九十五節 白と黒の境界
Side 朝比奈 昌澄
私は、貸していただいた部屋で春の国の軍服へ着替えた。
白を基調とした軍服。
金糸で縁取られた襟。
整えられた肩章。
冬の国では少し浮いて見えるその色が、今は妙にしっくりきます。
鏡の前で最後に襟元を正し、深く息を吐きました。
これから向かうのは、春の国。
兄上のいる場所。
けれど、その道中にあるのは、ただの帰郷ではありません。
地獄です。
自分にそう言い聞かせてから、私は広間へ向かいました。
そこには、すでに皆が揃っておりました。
黒い軍服を纏った義貞さん。
同じく、黒の軍服姿の澪さん。
成継さん。
陸さん。
そして、その陸さんの背には、光さんが背負われております。
表情はありません。
顔色も、驚くほど悪い。
まるで眠っているというより、どこか遠い場所へ行ってしまった人を、無理やりこちらへ繋ぎ止めているようでした。
その周りを囲むのは、紫苑さん、睦さん、美海さん、千代さんをはじめとする一条家の面々。
皆、一様に言葉少なで、けれど誰一人として視線を逸らしてはおりませんでした。
そこへ、同じように黒い軍服を纏った慶人さんと満さんがやって来ます。
場の空気が、ぴん、と張り詰めました。
満さんは、陸さんの背の上で眠る光さんの前へ立ちました。
少しだけ唇を噛み、それでも、いつものように淡々とした声を作ります。
「じゃあ、姉さん。いっていらっしゃい」
そう言いながら、満さんはそっと光さんの髪へ簪を差し込みました。
その瞬間に見えた色に、私は息を呑みます。
深海のように深い青。
その中に、紫が渦巻き、緑が揺れ、黒が沈んでいる。
悲しみ。
不安。
怒り。
愛情。
どうしようもない喪失の予感と、それでも姉を帰したいという願い。
一人の人間の中で、あれほど多くの感情が同時に渦を巻くのを見たのは、久しぶりでした。
「……やっぱり似合わないな」
満さんが、苦く笑います。
「姉さん、姉さんはもっと明るい簪が似合うんだ。帰ってきたら、ちゃんとしたの、作るからね」
そう言って、満さんは簪を抜き取り、私へ差し出しました。
「姉さんの髪に刺しておきたいけど、落ちたら困りますからね。昌澄さん、こちらを『清澄さん』へ」
満さんが浮かべた色は緑。
私はそれを、静かに受け取ります。
重い。
ただの飾りではない。
命を繋ぐための、祈りと呪いの境目みたいな重さでした。
私はそれを大事に胸元へしまい込みます。
「確かに、お預かりしました」
小さくそう告げると、満さんは一度だけ、深く頷きました。
続いて、慶人さんが口を開きます。
「転移ゲートは、あと二時間で魔の森に接続かのうじゃ。つまり、魔の森の渓谷に行って、義貞様と成継様が戻ってきた時に、増援が付いている確率は極めて低いっちゅうことを考えておいてくれ」
その言葉に、誰も軽々しく返事をしませんでした。
分かっているのです。
今回の道が、最初から助けの薄い道であることくらい。
成継さんが鼻で笑います。
「ま、それを踏まえての、俺と義貞だ」
「ふふっ、僕らは周りがいない方が強いからね」
義貞さんも、からからと笑いました。
ですが、その色を見た瞬間、私は何とも言えない気持ちになります。
浮かんでいるのは、紫。
虚勢。
緊張。
それでも笑って見せるための、冷たい覚悟。
この二人は、心配をかけぬために笑っているだけです。
本当は、自分たちが最も危険な道へ立つことを、誰よりも分かっている。
そのことに気づいてしまった私と、義貞さんの視線がぶつかりました。
義貞さんは、ほんの少しだけ目を細め、それから唇の前へ指を立てます。
――しー。
『言うな』と、そういうことでしょう。
私は何も言わず、ただ小さく頷きました。
その時です。
すっと歩いてきたのは、正光殿下と香さんでした。
香さんもまた、白の春の国の軍服へ着替えております。
赤茶の髪に白は、驚くほど映えておりました。
けれど、その顔色は決して良くありません。
香さんは、陸さんの背に背負われる光さんの前へ立ち、そっと頬へ手を当てました。
さらり、と光さんの黒髪が揺れます。
「姉さん」
その声は、震えておりました。
「姉さんの代わりにね、冬の国で守るから、それまで、待っているから、帰って来てね」
その言葉に、一条家の面々が一斉に深く、黒く、冷たい青を浮かべました。
そっと、隣に立っていた正光殿下が、香さんの肩を抱きます。
『大丈夫』そう言うような言葉が喉で詰まるような気がしました。
悲しみ。
胸を抉られるような痛み。
香さんのその一言が、どれほどの覚悟の上に成り立っているのか、誰もが理解していたのです。
私もまた、喉の奥が重く塞がるようでした。
だらりと垂れる光さんの腕を隠すように、陸さんへ外套が掛けられます。
美海さんと慶人さんが、陸さんへ低い声で何かを告げました。
陸さんは、一瞬だけ迷いを見せました。
けれど、次の瞬間には、力強く頷いております。
その色は、ひどく静かな決意でした。
「では、そろそろ行きますわよ」
百合子さんがそう言って、一気にポーションを煽ります。
次の瞬間、足元へ広がったのは、赤黒い魔法陣でした。
大きい。
強大です。
明らかに、一人の魔法使いが扱う規模を超えている。
床一面を這うように伸びる線。
幾重にも重なる円。
文字とも呪いともつかない紋様。
それら全部が、怪しい色で脈打つように光っておりました。
思わず、ぞくりと背が粟立ちます。
これは、転移魔法でありながら、どこか生贄じみた色を帯びていました。
大規模すぎる魔力行使というのは、綺麗なだけでは済まないのでしょう。
「みんな、姉さんを、お願い」
満さんの声が、背後から響きました。
どこか、ひどく切実な声音でした。
その瞬間、魔法陣が一気に光を増します。
視界が、赤黒く染まる。
身体がふわりと浮く。
内臓が上下逆になるような、嫌な浮遊感。
そして、次の瞬間には――。
視界の先に広がったのは、雪原でした。
白。
灰。
薄く濁った空。
その向こうに見えるのは、針葉樹の密林。
黒々と、無言のまま待ち構える、魔の森。
ドサッ、と。
枝が手折れる音が響きます。
いいえ、その音が、人が倒れた音だと理解しております。
ひゅっと吸い込んだ空気は針のよう。
凍った空気が頬を刺し、肺の奥まで一気に冷えました。
けれど、振り返る気にはなれませんでした。
この先へ進むために来たのです。
後ろにある屋敷も、冬の国の人々の顔も、今ここで見てしまえば、足が止まる気がしました。
だから私は、ただ前だけを見ます。
白い雪原の先。
針葉樹の密林。
そのさらに奥。
兄上のいる、春の国へ続く、最短の地獄を。




