九十七節 兄の意地
Side 鷹司 義貞
走る。
ただ、ひたすらに。
行きとは違う。
もう道を切り開くためではない。
今はただ、後ろに食らいついてくる魔獣どもを、少しでもこちらへ引きつけるために走っていた。
雪を蹴る。
泥を跳ねる。
針葉樹の根が張る不安定な地面を、転ばぬように、それでも速度を落とさぬように駆け抜ける。
背後では、絶え間なく咆哮が響いていた。
喉を裂くような声。
枝をへし折り、雪を蹴散らし、血の臭いに興奮した獣たちの、耳障りな唸り。
その気配を感じながら、僕と成継は、行きとは違って、ひたすらに走り、必要な時だけ振り返って剣を振るった。
ある程度背へ引きつけたところで、いったん足を止める。
振り返る。
同時に魔法を叩き込み、また走る。
それを繰り返す。
バチバチッ!!
雷が弾け、風が裂く。
突っ込んできた魔獣の群れへ雷撃が走り、成継の起こした風刃がその肉を切り裂いていく。
だが、それで終わりではない。
倒れたものの後ろから、また別の個体が牙を剥いて飛びかかってくる。
「こういう鬼ごっこは久しぶりだね」
僕が息を整えながら言えば、隣を走る成継が鼻で笑った。
「昔は、お前ん所の親父さんに追いかけられたよな」
「まったく……『澪の相手なら逃げ切ってみろ!』って、巻き込まれた僕はいい迷惑だよ」
そう言いながら、僕らはほとんど同時に足を止めた。
一瞬で振り返る。
僕が雷を放ち、
成継が風を叩き込む。
ドォンッ!!
目の前の木々ごと魔獣が吹き飛び、焦げた肉の匂いが雪の冷気へ混じった。
そのまままた走り出す。
息は苦しい。
肺は焼けるようだ。
けれど、まだ脚は止められない。
背後の気配は減っていなかった。
いや、むしろ増えている。
雷と風の魔力に惹かれて、渓谷の底や森の奥から、次々と別の個体がこちらへ流れてきているのだろう。
「しっかし、無理すんな~『お兄ちゃん』よぉ?」
成継が、わざと軽い声で言った。
「仕方ないだろう?妹たちの前なら、格好つけたくもなるさ」
僕は肩で息をしながら返す。
「それはお前もだろう、『旦那様』?」
成継が、ははっと笑った。
「まあ、澪が泣くのが一番見たくねぇな」
「そのためには、僕ら『も』死ぬわけにはいかないね」
そう言って、もう一度振り返る。
だが、今度は見た瞬間に分かった。
数が増えすぎている。
木々の影。
雪を蹴り上げる四足。
枝の上を飛び移る個体。
地面を這うように迫る低い影。
しかもそのいくつかは、先ほどまで相手にしていた獣型とは明らかに違っていた。
渓谷の底に棲む、より大型の個体まで混じっている。
「ここで――」
僕が言いかけると、成継が低く笑った。
「ああ、迎撃するしかないな」
同時に、刀を抜く。
次の瞬間には、一気に反転して前へ出た。
走って逃げる段階は終わりだ。
ここからは、正面から刈る。
僕の剣が、最初に飛び込んできた個体の首を断ち切る。
すぐ横で、成継の刃が別の魔獣の胴を横薙ぎに裂いた。
血が飛ぶ。
黒い毛皮が裂ける。
雪の上へ赤が散る。
だが、躊躇っている暇はない。
次。
また次。
飛びかかる爪を躱し、剣を返す。
噛みつこうとした口へ雷を流し込み、その隙に喉を断つ。
成継の風刃が、僕の死角から迫った魔獣の足を飛ばす。
足を止めれば終わる。
だから踏み込み続ける。
血に濡れるのも、返り血を浴びるのも構わない。
ただ、切り続ける。
その時だった。
ヒュッ、と。
空気を裂く、細い音がした。
「っ――!」
反射的に身を捻る。
矢だ。
肩口を掠めるように、鋭い痛みが走った。
熱い。
雪の冷たさの中で、その一点だけが妙に熱を持つ。
思わず息が詰まる。
掠っただけ――そう判断した瞬間、じわりと広がる鈍い熱が、逆に嫌な感触を残した。
腕を大きく振るたびに、その傷が引き攣り、遅れて痛みが脈打つ。
浅い。
だが、浅いからこそ鬱陶しい。
集中を削るには充分だった。
――知能を持つ魔物がいたか!?
思考が、瞬時に冷える。
ただ突っ込んでくるだけの獣ではない。
隠れ、狙い、機を見て矢を放つ個体がいる。
最悪だ。
そう理解した、その直後。
目の前の木々を押しのけるようにして、大型の魔獣が現れた。
巨体。
灰色の毛皮。
人の腕ほどもある太さの前肢。
そして、その手に持つのは――こん棒。
魔獣が、武器を持っている。
一瞬、理解が遅れた。
肩の傷がずきりと脈打つ。
ほんのわずか、それに意識を引かれた、その隙だった。
――しまった。
その重い一撃が振り下ろされる。
避けるには遅い。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
ここで終わる。
そういう感覚が、理屈より早く全身を貫く。
澪の顔が過る。
光。友貞。満。
まだ止まれないのに――そう思った瞬間だった。
ザンッ!!
大きな音が響いた。
同時に、バチバチバチッ!!と雷で焼けるような音が重なる。
何が起こったのか分からず、目を見開く。
大型の魔獣は、こん棒ごと真横へ吹き飛ばされていた。
その首から肩口にかけて、深々と裂けた傷。
焦げた匂い。
血飛沫。
その前に立っていた男を見て、僕は一瞬、言葉を失った。
金色の髪。
紫の瞳。
そして、鍛え上げられた筋肉で大剣を振るうその姿。
「はははは!息子ども!生きているか!」
高らかに笑うその声に、頭が真っ白になる。
「父上……?」
思わず、そう呼んでいた。
目の前に立っていたのは、間違いなく父だった。
鷹司家当主。
冬の国の雷を継ぐ、僕の父。
第二師団師団長、鷹司兼貞。
本来なら、冬の国とは反対側の辺境に残り、魔獣のスタンピードを抑えているはずの人間だ。
それが、なぜここにいる。
「さ、逃げるぞ!義貞!成継!」
父はそう叫ぶや否や、何の躊躇もなく僕をひょいと肩へ担ぎ上げた。
「ちょっ、父上!?」
「怪我しとるだろうが!義貞は黙って運ばれろ!」
そう言われた瞬間だった。
パキパキパキッ!!
鋭い音と共に、魔獣と僕らの間へ氷の壁が立ち上がった。
白く、硬く、高い壁。
魔獣の爪も牙も、ひとまずは通さぬ厚み。
「無事か?二人とも」
静かな声が響く。
その氷壁の向こうへ目を向ければ、銀髪にアイスブルーの目を持つ男が立っていた。
「宗輔」
思わず、その名が漏れる。
橘 宗輔。
僕と成継の幼なじみであり、麗華の兄。
本来なら、父と同じく、冬の国とは反対側の辺境で魔獣のスタンピードを抑えていたはずの男だった。
その姿を見た瞬間、肩の力が抜けそうになる。
生きていた、ではない。
間に合った、でもない。
――ああ、来てくれた。
そう思ってしまった自分に、少しだけ驚く。
「なんでここに?」
問いかければ、宗輔は氷壁の向こうを睨んだまま、低く答える。
「麗華が緊急指令を送ってきた」
短い声だった。
けれど、その一言を聞いた瞬間、胸の奥にひどく冷えた安堵が落ちた。
ああ、やはり麗華だ。
あの子は、最後の最後まで盤の外を見落とさない。
流石、光が唯一認めた親友だ。
帝都の只中で立っているだけでなく、こちらへ戻る道筋まで、ちゃんと打っていたのだ。
「だから、帝都へ帰るためのゲートを、魔の森に繋ぎ変えた」
その言葉に、ようやく理解が追いつく。
父も、宗輔も、あの場に残るべきだった。
だが麗華が、それでもこちらへ引き返させたのだ。
父が、肩の上の僕を揺らしながら豪快に笑った。
「ははっ!間に合ってよかった!昔からお前は無茶するからな!死ぬ前でよかった!」
「……父上、それ、かなり恥ずかしいのですが」
「な~に、たまには父にいいところを譲れ!」
父は楽しそうに言った。
「息子も娘婿も、挙句に澪も、光も、友貞も、満も軒並み優秀だからな!」
その言い方に、成継が呆れたように息を吐く。
「自分で言うか?」
「言うとも!だから今日は父の出番だ!」
そんなやり取りをしている間にも、氷壁の向こうでは魔獣たちが爪を立て、唸り声を上げ、壁を叩いていた。
宗輔が氷を維持しながら、短く告げる。
「入口までもう少しだ。走るぞ」
父が僕を肩へ担いだまま先頭へ出る。
成継がそのすぐ横につき、宗輔が後方を押さえる形で走り出した。
針葉樹の影が、徐々に薄くなっていく。
密林の黒が途切れ、
枝越しの空が明るくなり、
やがて一気に、太陽光が雪原へ降り注いだ。
眩しさに、一瞬だけ目を細める。
魔の森の入口だ。
父はそこでようやく僕を地面へ下ろした。
脚はまだ動く。
それを確認している間にも、背後からは魔獣の群れが氷壁を砕いて追いついてくる。
その時だった。
父が一歩前へ出る。
そして、雪原へ響き渡るほどの声で叫んだ。
「全軍、殲滅せよ!」
その瞬間。
走っていく先――魔の森の入口の外周に、幾重もの魔法陣がいっせいに浮かび上がった。
雪原に刻まれた円陣。
木立の陰に伏せていた魔法士たち。
盾を構えた兵の列。
さらにその後方、第二陣、第三陣と重なる迎撃線。
伏兵ではない。
最初から、ここで受けるつもりで敷かれた陣だ。
ドォンッ!!
バチィッ!!
ゴォッ!!
炎。
氷。
雷。
風。
土。
無数の属性魔法が、示し合わせたように一斉に雪原を裂き、追ってきた魔獣の群れへ叩き込まれる。
先頭の魔獣たちが吹き飛ぶ。
後続が止まりきれずに突っ込み、さらに巻き込まれていく。
雪が、血で、泥で、焦げた肉片で汚れる。
その光景を見ながら、ようやく胸の奥に詰まっていた息を吐いた。
助かった。
いや、助けられたのだ。
父に。
宗輔に。
そして、ここへ増援を間に合わせた麗華に。
「ぼさっとするな、義貞!」
父の声が飛ぶ。
「まだ終わっとらんぞ!」
「分かっている!」
答えながら、剣を握り直す。
成継もまた、低く笑った。
「……ほんと、最後まで派手だな」
宗輔は氷の魔力を薄く漂わせたまま、淡々と告げる。
「文句は帝都へ戻ってから聞く」
その声音に、僕も成継も、同時に小さく笑ってしまった。
本当に。
僕らの周りは、昔からこうだ。
無茶をして、
振り回して、
それでも最後には、誰かが間に合わせてくる。
雪原へ陽が差していた。
その光の中で、なおも魔獣の群れが牙を剥く。
けれど、もうさっきまでとは違う。
ここから先は、僕らだけで引き受ける戦いではない。
背後では、春の国へ向かった者たちが、さらに先の地獄へ進んでいる。
ならば、こちらも止まるわけにはいかなかった。
「成継!」
「おう!」
「行くよ!」
そう言って、僕らは再び剣を抜いた。
今度は逃げるためではない。
この先へ進ませるために、ここで魔獣を食い止めるのだ。
雷が唸り、
氷がきしみ、
父の大剣が唸りを上げる。
そのすべての先で、春の国へ続く道だけが、かろうじて開かれていた。




