第10話 いなくても
七月下旬。夏休みが始まったばかりの朝、まだ人の少ない駅のホームで、蓮は小さなキャリーケースを足元に置き、電光掲示板を見上げていた。
研究プロジェクトの集合時間は早い。昨夜、資料、着替え、充電器、財布と何度も確認したはずなのに、さっきから何度も鞄を開けている。
携帯電話が震えた。
葵からだった。
『起きてる?』
蓮は思わず笑う。
『もう駅』
すぐに、
『早。』
と返ってきた。
『集合早いから』
少しして、
『忘れ物ない?』
蓮は足元の荷物を見る。
正直、自信はない。
『たぶん』
送ると、
『その「たぶん」怖い』
と返ってきた。
蓮は笑いながら『大丈夫』と打ち、そこで指を止めた。
大丈夫。
気づけば、自分はこの言葉をよく使う。説明しなくても済むとき、心配させたくないとき、あるいは自分自身がその先を考えたくないとき。
入力した文字を消す。
『着いたら、もう一回確認する』
『えらい』
「何だよ、それ」
一人で笑ったところへ、列車到着の案内が流れた。
何気なく改札の方向を見る。
誰かが走ってくる気配はない。
もちろん、来るはずもなかった。
昨夜、二人でちゃんと話した。葵は朝から書店の企画準備があり、蓮も早朝に集合しなければならない。見送るために葵が予定を変えることも、葵のために蓮が出発をずらすこともない。
それでいい。
二人で決めたことだった。
それでも、本当に一人でホームに立ってみると、胸の奥にほんの少しだけ空白ができた。
来てほしいとは言わなかった。見送ってほしいとも思っていないつもりだった。
なのに、もし階段の向こうから葵が走ってきたら。
きっと、嬉しかった。
蓮はそんな自分に気づいて、小さく息を吐いた。
列車がホームへ滑り込んでくる。
三週間。
キャリーケースの持ち手を握り直し、乗り込んだ。
窓際の席へ座り、街がゆっくり後ろへ流れ始めた頃、また携帯電話が震えた。
葵から写真が届いていた。
書店の奥にある大きなテーブル。その上にはポスター、色紙、テープ、マーカー、印刷途中らしい案内が積み上がっている。写真の端には誰かの手だけが写っていた。
たぶん藤井だ。
『こっちも始まった』
蓮は、
『頑張って』
と返した。
『蓮も』
数秒後、もう一つ通知が来る。
『帰ってきたら、いっぱい話そう』
蓮の表情がゆっくり緩んだ。
自分が知らない三週間。
葵が知らない三週間。
帰ったら、それを交換する。
『約束』
と送った。
送信してから、一瞬だけ神社の雨を思い出した。
『じゃあ、ずっと。』
以前なら、一つの約束をずっと先まで伸ばしたかもしれない。来年、その次、これからも、ずっと。
けれど葵から返ってきたのは、
『うん』
それだけだった。
蓮はその一文字を見つめる。
今度は何も足さなかった。
帰ったら話す。
今は、それだけでいい。
研究プロジェクト初日。見知らぬ大学の会議室には、いくつもの大学から集まった学生たちが座っていた。教授が資料調査、現地での聞き取り、グループワーク、発表、最終レポートと三週間の予定を説明していく。
思っていた以上に予定は詰まっていた。
蓮が配られた資料を確認していると、横から一枚の紙が差し出される。
「高橋くん?」
顔を上げると、同じ班らしい女子学生が立っていた。
「これ、一枚足りてなかったみたい」
「あ、ありがとう」
受け取ると、彼女は軽く笑った。
「森川奈緒です」
「高橋です。よろしく」
「よろしく」
それだけだった。
何かが始まるような出会いではない。これから三週間、同じ目的で行動する人の一人。
けれど蓮は、ほんの少し不思議な気持ちになった。
藤井という名前を初めて聞いたとき、葵の人生に自分の知らない人が増えたと思った。
今度は、自分の側にも増えていく。
森川奈緒。山田。別の大学の学生たち。教授たち。
葵が見たことのない場所。知らない会話。知らない一日。
自分と葵の人生は、恋人になったあとも同じ一本の道になるわけではない。
それぞれ別の場所で、ちゃんと続いている。
初日の夜、宿舎へ戻った蓮は葵に電話をかけた。呼び出し音は短く、すぐに「もしもし」と声が返ってくる。向こうから街の音が聞こえた。
「終わった?」
「今帰ってる」
「遅いな」
「準備長引いた」
反射的に、
「大丈夫?」
と聞いた。
電話の向こうで一瞬だけ間があり、それから葵が笑った。
「蓮、それすぐ言うね」
蓮も気づく。
「……ごめん」
「謝らなくていい」
「じゃあ」
少し考えて、質問を変えた。
「疲れた?」
今度はすぐに返ってきた。
「疲れた」
あまりにも素直で、蓮は笑う。
葵も続けた。
「でも楽しかった」
「そっか」
それだけで、二人とも少し笑った。
大丈夫?
そう聞かれれば、葵はたぶん「大丈夫」と答える。
けれど、
疲れた?
と聞けば、
疲れた、と言える。
似ているようで、まったく違う質問だった。
「蓮は?」
「俺?」
「楽しかった?」
蓮は机の上を見る。分厚い資料、明日の予定表、まだ馴染まない部屋。
「まだ分かんない」
「大変?」
「結構」
葵が笑う。
「じゃあ、同じだ」
「何が?」
「疲れたけど、ちょっと楽しい」
蓮も笑った。
「確かに」
離れていても、二人の一日は少し似ていた。
五日目になると、最初の頃ほど頻繁には連絡を取らなくなっていた。
朝、蓮が『おはよう』と送る。四十分後に『おはよう。寝坊した』と返ってくる。昼には葵からイベント準備中の写真が届いたが、蓮が見られたのは夕方だった。『すごい』と返すと、今度は葵の返事が二時間来ない。
夜も、蓮のグループは討論を続けていた。途中で携帯電話が一度震えたが、気づいたのは午後十一時二十分だった。
葵から、
『今日、電話できる?』
と届いている。
蓮はすぐ、
『今終わった』
と返した。
数分待っても返事はない。
電話をかける。
出ない。
もう一度かけようとして、時計を見た。
葵は明日の朝も早いはずだ。
指を止める。
以前なら、もう一度かけていたかもしれない。あるいは、どうして出ないのか勝手に理由を探し続けたかもしれない。
蓮は二度目をかけなかった。
『寝た?』
『おやすみ』
そう送って、携帯電話を置いた。
翌朝、目を覚ますと、
『ごめん、寝てた』
と届いていた。
蓮は、
『知ってる』
と返す。
しばらくして、
『怒ってる?』
『何で?』
『電話出なかったから』
蓮は少し考えた。
昔なら、『別に』と返していたかもしれない。
本当は話したかった。
少し寂しかった。
でも、それを言わない。
葵が自分で気づくのを待つ。気づかなければ、もっと不機嫌になる。
そんなことを何度もしていた。
だから今は、
『少し話したかった』
と送った。
すぐに、
『私も』
と返ってくる。
続いて、
『今日、夜なら話せる』
蓮は予定表を見る。
『俺も確認する』
絶対。
必ず。
そういう言葉は使わない。
二人とも自分の予定を確認する。
できるなら、話す。
それでいい。
その夜、ようやくビデオ通話がつながった。画面に映る葵は風呂上がりらしく、髪がまだ濡れている。
「ちゃんと乾かせよ」
葵が呆れた顔をする。
「お母さん?」
「風邪ひく」
「暑いから大丈夫」
蓮が笑う。
「また大丈夫」
葵も気づいて笑った。
「ほんとだ」
「ちゃんと乾かせ」
「あとで」
「今」
「うるさい」
そんなやり取りをして、二人とも笑った。
少しすると、葵が今日の書店の話を始めた。
「今日、結構人来た」
「ほんと?」
「うん。私が紹介した本も売れた」
「すごいじゃん」
「店長が、次もやってみようって」
「いいじゃん」
「あとね」
そこから葵の話は止まらなくなった。
どんな客が来たのか。子どもが本を違う棚へ戻してしまったこと。藤井が展示用の案内を書き間違えたこと。真紀が直前で配置を変えたこと。
そして、自分の推薦カードを読んで一冊の本を手に取った客がいたこと。
蓮は相槌を打ちながら、画面の中で楽しそうに話す葵を見ていた。
たった五日。
自分がいなかった五日間で、葵の中にはもうこれだけの出来事が増えている。
自分は一つも知らなかった。
そして何より、葵はとても楽しそうだった。
「蓮?」
呼ばれて我に返る。
「ん?」
「聞いてる?」
「聞いてる」
葵が疑うような顔をする。
「じゃあ藤井くん、何した?」
「展示の案内書き間違えた」
葵が笑う。
「正解」
蓮も笑った。
そのまま続きを聞こうとすると、今度は葵が言う。
「蓮の話もして」
「俺?」
「うん。私ばっかり話してる」
「別にいいよ」
「よくない」
少し照れたように続けた。
「蓮がいないところで何してるか、私も知りたい」
蓮は黙った。
思っていた以上に嬉しかった。
自分だけが葵の生活を知りたいのだと思っていた。
今日は何をした?
誰と話した?
何が楽しかった?
けれど葵も同じように、自分の知らない蓮を知ろうとしている。
「今日さ、古い商店街行った」
「調査?」
「うん」
そこから少しずつ話した。
森川が記録写真を撮るのに異様に時間をかけること。山田が帰りのバスを間違えそうになったこと。怖そうだと思っていた教授が、全員にアイスコーヒーを買ってくれたこと。
葵は、自分が話していたときと同じようにちゃんと聞いた。
「楽しそう」
「まあまあ」
「写真ないの?」
「あるよ」
蓮は何枚か送った。古い商店街、調査中の風景、最後にグループ全員で撮った一枚。
葵が画面を拡大する。
「この人?」
「誰?」
「さっき言ってた森川さん」
「ああ。うん」
葵は写真を見ながら言った。
「かわいい」
蓮も写真を見る。
「そう?」
葵が目を細めた。
「……そう?」
蓮は一瞬、何が問題なのか分からなかった。
やがて気づき、笑う。
「何」
「別に」
「嬉しそう」
「もしかして嫉妬?」
葵が少し黙った。
「……少し」
蓮の笑顔が大きくなる。
「ちょっと嬉しい」
「最悪」
「藤井のとき、葵も笑ってたじゃん」
「それとこれとは別」
「同じだろ」
「違う」
言いながら、二人とも笑っていた。
藤井がいる。
森川がいる。
相手の知らない人間関係がある。
自分にもある。
少し嫉妬することだってある。
それでも、誰かを好きになることと、相手の世界からほかの人を全部消すことは違う。
そんな当たり前のことが、少しずつ二人の中で普通になっていった。
研究プロジェクト八日目。書店では夏休みの企画が本格的に始まり、葵は朝から客に声をかけ、本を運び、崩れた展示を直し、SNS用の写真を撮った。
夜九時を過ぎ、ようやく店の奥に座り込む。足は重い。
けれど、不思議なくらい気分はよかった。
携帯電話を見ると、午後に蓮から届いたメッセージがある。
『今日、発表うまくいった』
その下には、小さなグループ写真。
葵は笑った。
『お疲れ!』
『こっちも今日すごかった』
続きを書こうとしたところで、店の奥から真紀に呼ばれた。
「水野さん、ちょっといい?」
「はい!」
携帯電話を置き、立ち上がる。
同じ頃、蓮は宿舎の廊下に座り、
『こっちも今日すごかった』
その一文だけを見ていた。
一分。
来ない。
五分。
まだ来ない。
十分経ったところで、一度携帯電話を伏せる。
少しして、また見る。
通知はない。
「何してるんだ、俺」
小さく呟いた。
どうしたの?
何があった?
忙しい?
いくつか文章が浮かんだが、送らなかった。
携帯電話をベッドへ置き、風呂へ向かう。
戻ってくると、通知がいくつも並んでいた。
イベント会場の写真。客が書いた短いコメント。今日売れた本。
そして最後に、
『めっちゃ楽しかった』
蓮はその言葉を見て、自然に笑った。
楽しかったなら、よかった。
本当にそう思った。
それなのに、しばらくすると笑みが少しだけ薄くなった。
翌日の昼、研究の休憩中に建物の外の段差で弁当を食べながら、蓮は何度目か携帯電話を見た。
隣にいた森川が言う。
「彼女?」
「何が?」
「ずっとスマホ見てるから」
蓮は笑う。
「うん」
「遠距離?」
「三週間だけ」
森川が少し驚いた。
「じゃあ、すぐじゃん」
「……そうだな」
三週間。
長いと思っている自分。
三週間だけだと思う人。
たぶん、どちらも間違っていない。
森川は弁当を一口食べ、何でもないことのように言った。
「でも、いいね」
「何が?」
「自分いなくても楽しそうな人」
蓮が顔を上げる。
「それ、いいの?」
「安心じゃん。こっちがいないだけで全部つまんなくなる人より」
それ以上説明する様子もなく、森川はまた昼食を食べ始めた。
深い意味はなさそうだった。
けれど蓮は、すぐには箸を動かせなかった。
その夜、葵から一枚の写真が届いた。
イベント終了後、店の前で撮ったものだった。真紀、藤井、ほかのスタッフ、そして葵。
全員、疲れた顔をしている。
けれど、よく笑っていた。
『今日終わった!』
葵の笑顔を見た瞬間、突然、別の葵が浮かんだ。
もっと大人になった葵。
二人で暮らしていた部屋。
仕事から帰ったばかりの蓮は、ダイニングテーブルでノートパソコンを開いている。
ソファにいた葵が言った。
『今日ね――』
蓮は画面から目を離さず、
『ごめん、あとでいい?』
と答えた。
葵の声が止まる。
少しして、
『……うん』
そのあと、葵が何を話そうとしていたのか、蓮は聞かなかった。
翌日にも。
その次の日にも。
たぶん、二度と。
記憶が途切れた。
蓮は携帯電話の中の写真を見る。
今、若い葵は、自分のいない場所で一つの大切な日を終えた。
そして笑っている。
今度は、ちゃんと知りたいと思った。
何があった?
何が嬉しかった?
どこで失敗した?
誰に何を言われた?
どうしてそんな顔で笑っている?
全部、聞きたい。
けれどその直後、胸の奥から別の感情が出てきた。
自分でも、あまり好きになれないものだった。
――俺がいなくても、こんなに楽しそうなんだ。
そう思った瞬間、蓮自身が一番驚いた。
何で、そんなことを思う?
葵が楽しい。
それはいいことだ。
むしろ自分が望んだはずだった。
好きなものを見つけ、自分の人生を生き、自分とは関係のない場所でも笑えるようになることを。
それなのに心のどこかでは、自分がいない三週間くらい、少し寂しそうにしていてほしいと思っている。
自分を必要としてほしい。
自分がいないことで、何かが足りなくなってほしい。
蓮は長く画面を見た。
それから備忘録を開く。
高橋蓮
その下には、
俺は、何がしたかった?
会えないことを、愛されてないことにしない。
とある。
蓮は二行目をしばらく見つめ、三行目を書いた。
葵が俺なしで楽しいことを、怖がらない。
書き終えると、思わず顔をしかめた。
格好悪い。
こんなことを、わざわざ書かないといけない自分が。
けれど、消さなかった。
これまでなら、この感情そのものを認めなかった。
気にしていない。
大丈夫。
そうやって隠したまま、いつか別の形にして葵へぶつけていたかもしれない。
今回は、まず自分で見る。
そこからでいい。
数日後の夜、ビデオ通話の向こうで葵が聞いた。
「あと十日?」
蓮はすぐ訂正する。
「十一日」
「細かい」
「大事だから」
葵が笑う。
「早く帰ってきて」
蓮は、ほんの一瞬だけ黙った。
この数日、心のどこかでずっと聞きたかった言葉だった。
早く帰ってきて。
会いたい。
寂しい。
あなたが必要。
蓮は少し笑った。
「寂しい?」
「うん」
答えは素直だった。
胸が少しだけ軽くなる。
けれど葵は、すぐに続けた。
「でも、こっちも楽しい」
蓮の笑みが、ほんの一瞬だけ止まる。
葵は気づかずに続けた。
「帰ってきたら、行きたいところある」
「どこ?」
「秘密」
「また?」
「また」
葵が笑い、蓮も笑った。
通話が終わると、部屋が静かになる。
携帯電話を机へ置く。
『早く帰ってきて』
そして、
『こっちも楽しい』
二つの言葉が、どちらも残っている。
会いたい。
でも、会えない今も楽しい。
寂しい。
でも、自分の毎日もちゃんとある。
頭では、それが矛盾ではないと分かる。
ただ、理解できることと、心がすぐ追いつくことは同じではないらしい。
蓮は少し笑った。
それでも今は、逃げずにその両方を見ていようと思った。
それから数日後、夏の企画を終えた書店カフェでは片づけが続いていた。
葵が箱へ本を戻していると、真紀に呼ばれる。
「水野さん」
「はい?」
真紀は一枚の資料を差し出した。
「来月、出版社の人が来るんだけど」
葵の手が止まる。
「出版社?」
「この前の企画を見て、水野さんに少し話を聞いてみたいって」
「私に?」
「うん。学生目線の選書とか、SNSのこととか。どういうふうに考えてやってたのか、興味あるみたい」
葵は紙を受け取り、何度も文字を追った。
驚きと嬉しさが、隠せず顔に出ている。
横を通りかかった藤井が覗き込む。
「すご」
「私、何話せばいいのかな」
「そのままでいいんじゃない?」
「それが一番難しい」
藤井が笑い、真紀も笑った。
けれど葵は、また資料へ目を戻す。
書店で働き始めた。
推薦カードを書いた。
SNSを手伝った。
夏の企画に参加した。
最初は全部、小さな出来事だった。
どれも最初から目標にしていたわけではない。ずっと夢見ていた道でもなければ、少し前までは存在していることすら知らなかった。
それでも今、その小さな選択が一つずつつながり始めている。
「興味ある?」
真紀が聞いた。
葵は顔を上げた。
今度は迷わなかった。
「あります」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
これが将来になるのかは、まだ分からない。
本当に仕事にしたいのかも、分からない。
でも。
今は知りたい。
この先に、何があるのか。
もう少し見てみたい。
蓮がいない三週間のあいだにも、葵の人生は止まらず進んでいた。
そして蓮が帰ってくる頃には――
出発する前には存在しなかった道が、彼女の前に静かに伸び始めていた。




