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知らない君を、愛せたら  作者: 幕神成


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第9話 会えない日

五月上旬、講義を終えて校舎を出たところで、蓮の携帯電話が震えた。大学からのメールだった。


何気なく画面を開き、数歩進んだところで足が止まる。


夏季合同研究プロジェクト。選考結果。


表示されていたのは、「採用」の文字だった。


以前の自分が一度諦めたものを、今回は自分で選び直した。その選択が認められたのだから、本当ならもっと素直に喜んでもよかった。


それなのに、最初に浮かんだのは三週間という長さだった。


夏休みのうち、葵と離れて過ごす時間。


顔を上げると、少し離れたところで葵が美月と話していた。こちらに気づき、笑って手を振る。


蓮は携帯電話を握ったまま二人のほうへ歩いた。


「何?」


葵に聞かれ、黙って画面を見せる。


「受かった」


「何が?」


「研究」


メールを読んだ葵は、本人より先に表情を輝かせた。


「すごい! おめでとう!」


「うん」


けれど蓮の反応を見て、すぐに眉を寄せる。


「何、その顔。嬉しくないの?」


「嬉しいよ」


「じゃあ、もうちょっと嬉しそうにして」


蓮は苦笑して携帯電話を下ろした。


「三週間だから」


意味はすぐ伝わったらしい。葵は呆れたように笑う。


「またそれ?」


「また」


「もう」


そう言いながらも、葵は笑っていた。


けれど、次に口にした言葉はまっすぐだった。


「行ってきて」


蓮が彼女を見る。


「帰ってきたらさ、何したかいっぱい話して」


早く帰ってきて。


寂しくさせないで。


そうではなかった。


行ってきて。


そして、自分の知らない三週間を持って帰ってきて。


蓮はゆっくり頷いた。


「うん」


それから二人の時間は、少しずつ速くなった。


五月中旬、葵が書店に出した推薦カードは一枚から三枚に増え、文章を書くたびに真紀から新しい仕事を任されるようになった。五月下旬になると、蓮も研究プロジェクトの事前説明会へ通い始め、資料を読み、課題を提出し、現地で何を調べるのかを決めていった。


そして六月。


付き合い始めてから初めて、二人は三日続けて顔を合わせなかった。


理由は何一つ特別ではない。蓮に授業がある日に葵は時間が空き、葵がアルバイトを終える頃には蓮が研究の準備をしている。蓮が大学を出る頃には、葵はもう家へ向かっている。


ただ、それだけだった。


連絡は毎日取っている。


けれど内容は少しずつ変わった。


付き合い始めた頃は、『今何してる?』『授業終わった』『会える?』そんな言葉が多かった。


今では、『今日遅くなる』『了解』『お疲れ』だけで終わる日もある。


短くて、少し味気なく見える。


それでも、どちらかが返事を待ちながら不安になることはなかった。


忙しいんだろう。


あとで話せばいい。


そう思えるようになっていた。


会えない日にも、二人の関係はちゃんと続いていた。


六月のある木曜日、ようやく翌日は二人とも予定が空いていることが分かった。


午後、葵から『明日、久しぶりにどっか行かない?』とメッセージが届き、蓮はほとんど一秒で『行く』と返した。


『早。』


『久しぶりだから』


『どこ行く?』


少し考え、


『葵が決めて』


と送る。


『また?』


『俺が決めると変なことになるから』


『まだ神社のこと気にしてるの?』


『少し』


しばらくして、『じゃあ映画』と届いた。


映画館と午後四時の待ち合わせだけを決め、見る作品は当日選ぶことになった。


翌日の午後三時十二分、蓮はまだ研究室にいた。


事前ミーティングは本来なら三時に終わる予定だったが、教授の話は続いている。机の上で携帯電話の画面が光った。


葵から『今出た』。


時計を見る。


四時まで、あと四十八分。


まだ間に合う。


「最後に一つ」


教授の声がして、蓮は携帯電話を伏せた。


三時三十五分。


まだ終わらない。


三時四十三分には新しい資料まで配られ、「ここ、今日中に確認して」と言われた。


そのとき、もう一度携帯電話が震える。


『着いた』


画面を見たまま、蓮は数秒動けなかった。


同じ頃、葵は映画館の入口で上映案内を見ていた。


目当ての映画は四時二十分から。まだ時間はある。


売店へ行き、自分のものと蓮のもの、二つの飲み物を買ったところで携帯電話が震えた。


『ごめん、まだ終わらない』


しばらく見つめてから、


『大丈夫』


と返す。


少し考えて、もう一通。


『待ってる』


四時十分、蓮から『本当にごめん』と届いた。


『まだ間に合う』


そう返した。


けれど四時二十二分、映画は始まった。


葵は一人でロビーに座っていた。隣には二つのカップ。氷が少しずつ溶けている。


新しい通知はない。


怒っているわけではなかった。


研究の準備が忙しいことは知っている。遊んでいて遅れているわけではないことも分かっている。


仕方がない。


頭では、ちゃんと分かっていた。


それでも、少し残念だった。


久しぶりに会えると思っていた。


映画も楽しみにしていた。


葵は空いている隣の椅子に、もう一つの飲み物を置いた。


理解できることと、寂しくないことは、同じではなかった。


午後四時四十一分、蓮はようやく校舎を飛び出し、走りながら葵へ電話をかけた。


数回の呼び出し音のあと、葵が出る。


「もしもし」


「ごめん」


息が切れていた。


「終わった?」


「今」


「そっか」


「今から行く」


電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。


「もういいよ」


蓮の足が自然に遅くなる。


その言葉を知っていた。


あまりにも、よく知っている。


ずっと先の時間で、何度も聞いた。


『もういいよ』


そして多くの場合、そのあとに喧嘩が始まった。


身体が反射的に強張る。


「葵」


「ん?」


「怒ってる?」


「怒ってないよ」


その答えも知っている。


以前なら、ここで聞き返していた。


じゃあ、何でそんな言い方するんだよ。


すると葵も、怒ってないって言ってるでしょ、と返す。少しずつ言葉が強くなり、最初は遅刻の話だったはずなのに、最後にはまったく別のことで傷つけ合う。


蓮は道端で足を止め、一度目を閉じた。


その続きを知っているからこそ、今回は同じ続きを選ばなかった。


「……今、どうしたい?」


電話の向こうが静かになる。


葵は映画館の外へ出て、長椅子に座った。


少し考えてから答える。


「映画はもういい」


「うん」


「でも、せっかく出てきたから……ご飯は食べたい」


蓮の肩から、少しだけ力が抜けた。


「分かった」


「来れる?」


「行く」


「走らなくていいよ」


ちょうどもう一度走り出そうとしていた蓮は、思わず止まった。


「……何で分かった?」


電話の向こうで葵が笑った。


「蓮だから」


通話が切れた。


蓮はその場で少し笑う。


それから、結局走った。


四十分後、駅近くの小さな飲食店へ着くと、額にも首にも汗が滲んでいた。


席で待っていた葵は、顔を見るなり言った。


「走ったでしょ」


「少し」


「嘘」


「……結構」


葵はため息をつき、すぐに水を蓮の前へ押した。


「飲んで」


「ありがとう」


蓮は座って呼吸を整え、それから言った。


「ごめん」


葵は、


「うん」


と答えた。


蓮の手が止まる。


「大丈夫」ではなかった。


以前の葵なら、よく言っていた。


大丈夫。


気にしてない。


仕方ないよ。


けれど今日は、ただ謝罪を受け取った。


「うん」。


それだけだった。


蓮は少し迷ってから聞いた。


「……怒ってる?」


葵はすぐには答えない。


自分の気持ちを確かめるように考えてから、


「ちょっと残念だった」


と言った。


「久しぶりだったから。映画も見たかった」


「うん」


「でも、研究のことなら仕方ないのも分かってる」


「うん」


葵が不思議そうに顔を見る。


「何でずっと“うん”しか言わないの」


蓮は少し笑った。


「ちゃんと聞こうと思って」


葵は一瞬黙り、それから笑った。


「変なの」


「それ、よく言うよな」


「だって変だから」


料理が運ばれ、二人は食べ始めた。


蓮は、自分の事情を並べなかった。


教授の話が長引いた。予定では三時に終わるはずだった。自分にはどうしようもなかった。


全部、本当だった。


けれどそれと同じように、葵が楽しみにしていて、待っていて、残念だったことも本当だった。


どちらか一つを正しいことにしなくてもいい。


しばらくすると、二人の間にはいつもの空気が戻ってきた。


食事の途中、蓮が箸を置いた。


「葵。次から、間に合わないと思った時点で言う」


「うん」


「待たせない」


すると、葵は首を振った。


「それは違う」


「何が?」


葵も箸を置き、まっすぐ蓮を見る。


「待たせることはあるでしょ。私だってあると思う。だから、“待たせない”じゃなくて、ちゃんと言って」


蓮はその言葉を受け止めた。


あまりにも普通のことだった。


それなのに、胸のどこかを軽く叩かれたような気がした。


これまでの自分は、何か失敗するたびに、次は絶対しない、もう心配させない、次は全部自分が何とかする、そんな約束を繰り返してきた。


けれど、誰にもそんなことはできない。


仕事は長引く。予定は変わる。体調を崩すこともある。約束通りにいかない日もある。


大切なのは、二度と失敗しないことではない。


「分かった」


蓮が頷くと、葵も「うん」と答えた。


食事を終えて外へ出る頃には、すっかり夜になっていた。


葵が空を見上げる。


「映画、見れなかったね」


蓮は反射的に、


「ごめ――」


と言いかけた。


葵がこちらを見る。


蓮は止まり、言い直した。


「……次、いつ空いてる?」


葵が笑って携帯電話を取り出す。


二人で予定を見た。


月曜日は蓮が無理。火曜日は葵がバイト。水曜日は蓮が説明会。木曜日は葵が書店の企画。


金曜日。


二人が同時に言った。


「空いてる」


顔を見合わせて笑う。


「じゃあ金曜」


「うん」


次は絶対。


そんな約束はしなかった。


ただ、もう一度会う日を決めた。


翌週金曜日、蓮は約束より二十分早い午後三時四十分には映画館のロビーに着いていた。


三時五十分、携帯電話が震える。


葵から、


『ごめん! 店、ちょっと長引いてる』


と届いた。


蓮は数秒画面を見て、


『了解』


と送り、少し考えて、


『ゆっくりでいいよ』


と続けた。


四時十分、葵が息を切らして走ってきた。


「ごめん!」


蓮は椅子に座ったまま、手にした二枚のチケットを見せる。


葵が足を止めた。


「映画……」


「一本遅らせた」


葵は蓮を見る。


「怒ってない?」


蓮は少し考えた。


そして、


「ちょっと残念だった」


と答えた。


葵は数秒その顔を見つめ、突然笑った。


「真似した」


蓮も笑う。


「使いやすかった」


葵は隣に座った。


「ごめん」


今度は蓮が、


「うん」


と答えた。


二人は顔を見合わせ、また同時に笑った。


映画が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。


「面白かった」


大きく伸びをする葵に、蓮が言う。


「途中、寝てたけど」


「寝てない」


「寝てた」


「目閉じてただけ」


「何分?」


葵は少し考える。


「……十五分くらい」


「それ寝てるだろ」


「違う」


少し歩いたところで、葵が呼んだ。


「蓮」


「ん?」


「こういうの、いいね」


「何が?」


葵は考えながら歩く。


「予定通りじゃなくても」


そして笑った。


「ちゃんと楽しい」


蓮の表情が、ほんの一瞬だけ止まった。


予定通りじゃなくても。


ちゃんと楽しい。


その言葉が、胸の奥へゆっくり沈んでいく。


自分はここへ来てからずっと、人生を「正しい未来」へ戻そうとしていた。


雨の日も。


葵の選択も。


二人の関係も。


どこかに正しい順番があって、それを間違えなければ最後の日を避けられる。


そう思っていた。


けれど今日の映画は、予定通りではなかった。一週間前には見られなかったし、今日だって開始時間を変えた。葵は十五分も寝た。


それでも、楽しかった。


蓮は彼女を見る。


「うん」


そして笑った。


「そうだな」


六月末、書店カフェで葵は真紀と夏休みの企画スケジュールを確認していた。


「この日、外部の打ち合わせあるけど来られる?」


示された日付を見て、葵の指が止まる。


蓮が研究プロジェクトへ出発する前日だった。


以前から、その夜は二人で会おうと決めている。


「何時までですか?」


「たぶん七時くらい」


葵は予定表をもう一度見た。


少し考える。


「行きます」


真紀が確認する。


「大丈夫?」


「はい」


葵はその日付に、新しく「打ち合わせ」と書き加えた。


同じ頃、大学では教授が研究プロジェクト出発前の予定を説明していた。


「前日は夕方に集合。最終説明と荷物確認をするから」


蓮が顔を上げる。


「前日ですか?」


「そう」


日程表を見る。


その夜は葵と会う約束がある。


一瞬だけ黙った。


「分かりました」


教授が気づく。


「何か予定あった?」


以前の蓮なら、ほとんど反射的に「大丈夫です」と答えていたかもしれない。


けれど今回は、


「……ありました」


と正直に言った。


「調整できそう?」


蓮は少し考える。


「聞いてみます」


その夜、二人は電話をした。


そして、ほとんど同時に口を開く。


「ごめん、前日のこと――」


二人とも止まった。


「え?」


また同時だった。


数秒の沈黙のあと、二人で笑う。


「蓮から」


葵に言われ、蓮が説明した。


「前日、夕方集合になった」


「あ」


「何?」


「私も」


葵も書店の打ち合わせについて話した。


電話の向こうが静かになる。


本当なら、三週間離れる前に一番会いたかった夜だった。


それなのに、二人とも別の予定が入った。


残念だった。


たぶん、同じくらい。


けれど、どちらからも「断れない?」という言葉は出なかった。


しばらくして、蓮が先に笑った。


「じゃあ、会えないな」


「……うん」


葵の声にも、少し寂しさが混じっている。


「電話する?」


「終わったら?」


「うん」


「じゃあ、それで」


「それで」


それだけで決まった。


けれど二人とも、すぐには電話を切らなかった。


しばらく、互いの呼吸だけが聞こえていた。


やがて葵が呼ぶ。


「蓮」


「ん?」


「会えなくても」


少しだけ間を置いて、


「好きだからね」


と言った。


蓮は何も言えなかった。


胸の奥で固くなっていたものが、ゆっくりほどけていく。


「……うん。俺も」


通話を終えたあと、蓮は備忘録を開いた。


高橋蓮。


その下には、まだ一行しかない。


俺は、何がしたかった?


少し考え、二行目を書く。


会えないことを、愛されてないことにしない。


蓮は画面をしばらく見つめた。


今回は、消さなかった。


同じ頃、葵も自分の予定表を開いていた。


その日付には以前から、


蓮と会う


と書かれている。


その隣に、今日新しく、


店・打ち合わせ


と加えた。


二つ並んだ文字を見つめる。


少しだけ迷った。


けれど、「蓮と会う」を消さなかった。


代わりに、小さな矢印を一本引き、その先に、


電話


とだけ書いた。


予定は変わった。


会えなくなった。


それでも、好きな人まで予定表から消えたわけではない。


葵は手帳を閉じた。


三週間の別れは、もうすぐそこまで来ている。


そして今度こそ。


蓮には、その先で何が起きるのか――何も分からなかった。

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