(後編)
藤堂の言葉は、眞理子が恐れていた通りであった。
眞理子の喉元まで『イヤです!』という言葉が突き上げる。握り締めた無線機からは何の音も聞こえず、彼女は藤堂に背を向けたまま、ヘリコプターの機影を見送った。
――どうしてイヤだと言えないのだろう。
こんな場所に、傷ついた藤堂を独りで残さなければならないなんて。だが、美樹原を置いて藤堂を連れて下りるような選択も眞理子には出来ない。
ならば、下山そのものが出来ないと言えばいいのだ。自分には、美樹原を連れて下山することは出来ません、と。藤堂は出来ないと言う人間に命令を押し付けるような真似はしない。仮に、眞理子のレスキュー隊員としての評価を落としたとしても、救助が来るまで一緒に居られる。藤堂に万一の時、傍に居られなかったら悔やんでも悔やみ切れないだろう。
だが、しかし……。
「――了解しました」
小さな声ではあったが、きっぱりと眞理子は答えた。
〝藤堂の傍にいたい〟それだけの理由で美樹原の命が失われたら、眞理子は嘘をついた自分を許せないと思った。
おそらく藤堂も、嘘と知りつつ容認した自らを許すまい。生き残れば心を傷つけ、二階級特進した時は彼の名誉を傷つける。
――この時の選択は正しかったと、今も眞理子は信じている。
墜落したヘリコプターから予備の担架を取り出し、眞理子はそれに独りで美樹原を乗せた。
「隊長、夜半から雨の予報です。応援の到着は明朝になると思われます」
「ああ、判っている。沖……美樹原を頼んだぞ」
「……」
はい、と答えようとするのだが、上手く声が出て来ない。
部下として、レスキュー隊員としての顔はそこまでが限界だった。眞理子は藤堂のもとに走り寄り、彼に抱きつく。
「美樹原さんを応援の人に任せたら、必ず迎えにくるから……。それまで……生きてるって約束して。絶対に、生きて私を待ってるって。でなきゃ……この場で山岳警察を辞めて、潤一郎さんの傍にいる!」
本当にそんなことが出来ないのは判っていた。判っていたけれど、眞理子は言わずにいられなかったのだ。
藤堂は動くほうの左手で眞理子の頬を撫で、
「判った。約束する」
そう答えたのだった。
~*~*~*~*~
眞理子が藤堂に再会できたのは約十二時間後のこと。意識はなく、かろうじて息のある藤堂を麓の病院に担ぎ込んだのは、墜落事故から丸一日が経過していた。
美樹原を合流した仲間に委ねる時、眞理子も病院に行くよう言われた。彼らほどではないにせよ、眞理子の体にも無数の擦過傷と打撲痕があったからだ。しかし、「隊長を助けてから」という眞理子に、誰も反対など出来ない。
休息も睡眠もなく、食事も取らず、悪天候の富士山中を駆け回った。それは、藤堂の生還だけを願った長い二十四時間であった。
「あなたが、沖眞理子さんね」
手術中の藤堂の少しでも近くに居たくて、自分の治療を終えて向かった先に居たのは、彼の母親だった。
眞理子の父親同様、二人の結婚に反対していた人物だ。藤堂は了解を得たと言っていたが……。彼女の表情から、歓迎されていないことは一目瞭然である。
「先に救助された人は亡くなったそうじゃないのっ!? どうして、そんな助かるかどうか判らない人を優先したりするんです? どうして、潤一郎さんを助けてくれなかったの? 恋人を見殺しにして、レスキューの仕事を取るなんて……」
藤堂は父親と仲が悪く、山岳警察入りを反対されていたと聞く。その為、息子の命に関わると聞かされても、駆けつけて来たのは母親だけであった。
「申し訳ありませんでした。私の力が足りず……でも、お義母さ」
病院の廊下に乾いた音が響き――眞理子は頬を叩かれていた。
「あなたにそんな風に呼ばれたくありません。潤一郎さんが死んだらあなたのせいですよ!」
眞理子は何も言い返せず、罵声を浴びるだけだ。そんな眞理子を見かねて、秋月は庇おうとしてくれた。だが、彼を手で制し、
「仰る通り、私の責任です。本当にすみませんでした」
眞理子は深々と頭を下げ、その場から走り去った。
どこをどう走ったのか記憶にはない。ただ、その場から逃げたかったのだ。
だが、途中で腕を掴まれ……秋月だった。
「全部、藤堂の命令だろう? お前が頭を下げる必要なんかない。俺が藤堂でも同じことをした。一般人や部下を差し置いて、隊長である奴が下りられるわけがないだろう!?」
秋月は正しい。でも、藤堂の母の言葉は、眞理子が自分自身に言いたい言葉であった。
何よりも誰よりも大切な人を助けられなくて、どうしてレスキューをやっているのだろう。世界中の人から後ろ指を指されたとしても、どうして最優先しなかったのか。いっそ逆ならば良かった、と怪我をした藤堂を恨みそうになる。
眞理子は深呼吸をしながら言った。
「隊長が……いつも言ってるから。要救助者が亡くなったり、大怪我を負ったりしたら……家族から責められるのも、レスキュー隊の仕事だ……って」
そこまで言った瞬間、堪え続けた涙が噴水のように溢れ出した。眞理子は秋月に縋りながら、
「どうしよう……隊長が死んだらどうしよう……。何もかも放り出して、あの人を助けたかった! 本当は、傍にいたかったのにっ!」
「大丈夫だ。奴は死なない。お前を置いて死ぬもんか。大丈夫だ、奴を信じろ!」
秋月の言葉に間違いはなく、藤堂は危険な状態を乗り越え、一命を取り留めた。
しかし彼は、全身十二箇所を骨折していた。そして骨折を長時間放置したことから合併症を発症、筋肉組織や神経が壊死してしまい、右足は切断を余儀なくされたのである。
最初に救助を要請したハイカーは、ヘリコプターから救急車に移され病院に到着直後、息を引き取った。死因は最初に滑落した際に負った脳挫傷だと判明する。
美樹原は一部脊髄に損傷を受けており、レスキュー隊員としての活動は不可能となった。その後一年以上をリハビリに費やし、彼は自力歩行を取り戻す。そしてヘリコプターの操縦士として富士に戻ってくるまでには、さらに数年を要するのだった。
~*~*~*~*~
眞理子が富士で過ごす十一回目の夏――。
「やっぱりスカーレットかな。彼女が動かなくなったときは……マジ泣いた」
「泣くなよ……バイクごときで。つうか、名前なんか付けんなよ!」
「うるせぇっ! まだ三年しか乗ってなくて、ローンも残ってたんだからなっ」
愛車のハーレーダビッドソンを馬鹿にされ、表に出ろ、とばかりに顔を真っ赤にしているのは緒方であった。二十三歳の彼は、趣味がフリークライミングとバイクだという。女に興味がないわけではなさそうだが、しばらく無理だろうな、と眞理子は考える。
そんな緒方をからかっているのは、眞理子と同じ歳の水原だ。
「そういうテメェはどうなんだよ!」
「俺か? 俺は……親友かな。この富士で、消えちまいやがった」
「崖から落としたハンマーが親友とか言うなよな」
「……新しいスカーレットを突き落としてやろうか?」
「俺のクールなビビッドに触るんじゃねぇーっ」
新車は名前が変わったらしい――それはともかく。
水原が二年前、この富士で親友を失ったことは知っている。それが彼を山岳警察に志願させた理由である、ということも。
隊員たちは顔を合わせて、『これまでの人生で失って一番辛かったもの』について話していた。
たまたま来合わせた、レスキューヘリの操縦士・美樹原にまで質問している。
「体の自由を失った時は一番辛かったかな。二度と山には戻れない、と言われたし……」
美樹原は眞理子の隣に立ち、彼女の肩に手をやった。
「でも、沖隊長のおかげで命が繋がった。今は、あの時亡くなった有沢操縦士の分も、頑張りたいと思ってる」
報告書から顔を上げ、眞理子は口を開いた。
「美樹原さんの場合は失ったとは言い切れないですよね? なんたって、リハビリに付き添ってくれた理学療法士の女性と結婚されたんですから」
「そ、それはだな……」
皆から、失くしたモノより手に入れたモノのほうが多すぎ、とブーイングを受け、美樹原は笑いながら立ち去った。
他はやはり親、祖父母の死が多い。副長の南も、
「十歳の時、父を亡くしたことでしょうか。交通事故で……妹と一緒に先生が病院まで連れて行ってくれました。当時は悲しんだり、早くに死んだ父を恨んだこともありましたが……。命の重さや大切さを知ったので、私にとって必要な悲しみだったと思っています」
いつもと変わらぬ穏やかな声で話した。
「隊長はなんですか?」
中学生の時、彼が生まれる前から家にいた柴犬タローとの別れが一番辛かった。そう答えた、二十歳の島崎が無邪気に眞理子にも尋ねる。
眞理子が隊長になる前、半年間ほどの出来事を噂だけでも聞いている連中は顔色を変えた。
だが、眞理子は実にアッサリと答えたのだ。
「――ない」
その返事に隊員たちは唖然とする。
眞理子が微笑みながら付け足した言葉は――。
「大切なものは、ハンマーの一本だって失ったら辛いよ。でも、一番はない。コレを失ったら立ち直れない、と思っても、気付かないだけで私はまだ大切なものを持ってるんだ。色々失ったし、これからも失うかも知れないけど……生きてる限り、次に失うものが一番辛い。だから、全力を尽くす」
次の瞬間、五合本部内に警報が鳴り響いた。
一斉に目の色が変わり、眞理子の号令の下、全員が駆け出した。
それぞれが、一番大切なものを守る為に――。
~fin~
御堂です。
ご覧いただき、ありがとうございます。
ここから藤堂との別れやどん底の日々が続き、「私は死なない」に繋がって、復活を遂げます(笑)
ちなみに、藤堂隊長と付き合い始めた頃(風見本部長を含めた三角関係?とか)のお話だと、完全R18になりますので、リクエストがあればUPを考えます(苦笑)
え?それより、第5章?…はい、それも頑張って考えます(^^;)
ではでは、どうもありがとうございましたm(__)m