さっちゃん、はっちゃん
午前3時半。空には夜でも目で見てわかるほどに、雲が厚い。雨が強くなったのか、窓を叩く雨音も激しさを増している。室内の温度が若干、涼しくなったような気もする。
白鷺さんには、隣の706号室を新たにとって、加藤由利を見て貰っていた。
俺から情報を引き出すために6時間以上、ACTをぶっ続けて行使し、その後にはフェイクニュースを流し、この部屋にも細工を施していた。
2時間くらいはACTでフェイクニュースを流す仕掛けになっていると言っていたが……少し休ませなければ、体力的に限界だ。実際フラフラしていたから、強引に寝かせつけた上で、白鷺さんに看病をお願いしたくらいだ。
それに―最初は彼女じゃ無くて、俺が酒井さんから話を聞いた方が良い気がする。
コンコンとノックをされたので、扉のドアスコープを覗き込む。
例の如く、マスケラをつけている少女がそこに立っていたので、
「合言葉は?」
「……そんなもの、無かったよね?」
腕を組んで普通に返されたってことは、中身は酒井さんで大丈夫だな。
鍵を—いや、オートロックの部屋だったか。ドアを開ける。
片手をあげ、や、と挨拶してくる、学校の制服を着たマスケラ……いつ見てもシュールだな。
「雨が強くなってきたせいで、少し濡れちゃったよ。この部屋で着替えていい?」
「……なぁ、酒井さん。同年齢の男がいる部屋で着替えとかって、どうなの?」
「あれ? こんなマスケラつけている女の着替えでも欲情するの?」
そう言ってから、しばし足を止めて酒井さんは考え込み―ずざっ、と足音をたてて後ずさりした。
「まさか、君、仮面とかつけた人じゃないと興奮できないなんてアブノーマルな性癖を」
「だぁぁぁっ! そんなアブノーマルあってたまるか! とりあえず、俺が出て行った後にでも、電話かけてホテルの人に着替え用意してもらって、それから着替えろ! 終わったら呼んでくれ」
「……ノリが悪いな。もう少し付き合ってくれても良いと思うんだけど」
勘弁してくれよ、とすれ違い様に呟きつつ、部屋から出る。
扉が閉められ、1人になったことでもう一度確認する。
俺としては、酒井さんはシロだと思う。
が、万一、クロだった場合は―隣室にいる白鷺さんと合流するか、あるいはその場で戦闘、も有り得る。
左腕に装着したOBを見下ろし、『砂上の楼閣』の特性―自身を中心とした3メートルの距離内に存在する物は、何であろうとその恩恵を被る―を思い出す。
部屋の端っこで話す必要があるな。長丁場になるかもしれないが、椅子に座るのもNGだろう。ポケットに忍ばせておいたACTの余波集約装置もONにしておく。
…………
……………………
「おおーい、こっちに返ってこーい」
視線を正面に戻せば、ホテルマンが持ってきたであろうパジャマに着替えた酒井さんが、俺の肩を揺すっていた。
「悪い。ボーっとしてた。で、もう着替えは終わったんだよな?」
ホテルマンが来たことにも、酒井さんが目の前に立っていたことにも気付いていないのは、加藤由利のACTの影響がまだ残っているのか、それとも……
頷いた酒井さんの後ろに続く形で706号室に入る。
酒井さんは、俺に背を向けており、完全に無防備。
……やはり、どう考えても俺の記憶を改変した黒幕とは思えない態度だ。
ベッドの上に腰掛ける酒井さんに対し、俺はドア付近で立ったまま。
「あのカマトトが用意した部屋だから大丈夫だとは思うけど、盗聴とかACT対策は大丈夫?」
「ああ。あの時点で、まだ2時間は大丈夫って言ってたから……1時間は余裕だ」
「で、白鷺さんとカマトトは?」
「加藤由利はぶっ倒れているんで、白鷺さんに看病をお願いしている」
俺の雰囲気がいつもと違うことを察したのか、酒井さんは、そ、とだけ呟いた。
「カマトトはわたしを疑っているみたいだけど、容疑はなんなの?」
「俺や白鷺さんの記憶の改変及び、抹消したのが酒井さんじゃないか、ってこと」
「……ええと、あのカマトト、何を根拠にそんなこと言いだして、かつどうして君はそれを信じているのかな?」
「根拠は、俺の脳だな。加藤由利のACTって、分析とか予知に特化しているから、脳とかも画像っぽく見る事が出来るらしいんだ。で、加藤由利曰く、俺の脳は30代のものだ、ってACT訓練室で会った最初の日に言われたよ」
諜報員なんじゃないのかって疑われたしな、と苦笑する。
「俺自身、自分の身体がおかしいと思うことは多々あったから、俺の記憶がおかしいんじゃないのかと」
「嘘だろ。そんなあやふやな『かもしれない』っていう推測だけで、自分の記憶が改変されている、なんて大事を受け入れられる訳がない」
マスケラの奥から、真実を暴こうとする眼光が注がれる。
「君は、君の理由で、わたしを疑っているんだろう?」
出来れば、言いたくなかったんだが……言うしか、ないか。
確証がある訳ではないし、あの時は本当に具合が悪かったのかもしれないし、津田さんとの相性が悪いだけかもしれないし……言ってみないと、わからんな。
俺もついさっき、思い出した訳だし。
俺は酒井さんに正対し、その挙動を一つも見逃さないように注視した。
「さっちゃん」
反応は、無い。いや、無さ過ぎる。
「もう、本名忘れちまったけど、さっちゃんなんだろ?」
「知らない。誰だい、それ」
……俺は、ため息をついた。
彼女は、多分、こちらの世界の『秦啓一』の幼馴染。
『平成』では青森に行く前、函館にいた頃、お世話になった一つ上の幼馴染。小学校に入学するのを機に青森に転居したため、その後は全く接点が無かったが―『正化』では、いくらか接点があったのかもしれない。
「酒井さんの普段の態度なら、『へー、君にもそんな綽名で呼ぶ異性の友達がいたのかい』とかって、興味津々で聞いてくると思うけどね」
「知らないものは、知らない」
断固として認めない、と言わんばかりに俺と視線を合わせようとしない。
「加藤由利に言われるまで、俺も気づかなかったけど……バスの中で、津田さんに『さっちゃん』と呼ばれて、止めろと言ったのは、俺に思い出されると困るからじゃないの? 今まで見たこともないくらいに焦っていた、って言ってたぞ」
「焦ってなんていない。たまたまイライラしていただけだよ。バスに酔って具合も悪かったし」
何が何でも認めない、と頑なな態度からは、嘘でも言い続ければ真実になると思い込んでいるかのよう。
眼前の少女がクロではないと確信した俺は、ゆっくりと歩み寄り、酒井さんのすぐ隣に腰掛けた。
「なぁ、さっちゃん」
「わたしは、さっちゃんなんて知らないって何度言えば」
「俺、すごい汗っかきなんだよ。それこそ、夏であれば滝のように汗をかく。でも、こっちの病院で目を覚ましてからは、あんまり汗をかかないんだよ」
普通なら、何を話し出すのだろうと訝し気な態度をとるか、続きを促すはず。
でも酒井さんは緊張からか、喉をゴクリと、俺に聞こえるくらいの音を鳴らした。
「そう、なの」
「ちなみに俺の血液型、O型。で、加藤由利に言われたんだが……彼女が調べたら、病院のカルテにある俺の血液型の欄には、なぜかA型って書かれていたそうだ」
「病院で、何か、間違えたんだろ」
酒井さんの強弁を無視する形で、俺はあまり考えたくはなかった推測を口にした。
「秦啓一は、すでに一度、死んだ。そして、この身体は赤の他人のモノ。そうだね?」
何バカなことを言っているんだい、という具合に呆れた言葉を言ったり、熱でもあるのかい、と俺の頭を心配してくれれば、良かったんだが……
反論がなく、マスケラの口の奥から、カチカチと歯の根が噛み合わない音が聞こえてくることから考えるに……当たりだったらしい。
酒井さんのあまりの怯えように、落ち着いて貰うべく手を取ろうとしたら、短く悲鳴をあげられた。
……ゆっくり彼女を抱きしめた。
「なぁ、さっちゃん。もう、一人で抱え込む必要はないから、全部教えてくれよ。君が知っていた頃の、子どもの秦啓一じゃないんだから。うまく、やってみせるから」
幼い頃の記憶を思い出すように―ご近所の幼馴染だった彼女が、ピーピー泣いていた俺にそうしたように、その背をポンポンと軽く叩く。
「う、うぅぅ……はっちゃん、はっちゃぁん……っ!」
……ああ、そうだった。
ケイ、という綽名だと、皆がそう呼ぶから、あたしは『はっちゃん:』って呼ぶ、と言っていたのは、そう、確かに彼女『さっちゃん』だ。
『平成』にいた頃も含めて、俺の事を『はっちゃん』なんてあだ名で呼んだのは、後にも先にも『さっちゃん』だけ。
すすり泣く彼女をあやすように、俺は何度もさっちゃんの背を軽く撫でた。




