ティミーという少年
ドラクロワと別れ、邸に戻り。アリエッタは部屋でこそりと尋ねた。
「珍しいですね、お嬢様が、ティミー様の本に関心を示さないなんて」
「興味がないわけじゃないの。正直、今すぐにでもどんな本か教えてほしいくらいだわ。でも……」
キーラは、いつになく神妙で――思い詰めているようにも見える表情で、窓の外を見た。ドラクロワと一時は存外に楽しかったのか。時間を忘れていつの間にか、辺りは夕方。
夜が来る。魔性の夜が。
「あの本は、ティミーのものよ。私が勝手に開いて良い物じゃない。そんな気がするの」
子どもの就寝を過ぎて、キーラはこっそりと部屋を出た。ネグリジェ姿で抜き足差し足。ティミーの部屋を訪れる。
そっと開いた扉の先。灯り一つない部屋で、ティミーはやはり起きていた。窓から満月の光が差し込み、ベッドの上に座り込むティミーだけを浮かび上がらせる。
ティミーは、深夜の来訪者に気が付かなかった。キーラは息を詰めて、窓の外をぼんやり眺めるティミーを見守り、やがて意を決して声を掛けた。
「ティミー……?」
ティミーの肩が跳ね、ようやく彼はこちらを向いた。うわ言のようにキーラを呼ぶが、何処か夢を見ているような顔。
キーラは魔女の顔を作り、ティミーに近寄った。
「駄目じゃない。良い子は寝る時間よ?」
「……お姉ちゃんは?」
「私は、黒猫ちゃんがちゃんと寝ているか見に来ただけよ」
ティミーが寝たら帰る、と言ったのだが。そのティミーが、素直に従う様子がなかった。表情のない顔で、再び窓の外を――満月を見る。
布団の上に投げ出された手が何かを固く握りしめていることに、キーラは気が付いた。まるで縋っているかのようだ。
キーラはベッドに上がり、ティミーに寄り添うように座った。
「満月が見ているから、お化けは来ない。でも心配なら、私が見ていてあげましょうか?」
キーラの脳裏には、翌朝に使用人たちに見つかって叱られる光景が浮かびはしたが。それでもなお、ティミーをこのまま置いていく選択肢が出てこなかった。
ただじっと、正面を――客間の壁を見て、彼の返事を持つ。月明かりを受けた壁紙の模様が目新しいものに見えて、キーラは不思議な気分に陥る。
まるで海の底に居るような揺蕩う心持ちで、どれほど待ったことだろう。
「……僕は猫じゃないよ」
路地裏に置かれた捨て猫のような声で、ティミーは小さく鳴いた。
はじめ、キーラは〝設定〟への苦情だろうかと思った。しかし、少し考えて違うという結論に至った。ティミーは、臆病ではあるが、嫌なことは嫌だと言える子だ。やせ我慢はしない。
「じゃあ、何なの?」
キーラの質問に、ティミーは窓の外を向いたまま、何かを握る拳を強く握りしめた。
「僕は……狼男なんだ」
ティミーの部屋で一晩過ごした翌朝。着替えに戻ったキーラは、夜の出来事をアリエッタに話した。アリエッタは、キーラがティミーの部屋にいたことをすでに把握していたようで、キーラを叱るようなことはなかった。
「どうして?」
「メーガンが見ていましたから」
メーガンは、毎晩ティミーの就寝の様子を見守っているのだという。だからキーラがティミーの部屋に居て、一緒に寝たことも知っていた。納得はしたが、新しい〝どうして〟にキーラは首を傾げる。
「これは、私も昨晩メーガンに聞いたばかりなのですけれど」
ティミーは、ここに来る前、就寝後に家の中を徘徊するということを頻繁に繰り返していたそうだ。しかし邸の中を歩き回っている間は、本人は眠っていて、歩き回っていた事実さえ覚えていないという。
「そして、困ったことに、ティミー様はその徘徊中に、物を壊してしまうことがあったようで」
「え!? でも」
キーラは、最近家の中でものが壊れたという話は聞いていない。
「はい。ティミー様は、この家に来てからそのようなことは、一度もなさっていません」
「そうよね……」
ティミーの性格を見てみても、とてもそんな破壊衝動を抱えているようには思えない。
一方で、ティミーは自分を〝狼男〟と称した。夜に我を失い、衝動に任せて破壊を尽くす様を、そう喩えたのだとしたら。
あのまだ小さな少年は、自分の所業を知っていて、ずっと知らない自分に怯え続けているのだ。
「ねえ、アリエッタ。ティミーがここに来たのって――」
「ポール様――ティミー様のお父上が、ライナス様にお願いをしたからです」
そして、昨日の『帰れない』の重みを知る。
キーラは怒りと哀しみを同時に覚えた。そして自分が何をすべきか考えた。今すぐ父に掛け合って、ティミーを家に帰してあげるべきか。そして、叔父を非難して――
「一つ、お嬢様に知っていただきたいことが」
憤りに唇を噛み締めていたキーラは、これまで以上に真剣なアリエッタの声に何かを感じて、顔を上げた。
「ティミー様は、キーラお嬢様が差し上げたお守りを、毎晩大切に握って眠っているのだそうです」
昼間は服に着け。夜寝るときは握りしめて。
他でもないティミーが、夜の自分を恐れていて。
だけど、魔女が見ているから、ティミー久しぶりの安寧の夜を手にしているのだ。
そうと知ったキーラは、ただちにティミーの部屋に戻った。
メーガンにも触らせなかった鞄の奥底から、ティミーはずっと隠し持っていた荷物を取り出した。それは、人形だ。布でできた、亜麻色の髪に、水色のエプロンドレスを着た女の子のお人形。四肢が千切れたそれは、ティミーの妹の人形だった。
妹が来たのは、もう四ヶ月も前のことだった。父が二人目の母と一緒に連れてきたのだ。『死んだお母さんの代わりに仲良く』と言われて努力しようとしたけれど、なかなかうまく行かなかった。継母はティミーが視界に入るたびに睨みつけてくるし、同い年の妹はいつも鼻で笑い飛ばしてきて話もできない。父は『仲良くしてくれ』としか言わず、使用人は申し訳なさそうにしつつも『我慢してくださいね』とだけ。〝梨のつぶて〟というやつだった。
それでも、ティミーは努力しようとした。
だけど、ひょっとすると何処かで、継母と義妹を嫌っていたのかもしれない。この無残な人形を見て思う。
だって、この人形を壊したのは、ほかならぬティミーなのだから。
寝覚めの悪い夏の朝。食堂に行くと、義妹がこれを持って泣いていたのだ。夜にティミーが部屋に押し入って壊したのだ、と主張しながら。
ティミーはそんな夜中に義妹の部屋に行った覚えも、それどころか起きた覚えもないのだが、使用人が邸を歩き回るティミーを見かけたらしい。
父に叱られ、継母と義妹になじられ、人形を直せと押し付けられて。
どうすることもできず途方に暮れている間も、ティミーは夜な夜な邸の徘徊を繰り返した、らしい。カーテンは破られ、絵には泥がかけられ、窓は割られ、花瓶が壊れ。やっぱりティミーは覚えていなかったが、実際に壊れた物は見せられたし、何人もの使用人が目撃していたそうだから、まず間違いない。
父は、咎めることはあっても、叱ることはなくなった。
使用人たちは、困りつつティミーを慰めてくれた。どうにかする、と親身にもなってくれた。
継母と義妹は、何も変わらなかった。
ティミーも、何も変わらなかった。
少し療養が必要だ、ということで、お姉ちゃんの家へとやってきて。はじめの不安がまるで嘘だったように、毎日楽しくて、気持ちも落ち着いていたけれども。ドラクロワ伯爵の話を聴いて、ティミーはやはり家が懐かしくなってしまった。
でも、帰る勇気は湧かなかった。
壊れた人形が、笑顔でティミーに訴える。帰ったらお前はまた物を壊す獣になるのだ、と青いガラスの目玉が今も呪いを囁き続けているからだ。
旦那様から聞いた話なのだけれど、とメーガンは前置いた。
「ティミー様のお母上を亡くされたポール様のもとに後妻に入ったケイトリン様は、スタルバーグ家のお生まれだそうで」
スタルバーグ家は、ここ数年飛ぶ鳥を落とす勢いで力を増している家だった。誰もがその活躍を賞賛し、驚嘆し、恐れている。
そんな家といつの間にか関係ができていたなんて、アリエッタは知らなかった。ティミーの父は、仕事の忙しさであまり兄を訪ねてこないからだろうか。
「それもあるかもしれないけれど……ポール様にとっても、ケイトリン様にとっても、再婚だからかも」
特にケイトリンのほうは、離縁されて嫁ぎ先から追い出されているため、スタルバーグ家は醜聞を恐れた可能性がある、とメーガンは語る。だから話題が大きくならないよう、内々で事を進めたのではないか、とも。
「お互い一度は結婚した者同士だし、お子様の年齢も同じで。あちらの家との関係ができるのは、商売をしているポール様にとってメリットが大きかったのでしょうね」
一方ケイトリンも、出戻りの小姑として生家に居座り続けるわけにもいかず、嫁ぎ先を探していた。利害の一致が、今回の婚姻だそうだ。
「ケイトリン様のお人柄の、本当のところは知らないけれど……そういう事情があって、旦那様も、あちらの家の使用人たちも、ケイトリン様には強く出られないみたいなの」
ティミーが夜に邸を徘徊していたのがなまじ本当のことであっただけに、彼が義妹の人形を壊したのか、その真偽を誰も深く追究することもできなかったらしい。後妻と連れ子の主張を受け入れるしかなかったそうだ。ケイトリンの不興を買えば、スタルバーグの不興も買う。下手をすれば、兄の家にまで被害が及ぶ。
「そんなこと……だからって、ティミー様を犠牲にしていい理由にはならないのに」
そう憤ってみせるけれども、アリエッタとて一使用人だ。そういった大人の事情は、分かってしまう。きれいごと、理想論、いろいろ並びたてたところで、人はしがらみから逃れられない。大人になればなおさら、無知や無頓着ではいられない。
人の社会で生きるとは、そういうことだ。反発するのであれば、全てを捨てるほどの覚悟が必要だ。……おそらく、あのドラクロワもそうだったのだろう。彼は幸いにして、姉君がいらっしゃったけれども。
「ポール様は、ティミー様にすべてを捨てさせるつもりなのかしら……」
ティミーの滞在は一月と聞かされていた。だが、このような話を聞いてしまうと、それも怪しい。仮に、本当に滞在が一ヶ月だったとして、その後のティミーはどうするのだろう。自分を虐める継母と義妹の家に帰るのか。
それとも、もっと別の場所に飛ばされてしまうのか。
「毒リンゴを食べさせる継母の手元に、大事な息子を置いておきたくはないでしょう。元気でいてくれるのなら、多少不自由や困難があっても、小人の家で暮らしていてくれるほうがずっと良い」
メーガンは、これが〝避難〟だと思っているようだけれども。果たして本当に、ティミーの父親はそう願っているのだろうか。
そうであれば良い、とアリエッタは祈った。だって、ティミーは帰りたがっているのだから。
再びティミーの部屋へとやってきたキーラは、一応ノックをしたけれども、返事がなかったので勝手に中へと入り込んだ。そうしたら、ティミーはベッドの上に座り込んで、思い詰めた表情でだらりと垂らした手元を見つめていた。気になって覗いてみたら、そこには四肢が千切れた女の子の人形があった。亜麻色の髪と、水色のエプロンドレス。白い袖から先が、シーツの上に転がっている。ドロワーズを履いた脚も、また。
「どうしたの? そのお人形」
何も気付いていない振りをして話し掛けると、ティミーは本当にキーラのことに気付いていなかったらしく、肩が大きく跳ねさせた。振り向いて、目をまん丸にしてキーラを見つめるけれど、声は出ないらしく口をパクパクさせていた。
悪いことをしたかもしれない、と思いながらも、「直さないの?」と次の質問を重ねる。そうすると、ティミーはたちまち沈んだ顔で俯いた。
「どうすれば良いか分からない。それに、直してもきっと許してもらえない」
「でも、このままじゃこの子が可哀想よ。誰かに頼んでみましょう?」
ティミーは視線を彷徨わせた。たぶん、それでも許してもらえないだろうことを気にしているのだろう、とキーラは思う。
でもそれは、人形がバラバラのままであることと、別の話なのではないだろうか。確かに「いらない」と言われる人形は可哀想だけれども。
「受け取ってもらえなかったなら、代わりにあなたが大事にしてあげればいい。なんなら、私が引き取ってもいいわ」
そう、誰かが大事にしてあげれば良いのだ。そうすれば少なくとも人形は可哀想ではなくなる。〝ティミーの悪行〟も、一つは減る。
誰かが大事に、のところで心を動かされたらしく、ティミーはようやく頷いた。二人で相談して、メーガンに頼むことに決める。
今何処かにいるメーガンが戻ってくるのを、キーラはティミーのベッドに腰掛けて待つことにした。近くに座ったからか、ティミーの身体が背中に当たる。少し重い。思わずもたれてしまうほど、ティミーはキーラに甘えている。
「……帰りたい?」
囁くように静かに尋ねると、ティミーは小さく頷いた。
「どうして?」
「だって、あそこは僕の家だから」
生まれた頃からずっと一緒だった物。好きな物。優しい人。何より実母との思い出が、あの家にはあるのだ、とティミーは訴える。
「昔は楽しかったんだ。大好きだったんだ。今は、ちょっとつらいけど……でも、あそこは僕の家だから」
だから帰りたい、と訴えるティミーを見つめながら、キーラの脳裏にはまったく別の光景が浮かんでいた。
墓地で独り泣く、男の子の姿。母親のお墓の前で、『どうして死んじゃったの?』と泣きじゃくっている。誰も男の子を抱きしめない。呼びに来ない。冷たい雨が男の子の小さな身体に打ち付ける。
無論、これはキーラのイメージの中での話。しかし、ティミーは、おそらくその日からずっとそこに居るのだろう。家のことを語るとき『昔は』と付けるのが、その証拠。
誰かが連れ出してあげないといけない。母親の思い出に縋らないと生きていけない世界から、新しい世界へ。
キーラの目に、机の上に置かれた本が目に入った。それは、ドラクロワの〝とっておきの贈り物〟だった。
Day 16. 満月の夜
Day 17. 狼男
Day 18. 呪いの人形
Day 19. 毒リンゴ
Day 20. 墓地




