百節 届かぬはずの距離
Side 朝比奈 昌澄
『伝令なんて、どうしたのです、綾人』
聞き慣れた声が、細い魔力の回線を通して耳へ届いた瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩みました。
兄上だ。
間違いなく、兄上の声でした。
「兄上! すぐにこちらへ! 光さんを助けるには兄上が必要なんです!」
自分でも驚くほど鋭い声が出ました。
けれど、もう取り繕っている余裕などありません。
目の前では、千歳さんが灰色の魔力の残滓を纏ったまま、私の腕の中で気を失っております。
澪さんと陸さんは、なおも光さんの周囲へ封じの魔法を重ね続けている。
その内側では、巻き戻されたはずの『呪術』が、また黒い火みたいに燻っておりました。
もう、時間などありません。
『切羽詰まっているのは分かるけれども』
回線の向こうで、兄上の声音はいつも通り穏やかでした。
『今、私がいるのは喜哉だ』
その一言で、頭が急速に冷えました。
喜哉。
春の国の西。
ここ、魔の森の春の国側入口から見ても、直線距離で五百キロはあるでしょう。
無理です。
普通なら。
転移魔法で繋げられる距離ではありません。
しかもこちらは、魔力の狂う魔の森の近く。
ただでさえ座標がぶれやすい。
無理に繋げれば、兄上ごと森へ、最悪、魔獣の巣へ叩き落とす危険すらあります。
喉の奥が、ひどく冷たくなりました。
せっかく、声が届いたのに。
せっかく、ここまで来たのに。
せっかく、希望が見えたのに。
――間に合わない。
そう思いかけた、その時です。
胸元へ押し込んでいたものが、服越しに指へ触れました。
黒い簪。
そして、そのすぐ奥。
紫苑さんから渡された、小さなペンダント。
私は、はっと息を呑みます。
母が、紫苑さんへ投げて渡した護り。
父の魔力の癖を色濃く残す、不埒な位置確認付き魔道具。
「……位置情報」
気づいた瞬間、思考が一気に繋がりました。
父の残した位置確認魔法。
母の魔力がないと追えぬよう、歪に組まれていた回路。
けれど、今の私なら――。
「兄上!」
回線へ向かって、私はほとんど叫ぶように声を重ねました。
「正確な位置情報と、私が半分繋いだ転移魔法を信じてくださいますか!?」
『位置情報?』
「細かい説明は後です! ですが、兄上に、こちらへ来ていただかないと駄目なんです!」
一瞬だけ、回線の向こうが静まりました。
長い沈黙ではありません。
けれど、私にはその一拍がやけに長く感じられます。
そして、次の瞬間。
『……お前が言うならやるよ』
兄上の返答は、驚くほどあっさりとしておりました。
『どうすればいいんだい?』
胸の奥で、何かが熱くなるのを感じます。
信じてくれた。
細かな理屈も聞かず、
危険かどうかの確認すら後回しで、
ただ私が必要だと言ったから、来ると決めてくださった。
やはり、兄上はそういう方です。
「魔力を……私の魔力を検知してください」
私は千歳さんの身体を、近くの騎士へ託しました。
そして胸元から、ペンダントを引き抜きます。
ひやり、と冷たい金属。
その中に、父の古い魔力の痕跡が眠っているのが分かります。
意識を集中する。
必要なのは、全部ではありません。
守りではない。
今欲しいのは、そこへ組み込まれた『位置確認』の術式だけです。
私は指先で回路をなぞるようにして、魔道具の内側から必要な術式だけを引き剥がしました。
防御の層は、捨てる。
追尾だけを残す。
干渉しやすい外縁から順に剥がしていけばいい。
淡い光の線が、空中へ浮かび上がります。
円。
座標。
追尾。
検知。
照準。
父の魔法陣は相変わらず美しく、そして無駄に細かい。
こんなものを咄嗟に人へ投げつける母も大概ですが、渡される前提でここまで作り込む父も父です。
「今です、兄上。私の魔力を探ってください」
そう言いながら、私は位置確認の術式へ自分の魔力を一気に注ぎ込みました。
鮮やかな青が、魔法陣を満たしていく。
父の残した癖を。
母へ向けて作られた古い痕跡を。
圧倒的な私の魔力で、今ここにいる『私』の色へ塗り替える。
きらきらと、青い線が脈を打ちます。
その上へ、さらに転移魔法を重ねました。
一から作るのではない。
開くのでもない。
こちらから半分だけ伸ばすのです。
喜哉の方向へ。
兄上のいる場所へ。
細くてもいい。脆くてもいい。とにかく、繋げ。
伸びろ。
進め。
届いてください。
魔力を絞るたび、指先が焼けるようでした。
術式の縁が、じりじりと焦げつくように軋む。
けれど止めません。
止めたら終わりです。
伸ばし続ける。
押し出す。
無理やりにでも、喜哉の座標へ食い込ませる。
その時でした。
ふっと。
似た質の魔力が、向こう側から触れたのです。
青。
私とよく似ていて、
けれどもっと深く、もっと落ち着いた、兄上の魔力。
細い線だったはずの転移魔法が、その瞬間、一気に輪郭を得ました。
結合した。
「流石です、兄上……!」
思わず、笑いそうになるのを堪えながら呟きます。
そこから先は、一気でした。
繋がった回線を、今度はこちらから強引に引き寄せる。
兄上の魔力を、術式ごとこちらへ引っ張る。
自分の魔力が、じりじりと削れていくのが分かりました。
肺の奥が熱い。
指先は痺れ、視界の端が白く揺れる。
でも、もうすぐです。
あと少し。
あと少しだけ、保ってください。
魔法陣の青が、眩しいほど濃くなった瞬間――
すっと、その上へ影が落ちました。
ひらり、と白が揺れる。
騎士団長にのみ許された、白のマント。
雨上がりの薄暗い森の光の中で、それだけが不思議なほど鮮やかに見えました。
銀に近い白金の髪。
澄んだ青の目。
見慣れた、見間違えようのない姿。
「兄上」
その姿を認識した瞬間、胸の奥から安堵がこぼれました。
本当に、来てくださった。
無理を通して。
距離も理屈も捻じ曲げて。
私の求めに応じて、ここまで来てくださった。
朝比奈 清澄は、転移の残滓を纏ったまま、静かにこちらを見ました。
白の軍服は長距離転移の衝撃で裾が僅かに乱れていたものの、その立ち姿には少しの揺らぎもありません。
ただ、その目だけが、私の後ろ――黒く燻る『呪術』に侵された光さんへ向いて、ひどく鋭く細められました。
ひゅう、と風が通り抜けるのが分かりました。
兄上は、眠ったまま杭に打たれ、黒い火を胸に燻らせる光さんの姿を、黙って見つめます。
その沈黙のあとで。
「どういう状況ですか?」
兄上の色が、そこで初めて、どす黒い赤へと染まり上がりました。
ええ、その色は明確な怒りを示しておりました。




