九十六節 雷風の果て
雷が爆ぜる音と、風を裂く音が、絶え間なく耳を打っておりました。
バチバチ、と。
ビュン、と。
雷魔法と風魔法が、まるで生き物みたいに常時展開され続けているのです。
その中を、私たちはただひたすら走っていました。
周りには、焦げた魔獣の死骸。
切り刻まれて宙を舞う肉片。
それでも次から次へと迫ってくる気配。
そのすべてを、前を行く二人が無理やりこじ開けていきます。
義貞さんの雷。
成継さんの風。
二人の魔法は、別々に暴れているようでいて、ぶつからない。
むしろ互いの威力を押し上げ合うように、渓谷へ続く獣道を強引に切り拓いておりました。
私の彩眼に映るのは、黄色と緑の魔力が幾重にも絡み合いながら、狂うことなく循環している光景でした。
「……兄貴と成継は、昔からああやって遊んでいたからね」
前を見たまま、澪さんがぽつりと零します。
「遊び、ですか?」
思わず聞き返せば、澪さんは小さく鼻で笑いました。
「理屈じゃ分からない。でも、二人が互いに魔力循環させることで出来るらしい。走りながら常時魔法展開なんて、普通は出来ない」
そこまで言って、澪さんの唇がわずかに噛まれました。
私はそこでようやく悟ります。
この複合魔法には、きっと落とし穴があるのだと。
確かに、効率の悪い魔法です。
二人は走りながら、もうポーション四本目でした。
いくら何でも、消耗が激しすぎる。
本当に、大丈夫なのでしょうか。
そう思った、次の瞬間でした。
バチバチッ、と雷を受けた魔獣が、形を保ったのです。
「っ!」
一瞬、息が止まりました。
ですが次の瞬間には、義貞さんと成継さんが、ほとんど同時に剣を抜いておりました。
左右から、一閃。
ザンッ、と。
二人の刃が交差するように走り、その魔獣の首が綺麗に落ちます。
なんという連携でしょうか。
思わず、息を呑みました。
魔法だけではない。
崩れた瞬間すら、二人は最初から想定していたのです。
「……着いたね」
義貞さんの声が落ちます。
「渓谷だ」
成継さんの低い声が続いたところで、私も前を見ました。
眼下に広がるのは、底の見えない渓谷。
その下には、濃密すぎる魔力が漂っております。
空気そのものが淀み、黒く沈んで見えるほどでした。
あの中へ落ちれば、ただでは済まない。
いえ、済まないどころか、跡形もなく呑まれる気さえしました。
ぞくり、と背筋が冷えます。
その渓谷の縁で、不意に成継さんが振り返りました。
そして、ふっと澪さんを抱き締めます。
あまりに自然な動作で、一瞬、言葉を失いました。
澪さんもまた、珍しく抵抗しませんでした。
成継さんの背へ、そっと片手を回す。
強くではない。
けれど、離れる前に確かめるみたいな、短く、確かな抱擁でした。
浮かんだ色が、快晴の青に、舞う桜のような鮮やかな色へ変わっていく。
別れを惜しむ色。
それでも泣かずに前を向く人間の色でした。
「じゃあ、頼んだぜ、澪」
低い声。
短い一言。
澪さんは、ほんの一瞬だけ目を伏せて、それから短く頷きます。
「分かってる」
それだけでした。
続いて義貞さんが、ぽん、と澪さんの頭を叩きました。
「澪。光は頼んだよ」
いつも通りみたいな声音でした。
けれど、その黄色の奥にあるのは、静かな覚悟でした。
「……うん」
澪さんの返事も、やはり短い。
それから二人は、並んで渓谷のぎりぎりまで歩いていきます。
「陸、昌澄、私と手を繋いでおいて」
差し出された手は、どこか震えていました。
でも澪さんに言われるまま、私たちは手を繋ぎました。
陸さんの背には、眠ったままの光さん。
その重みを支えたまま、陸さんもまた無言で頷いております。
次の瞬間でした。
義貞さんと成継さんの足元へ、膨大な魔力が流れ込みます。
展開されたのは、強大な魔法陣。
黄色と、緑。
その二つの巨大な陣が、三分の一ほど重なり合うように渓谷の上へ広がっていく。
あまりにも大きい。
あまりにも精密です。
これほどの規模の魔法陣を、走りながら、ここまで維持してきたという事実に、今さらながら戦慄しました。
そして――
ドォンッ!!
腹の底まで揺さぶるような雷の一撃が、渓谷へ落ちます。
次の瞬間、そこから巨大な竜巻が立ち上がりました。
風が渦を巻き、
その中を稲光が走る。
雷と風。
二つの血統魔法が、無理やり一つの災厄に編み上げられていく。
これほどの大規模魔法を、二人がかりとはいえ制御できることに、驚きしかありませんでした。
「行くよ!」
澪さんの声が、鋭く響きます。
その瞬間、身体がふわりと浮きました。
「えっ!?」
思わず声が漏れます。
渓谷の上を、私たちはふわり、ふわりと浮いていたのです。
「澪さん、私、浮遊魔法使えますが!?」
咄嗟に叫べば、澪さんは前を睨んだまま言い返します。
その胸に掛かるペンダントが、淡く緑に輝きました。
魔石を使って、自分の素養にない魔法を使っているのだと、分かりました。
「ダメなの! 成継の魔法は重力補助がかかる! 普通の浮遊魔法だと吸い込まれるの!」
なるほど、理解しました。
したくはありませんが。
下を見れば、濃密な魔力の渦が、私たちを引きずり込もうとするようにゆっくりと蠢いておりました。
あれに普通の浮遊魔法で触れれば、たしかに終わりでしょう。
私たちは、成継さんの魔法に導かれるように、ぎりぎりで渓谷を渡っていきます。
一歩ごとに、落ちていないことを確認するみたいでした。
長いようで、けれど息をする間に終わってしまうほど、一瞬でもありました。
やがて、地面へ足がつきます。
春の国側です。
その瞬間、反対側で義貞さんと成継さんが、ほとんど同時にふっと笑いました。
嫌な予感が、胸をよぎります。
次の瞬間――複合魔法が、途切れました。
いきなり、でした。
さっきまで耳を満たしていた雷鳴が、一拍だけ遠のく。
風のうねりが、ふっと芯を失う。
私たちの身体を支えていた見えない力が、指の隙間から水が零れるみたいに、すうっと消えました。
空気の密度が変わる。
渓谷の上を覆っていた圧が、崩れる。
雷の残滓だけが散り、風の流れが裂け、ほんの一瞬だけ、世界が“空白”になったように感じました。
そして――まるでそれを合図にしたみたいに、渓谷の底から夥しいほどの魔獣が沸き上がったのです。
「っ……!」
息を呑む間もありません。
魔獣を二人で引き受けるつもりだったのは理解しておりました。
でも、これ程の量、これ程の数。
渓谷の底に沈んでいた夜が、そのまま獣の形で噴き上がってきたみたいでした。
あれを二人で引き受けるなど、自殺行為に等しい。
ただ一瞬、二人が向けてきた色は、黄色でした。
――信頼。
義貞さんと成継さんは、あらかじめ決めていた退路へ一気に駆け出します。
その背を追うように、渓谷の魔獣たちが一斉に吠え、雪を蹴散らして殺到していきました。
「昌澄!」
澪さんの声が飛びます。
振り向けば、澪さんの目は一瞬だけ揺れ、それでも次の瞬間にはもう前を向いておりました。
「成継も兄貴も大丈夫! 行くよ!」
その言葉に、私は一瞬だけ息を詰めます。
大丈夫かどうかなど、分かるはずがありません。
けれど、ここで立ち止まる方が、あの二人の覚悟を踏みにじることくらいは分かりました。
だから、頷きます。
「……ええ!」
そうして私たちは、再び走り出しました。
背後では、雷鳴と咆哮が重なり合って響いております。
前には、まだ終わらぬ魔の森。
けれど、止まれません。
兄上のいる春の国へ辿り着くために。
光さんを生かして届けるために。
私たちは、最短の地獄を、ただ前へ進み続けるしかなかったのです。




