄上、この簪で、光さんを刺してください」
昌澄の声は真剣そのものだった。
浮かんでいる色は、青と金。
真実と、絶対的な信頼。
その言葉に、私は手渡された簪へ視線を落とす。
大きな黒い魔石。
それを取り囲むように連なる、八つの小さな黒い魔石。
美しいはずの造形なのに、今は飾りではなく、何かを封じるための呪具のようにも見えた。
「……身体を刺せばいい、ということではないのだろうね?」
問い返すと、昌澄はほんの一瞬だけ目を伏せ、それから静かに言った。
「……心臓です」
心臓。
その言葉だけが、ひどく静かに耳へ残った。
あまりにもあっさりと、恐ろしいことを告げられた気がした。
私は思わず、もう一度、光へ視線を戻す。
地へ倒れているわけではない。
かといって、自分の足で立っているわけでもなかった。
背から生えた黒い槍が、まるで檻の骨組みのように彼女の身体を支え、半ば無理やり起こしているのだ。
肩の後ろから伸びた杭が背を吊り、
脇腹を貫く槍が傾いた身体を止め、
胸元から覗く黒が、なおもじわじわとその肉を押し裂いている。
まるで、壊れた人形を、呪いそのものが立たせているみたいだった。
それでも滴る赤が、まだ彼女が生きていることだけを伝えていた。
「助かるのですね?」
確認せずにはいられなかった。
「ええ。冬の国で、同じ術式で一人助かっています」
前例がある。
ならば、迷う理由はない。
……いや。
ない、わけではない。
心臓だ。
愛しい人の心臓へ、自分の手で簪を突き立てる。
そんなことに、痛みがないはずがない。
それでも私は、ひとつだけ静かに息を吸った。
助けるためだ。
それ以外の意味など、要らない。
「時間がないね。分かった」
そう答えて、一歩、踏み出す。
その瞬間だった。
ヒュン、と頬を掠めるように黒い槍が飛んできた。
反射的に身をずらす。
続けざまに、二本、三本。
肩、喉、腹、脚――狙ってくる場所はすべて急所だった。
その太刀筋に、覚えがある。
無駄がない。
鋭い。
迷いがない。
けれど、致命の一点だけは、どれもわずかに外れていた。
まるで、近づかないでくださいと。
そう言っているようにしか見えなかった。
「……光さん」
思わず、その名が漏れる。
拒まれているのではない。
これ以上近づけば、自分ごと壊してしまうと、彼女自身が必死に止めているのだ。
ならば、なおさら行くしかない。
槍の合間へ身を滑らせる。
心臓すれすれ。
首の頸動脈。
槍の狙いを上手くかわしながら、呼吸を合わせるように間合いを詰める。
その顔が、ようやく手の届く距離に来る。
青白い頬。
苦しげに浅い呼吸。
黒い槍に貫かれ、なおも壊れまいとしている身体。
こんな姿にしたくなどなかった。
こんなところまで追い詰めたくなどなかった。
けれど、今ここで躊躇えば、この人は本当に自分を終わらせてしまう。
だから私は、迷うことなく、その胸へ簪を突き立てた。
肉を裂く感触は、あまりにも小さかった。
次の瞬間、簪の中心にある大きな魔石が、内側から光を放つ。
続いて、八つの小さな魔石も一斉に応じるように輝いた。
同時に、眠っていたはずの光の瞼が、微かに震える。
「……っ」
黄金の瞳が、ゆっくりと開いた。
焦点の合わぬその目が、揺れる。
痛みではない。
驚きでもない。
もっと深いところで、信じられないものを見る目だった。
死ぬつもりだったのだ、と分かった。
このまま自分が壊れて、
全部を終わらせて、
誰にももう触れさせず、
それでいいと、どこかで諦めていた目だった。
助かることなど。
もう一度会えることなど。
奇跡が起こることなど。
最初から、想像していなかったのだ。
その目が、私を映す。
その顔を見て、笑ってしまった。
「奪いに行く前に、来てくださいましたね」
私の言葉が落ちた瞬間、彼女の目から涙があふれた。
それは、今ここで思いついた言葉ではない。
私が手紙に書いた一文だ。
あの時は、少しでも彼女を安心させたくて書いた。
貴女がやるべきことが終わるまで待ちます、と。
その後でいいから私の所に来てください、と。
でも待たせすぎるなら、貴女を奪いに行きます、と。
彼女は泣きながら微笑んだ。
「遅くて、ごめんなさい」
その一言に、胸の奥がひどく痛んだ。
この人は、覚えていてくれたのだ。
忘れずに、胸のどこかへ抱えていてくれたのだ。
しかも、それを口にしたのは、もうすべてを諦めかけた、最期の寸前だった。
「ええ」
そう返した自分の声が、少し掠れていた。
「少しばかり、待ちきれませんでした」
その瞬間、簪から伸びる鎖が形を変えた。
細く繊細だった魔力の鎖は、一気に太く、重く、拘束具のような姿へ変貌する。
それが生き物みたいにうねりながら、光の胴を、腕を、脚を、そして私ごと巻き込むように絡みついていく。
さらに、小さな魔石が鎖につながれたまま杭へ変わり、地へ、深く深く食い込んだ。
封印。
その意味を、息を呑みながら理解する。
同時に、光の胸に突き立てた大きな魔石へ向かって、黒い呪術が逆流するように吸い込まれていくのが見えた。
成功している。
そう確信した、その瞬間だった。
光の頬を、涙が伝った。
私は思わず、その頬へ手を当てる。
冷たい。
けれど、ちゃんと生きている温度だった。
「大丈夫です」
そう囁くと、光は泣きそうに笑った。
その顔があまりにも痛々しく、あまりにも愛おしくて――
治療のためでも、封印のためでもなく、
今ここで、この人がまだ生きているのだと、どうしても確かめたくなった。
私はそのまま、震える唇へ自分の唇を重ねた。
その一瞬、さらに強く、鎖が私たちを締めつける。
まるで封じ込めるように。
あるいは、二人をひとつの内側へ閉じ込めるように。
けれど、不思議と苦しくはなかった。
抱き締めた腕の中で、光の身体から少しずつ力が抜けていく。
張りつめていたものが、ようやく途切れたのだと分かった。
今まで、この人は死ぬことで全部を終わらせようとしていた。
けれど今、その諦めの先へ、ほんのわずかでも生きる理由が差し込んだのなら。
それだけで、ここへ来た意味はあった。




