九十八節 恐怖の先
Side 一条 陸
息を吸うたび、肺の奥が冷たく焼けた。
春の国側へ渡ったはずなのに、魔の森の空気は冬の国よりも質が悪い。
ただ寒いのではない。
濃すぎる魔力が森の空気そのものへ溶け込み、呼吸のたびに内臓の裏側をざらりと撫でていくみたいだった。
その不快な森の中を、僕たちは止まらずに走っていた。
先頭を行くのは、澪様だ。
黒髪を振り乱し、刀を振るうたび、雷が爆ぜる。
バチバチ、と。
耳の奥へ刺さるような音を立てて、青白い雷が木々の間を走る。
枝を焼き、飛びかかってきた魔獣の皮膚を裂き、焼け焦げた臭いを一気に広げる。
しかも、ただ派手なだけじゃない。
澪様の雷は、全部が“前へ進むため”だけに使われていた。
止めるためではなく、押し退けるため。
足を止めぬため。
一秒でも早く、光の助けになれる場所へ辿り着くため。
その戦い方に、鬼神じみたものを感じる。
怖い。
けれどそれ以上に、必死だった。
隣を走る昌澄もまた、余裕があるような顔はしていなかった。
虹色の目は絶えず周囲を見回し、探知魔法を薄く広げ続けているのが分かる。
けれど、魔力の流れは明らかに安定していない。
光お嬢様を治療し続け、今もこうして僕とお嬢へ結界まで重ねたうえで、さらに探知魔法まで並行しているのだ。
無茶にもほどがあった。
それなのに、澪様の頬へ走った浅い傷へ、昌澄の治癒魔法はきっちり追いついている。
「……器用すぎるでしょ」
思わず呟けば、昌澄は前を見たまま苦笑した。
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてるよ。正直、引くくらいには」
「それは褒めていませんね?」
そんなやり取りすら、今は息継ぎみたいなものだった。
僕は走りながら、左耳のイヤリングへ手をやった。
これを外せば、楽ではなくなる。
むしろ逆だ。
地獄の蓋を、自分から開けるみたいなものだ。
けれど、今は必要だった。
「……行くよ」
誰へともなくそう呟いて、イヤリングを外す。
瞬間、世界が変わった。
森のざわめき。
魔獣の唸り。
木々に残る濃い魔力。
全部が一斉に、耳ではなく頭の内側へ流れ込んでくる。
『喰う』
『逃げろ』
『痛い』
『腹が減った』
生きたものの声と、消え残った残滓と、森に沁みついた恐怖が、濁流みたいに押し寄せた。
気を抜けば、そのまま足を取られる。
舌の先へ歯を当てる。
痛みで、意識を繋ぐ。
「澪様、昌澄」
声が少し掠れた。
「魔獣が『恐怖』を感じてる場所がある」
澪様の足が、ほんのわずかに速さを落とした。
「恐怖!?」
「うん。討伐なら、相手を怖がる可能性はあるよね?」
その言葉に、昌澄がすぐさま反応した。
「強い騎士から魔獣が逃げることはあります! もし騎士団の人間に会えれば、連絡無線機を持っているはずです! 兄上を逆に呼び出せます!」
その“兄上”の一言に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
まだ繋がる道がある。
呼べる相手がいる。
それだけで、人は走れるらしい。
澪様が即座に言った。
「なら行くしかない!」
「では、東側三キロ地点」
僕は流れ込む感情の束を絞り込むようにして、方向を定める。
「その辺りに『恐怖』が集中してる!」
返事を聞くまでもなく、三人で向きを変えた。
速度は落とさない。
むしろ上がる。
澪様が前を切る。
僕と昌澄が、その背中を追う。
枝を飛び越え、雪混じりの泥を蹴り、根の張る地面を踏み切る。
濃い魔力が肺へ刺さる。
頭の奥では、共鳴で拾った感情が絶え間なくざわめいていた。
『逃げろ』
『来るな』
『怖い』
『死ぬ』
その中に、人に近いものが混じっている。
魔獣ではない。
討伐される側の感情の質とは、明らかに違う。
「残り、百……五十……」
息を繋ぎながら、距離を詰める。
「残り、五十」
澪様の背に張りついた雷が、木立の影を青白く染めた。
昌澄の結界が、僕とお嬢の周囲を薄く覆い続ける。
光お嬢様の体温が、背中越しにやけに遠い。
嫌だ。
このまま、連れていかせるものか。
そう思った瞬間、不意に、別の感情が頭へ流れ込んできた。
ドクン、と。
嫌な心音みたいに。
――怖い。
それは、今この森にいる誰かの“今”ではなかった。
もっと近い。
もっと深い。
僕が背負っている人の、胸の底に沈んだものだった。
息が詰まる。
視界の端に、黒が走った。
光お嬢様の恐怖だ。
それは叫びではなかった。
むしろ、静かすぎるほど静かな絶望だった。
目の前に、男がいた。
銀髪。
彩眼。
朝比奈の血を引くと分かる顔立ち。
僕はその男を知らない。
知らないのに、直感で分かった。
――昌澄の兄だ。
その男へ向けて、黒い闇が伸びる。
喉を裂くような叫びも、抵抗もない。
ただ、呑み込む未来だけが、やけにはっきり見えていた。
そして、その光景を見ている光お嬢様の感情が、僕の中へ落ちてくる。
『もしも、そうなるなら、先に死にたい』
ギリッ、と奥歯を噛み締めた。
嫌だ。
死なせるものか。
殺してくれ、そう願ったのに、お嬢は生きろと言った。
あの地獄を生きてでも幸せになれと、お嬢自身が言ったんだ。
なら、地獄だろうと何だろうと、僕は貴女を生かす。
泣こうが、喚こうが、恨まれようが、生きてもらう。
舌を強く噛む。
鉄の味が広がる。
痛みで、意識が現実へ戻る。
その瞬間だった。
ドンッ、と。
鈍く、重い音が響いた。
「っ!」
視界の先で、大型の魔獣が横合いから澪様へ体当たりをかましたのだ。
澪様の身体が吹き飛ぶ。
木へ叩きつけられ、ぐらりとよろめく。
「澪様!」
昌澄が咄嗟に防御魔法を展開する。
けれど、間に合わない。
大型の魔獣が、次に見たのは――こちらだった。
僕だ。
いや、正確には、背負われたままの光お嬢様だ。
息が止まる。
脚が、ほんの一瞬だけ凍る。
その時だった。
ゴオオオオッ!!
熱波が、横から森を薙ぎ払った。
枝葉が一瞬で焼ける。
魔獣の毛皮が爆ぜる。
空気そのものが火を孕んで、喉まで焼けつくような熱が走る。
大型の魔獣が、悲鳴を上げる暇もなく業火へ呑まれた。
その向こう。
紅茶色の髪。
業火の瞳。
雨でも雪でも霞まない、真っ直ぐすぎる炎の色。
香様と同じ色をした男が、そこに立っていた。
「ん?」
その男は、焼け残った魔獣を見下ろしてから、こちらへ目を向ける。
「冬の国の軍服……って、昌澄じゃねぇか」
その声は低く、少し掠れていて、それなのにやけに通った。
「綾人さん!」
昌澄の声が、ぱっと跳ねる。
安堵と、驚きと、信頼が一気に混ざった色が彩眼持ちでなくとも分かるくらい、あからさまに浮かんでいた。
「助かりました!」
「お前、何してんだ。つーか、その状況何だよ」
綾人と呼ばれた男の周囲には、まだ炎が揺れていた。
ただ燃やすだけじゃない。
敵だけを焼き切る、ひどく精密な業火。
その後ろには、春の国の騎士らしき人影も見えた。
魔獣たちが感じていた『恐怖』の正体が、ようやく分かる。
強いなんてもんじゃない。
あれは、魔獣の側から見れば災害だ。
周囲にいた魔獣たちは、一瞬で焼け焦げた。
木々の間に残った熱が、じりじりと頬を炙る。
焦げた肉の臭いと、雪の冷気と、濃い魔力が混ざり合って、頭がくらくらした。
余りの状況に、言葉が出ない。
僕が背負うお嬢は重い。
共鳴で頭の中はぐちゃぐちゃだ。
澪様は木へ叩きつけられた直後だし、昌澄は結界と探知と回復を全部同時にやっている。
なのに、この男が一撃入っただけで、さっきまでの死地の空気が一変した。
思わず、絶句した。
本当に。
お嬢の親戚はどうなっているのだろう。
この男が香様の春の国で共に育った兄で、お嬢の従兄弟だとすぐに分かった。
香様と言い、『秋里の業火』ってやつは、火力の概念がおかしい。
燃え残る森の熱の中で、僕はようやく息を吐いた。
……まだ終わってはいない。
でも、道は繋がった。
その事実だけが、痛いほどはっきりしていた。




