第11話 知らない君の今日
研究プロジェクト十二日目。朝から厳しい暑さだった。
大学から少し離れた古い商店街で、蓮たちのグループは聞き取り調査を続けていた。日差しを遮る場所は少なく、道路から上がってくる熱気のせいで、立っているだけでも汗が滲む。
「高橋くん、次こっち」
記録用紙を確認していた森川奈緒に呼ばれ、蓮はペットボトルを鞄へ戻した。
「うん」
歩き出したところで、ポケットの携帯電話が一度震えた。
気づいた。
けれど、取り出さなかった。
目の前では、次に話を聞く予定の商店主が待っている。
少しくらいなら。
以前の自分なら、そう思って確認していたかもしれない。
今はそのままにした。
聞き取りが終わったのは、それから三十分ほどあとだった。蓮は木陰へ移動し、水を飲みながらようやく携帯電話を開いた。
葵からだった。
『今日、出版社の人来る』
『ちょっと緊張する』
送信時刻は四十分前。
時計を見る。
もう話が始まっている頃かもしれない。
電話をかけたいと思った。
大丈夫。
頑張って。
緊張しなくていい。
いくつも言葉が浮かんだ。
けれど、蓮は電話のアイコンには触れなかった。
今、葵は自分の知らない場所で、自分の知らない人と、自分にもまだ名前をつけられない未来について話している。
そこへ無理に入っていく必要はない。
蓮は短く、
『終わったら聞かせて』
と打ち、少し考えて、
『頑張って』
と加えた。
送信して携帯電話をしまうと、隣にいた森川がこちらを見ていた。
「彼女?」
「うん」
「大事な日?」
蓮は少し考えた。
「たぶん」
「たぶん?」
森川が笑う。
蓮も少し笑った。
「本人も、まだ何が大事になるか分かってないと思う」
森川は一瞬だけ蓮を見たあと、
「じゃあ、終わったらちゃんと聞いてあげな」
と言った。
「そのつもり」
蓮は水の蓋を閉め、また調査へ戻った。
その頃、東京の書店カフェでは、葵が店の奥にある小さなテーブルで、いつもより少し背筋を伸ばして座っていた。
隣には店長の真紀。向かいにいるのは出版社で編集をしている野村理沙だった。
テーブルには、葵がこれまで書いてきた推薦カードや、店のSNS投稿を印刷したものが並んでいる。
野村が一枚を手に取った。
「これ、水野さんが書いたの?」
「はい」
「文章も全部?」
「はい」
返事が、自分でも分かるくらい硬い。
野村は何枚か目を通してから聞いた。
「大学では何を勉強してるの?」
葵が専攻を答える。
「出版志望?」
「いえ」
ほとんど反射的だった。
そんなこと、今まで考えたことがなかった。
少し前まで、本屋はただ好きな場所の一つだった。本を読むことも文章を書くことも、「将来の夢」と呼ぶようなものではない。
だから、「違います」と答えるのは簡単だった。
けれど葵は、テーブルに置かれた自分の推薦カードへ視線を落とした。
自分で本を選んだ。
言葉を考えた。
それを読んだ誰かが、本を手に取った。
その瞬間が嬉しかった。
SNSに書いた文章へ反応があったときも、夏の企画がうまくいったときも、もう少しやってみたいと思った。
葵は小さく息を吸った。
「……まだ、分からないです」
さっきの答えを言い直した。
野村はそれ以上追及せず、
「そっか」
とだけ答え、鞄から別の資料を取り出してテーブルへ置いた。
「来月、学生向けに小さいイベントをやるんだけど」
「はい」
「興味があったら、手伝ってみる?」
資料が葵の前へ滑ってくる。
すぐには手が伸びなかった。
隣で真紀が笑う。
「水野さん、やってみたら?」
葵は資料に目を落とした。
学生向けの選書、紹介文、当日の進行補助。今まで書店でやってきたことと似ている。
でも、少しだけ違う。
今度は店の外。
出版社の人たちと一緒に仕事をする。
「私でいいんですか?」
葵が聞くと、野村は特別なことを言うようでもなく答えた。
「水野さんだから聞いてる」
その一言で、葵の表情が変わった。
褒められたからではなかった。
誰かが初めて、自分自身も考えたことのない道を、ちゃんと一つの「選択肢」として目の前に置いた。
そのことが、不思議だった。
昼休み、蓮たちは建物の外で弁当を食べていた。山田が「暑い」と何度も繰り返し、森川は午前中に撮った写真を確認している。
蓮は弁当を食べながら、一度だけ携帯電話を見た。
通知はない。
伏せる。
少しすると、また見た。
森川が気づく。
「気になるなら送れば?」
「今、たぶん話してるから。邪魔したくない」
「へえ」
「何」
「我慢できるんだ」
「どういう意味だよ」
「ずっとスマホ見てるから」
蓮は否定しなかった。
気になる。
どうだった?
何を言われた?
嬉しかった?
困っている?
全部、今すぐ知りたい。
けれど、知りたいと思うことと、今すぐ答えをもらうことは違う。
しばらくして、携帯電話が震えた。
葵。
『終わった』
それだけだった。
蓮はすぐに立ち上がった。
「電話?」
森川が顔を上げる。
「ちょっと」
人の少ない場所へ移動し、そのまま電話をかけた。
すぐにつながる。
「もしもし」
「どうだった?」
電話の向こうが静かだった。
蓮は、葵がすぐ話し始めると思っていた。
すごかった。
緊張した。
楽しかった。
そんな言葉を想像していた。
けれど、聞こえてきたのは、
「……分かんない」
だった。
少し心配になる。
「悪かった?」
「違う」
葵はすぐに否定した。
「むしろ、すごくよかった」
「じゃあ、どうした?」
書店の裏口で、葵は小さな段差に座っていた。膝の上には野村から渡された資料がある。
「イベント、手伝わないかって言われた」
蓮の声が明るくなる。
「すごいじゃん」
「うん」
「やりたい?」
葵はすぐには答えなかった。
蓮も急かさない。
長い沈黙のあと、
「……やりたいって思った」
と葵が言った。
自分自身がまだ、その答えに慣れていないような声だった。
蓮は笑った。
「じゃあ、やればいい」
「うん」
けれど、まだ声に迷いが残っている。
「何かある?」
葵は膝の上の資料を指でなぞった。
「私さ」
「うん」
「こういうこと、好きだったんだって、今まで知らなかった」
少し笑う。
「本を選んだり、誰かに紹介したり、文章書いたり。それを読んだ人が、本を買ってくれたり」
短い沈黙。
「何か……知らない自分が急に出てきた感じ」
蓮は、知らない街の木陰に立ってその声を聞いていた。
以前の自分なら、きっとすぐに結論を出した。
いいじゃん。
向いてるよ。
絶対やったほうがいい。
そうやって、本人より先にこの出来事の意味を決めていたかもしれない。
けれど今は、一つだけ聞いた。
「葵は」
「うん?」
「その自分、好き?」
電話の向こうが静かになった。
出版社に向いているか。
将来仕事にできるか。
成功するか。
そういう話ではない。
新しく見つけた自分自身を、自分が好きか。
しばらくして、小さな笑い声がした。
「……うん」
蓮も笑う。
「じゃあ、いいじゃん」
「うん」
今度の返事は、ずっと軽かった。
電話を切る前、今度は葵から聞いた。
「蓮は今日?」
「俺?」
「何してた?」
蓮は午前中の聞き取り調査について話し始めた。
商店街のおじいさんが、一つ質問すると十個くらい話してくれたこと。山田がまた帰りの乗り物を間違えそうになったこと。森川が写真を撮ろうとして道路脇の浅い溝へ片足を落としたこと。
電話の向こうで、葵が声を上げて笑った。
「最低。笑うなよ」
「だって、想像したら」
「本人めちゃくちゃ恥ずかしがってたから」
言いながら蓮も笑っていた。
十数分、二人はそれぞれの今日を交換した。
やがて遠くから、
「高橋くん!」
と呼ばれる。
蓮が振り返った。
「ごめん、戻る」
「うん」
「また夜」
すると葵が少し申し訳なさそうに言った。
「今日、夜は店ある」
蓮はほんの一瞬だけ止まった。
「そっか」
「終わるの、遅いかも」
「じゃあ無理しなくていいよ」
「うん」
何時なら話せる?
絶対連絡して。
終わったら電話して。
そんな約束はしなかった。
最後に、
「頑張って」
と葵が言う。
「葵も」
それだけで電話を切った。
その日の夕方、蓮の側にも小さな出来事があった。
研究プロジェクトの中間報告で、初めて小グループの説明役を任された。
前へ立った瞬間は少し緊張した。資料を持つ手にも力が入る。
けれど話し始めると、少しずつ言葉が出てきた。
自分たちが歩いて見つけたこと。実際に聞いた話。そこから考えたこと。
質問をされても、以前ほど焦らなかった。
途中、教授が一度、小さく頷いた。
それだけで、不思議なくらい落ち着いた。
発表を終えて席へ戻ると、山田が肩を叩く。
「高橋、今日よかったじゃん」
森川も言った。
「意外と話せる」
蓮が顔をしかめる。
「意外って何」
二人が笑った。
そこへ教授がやってくる。
「高橋」
「はい」
「最終発表、前半やってみる?」
蓮は固まった。
「俺がですか?」
「やりたいなら」
その言葉を聞いた瞬間、少し前に葵が店長から言われたことを思い出した。
やりたいなら。
誰かのためではない。
役に立つからでもない。
失敗しないためでもない。
自分がやってみたいのか。
蓮は少しだけ考えた。
「やります」
今度は、自分で選んだ。
午後十時を過ぎた頃、仕事を終えた葵は帰りの電車で、二時間ほど前に蓮から届いていたメッセージを開いた。
『最終発表やることになった』
『ちょっと嬉しい』
葵の表情がすぐに明るくなる。
『すごい!』
『絶対聞きたかった』
送信してから、自分で少し止まった。
聞きたかった。
直接、見たかった。
緊張している蓮を見て、終わった瞬間、一番最初に「お疲れ」と言いたかった。
少し残念だった。
けれど、苦しくはなかった。
今日、自分も蓮の知らない場所で大切なことを経験した。
同じように、蓮も自分のいない場所で大切なものを見つけている。
それは少し寂しくて、同時に少し嬉しかった。
しばらくして、
『帰ったら話す』
と返ってくる。
葵は、
『動画ない?』
と送った。
『本番はまだ』
『じゃあ撮ってもらって』
少し間があり、
『恥ずかしい』
葵は笑う。
『見たい』
今度の返事は少し遅かった。
『分かった』
数日後、葵は出版社で行われる学生向けイベントの最初の準備会へ参加した。
今度は書店ではない。
出版社の小さな会議室だった。
受付で名前を伝え、案内された廊下を歩く。その時点で、少し緊張していた。
会議室には野村のほかに出版社のスタッフが数人、さらにほかの大学から参加した学生もいる。
誰も知らない。
自分だけが場違いな気がした。
「水野さん、ここどうぞ」
野村に案内され、空いている席へ座る。
会議は自己紹介から始まった。
名前。
大学。
参加した理由。
一人ずつ順番に話していく。
自分の番が近づくほど、葵は手元の資料を何度も揃え直した。
そして、
「水野葵です」
一度、息を吸う。
大学での専攻を説明し、そこで少し止まった。
以前なら、それだけで終わったかもしれない。
けれど今日は、
「今、書店でアルバイトをしていて、本を紹介することに興味があります」
と言った。
言い終えた瞬間、自分自身が一番驚いていた。
興味があります。
誰かに言わされたわけではない。
そう答えたほうがいいからでもない。
自分で選んだ言葉だった。
初めて、新しく見つけたものを、自分自身の一部として知らない人たちへ話した。
会議が終わり、参加者たちが帰り支度を始めたところで、野村が呼び止める。
「水野さん」
「はい」
「さっき、よかったよ」
葵は少し困った。
「何がですか?」
野村が笑う。
「自分で『興味がある』って言えたこと」
「……そんなことですか?」
「そういうの、結構大事」
それ以上説明せず、野村は別のスタッフのところへ行った。
葵はその場に残った。
興味がある。
やってみたい。
好きかもしれない。
少し前まで、自分の中にはなかった言葉。
それが今、少しずつ自分の言葉になっている。
研究プロジェクト十六日目の夜、久しぶりに二人は少し長めのビデオ通話をしていた。
葵の机には、出版社の会議でもらった資料が並んでいる。
蓮が画面越しに見る。
「それ、出版社?」
「うん」
「楽しい?」
葵はほとんど迷わなかった。
「楽しい」
答えが、以前よりずっと早い。
蓮は笑った。
「そっか」
今度は葵が聞く。
「蓮は?」
蓮は机の横に積んである最終発表の資料を持ち上げた。
「地獄」
葵が笑う。
「楽しそう」
「どこが」
「顔」
蓮は眉を寄せる。
「疲れてるだけ」
「違う」
葵は首を振り、少し考えてから言った。
「蓮、前より自分の話するようになったよね」
蓮は黙った。
「そう?」
「うん。前は、私のことばっかり聞いてた」
蓮の表情が少し固くなる。
「……悪かった?」
葵はすぐに首を振った。
「違うよ。ただ、今のほうが」
一度、視線を落とす。
「蓮と付き合ってる感じする」
蓮は言葉を失った。
自分はずっと、葵を知ることばかり考えていた。
何が好きか。
何が嫌いか。
どこで傷つくか。
何が変わったか。
見失わないように。
間違えないように。
それが相手を大切にすることだと思っていた。
けれど、葵が恋人になったのは「葵のことをよく知っている人」ではない。
高橋蓮だ。
自分が何を見て、何を考え、何を楽しいと思うのか。
それを何も見せなければ、葵はいったい誰と付き合っているのだろう。
「蓮?」
呼ばれて我に返る。
「何でもない」
葵の眉が上がる。
蓮も一瞬遅れて気づいた。
「あ」
葵が吹き出す。
「また言った」
「……今のは危なかった」
「何考えてたの?」
少し迷う。
今回は、逃げなかった。
「嬉しかった」
と答えた。
葵も笑った。
通話を終えてから、蓮はすぐには眠らなかった。
備忘録を開く。
高橋蓮
その下には、今まで書いた言葉が並んでいる。
俺は、何がしたかった?
会えないことを、愛されてないことにしない。
葵が俺なしで楽しいことを、怖がらない。
蓮は新しい一行を追加した。
最終発表をやりたい。
書き終えた。
少し不思議だった。
教授に言われたからでもない。
就職に役立つからでもない。
葵が喜ぶからでもない。
ただ、自分がやってみたい。
その言葉を見て、小さく笑った。
それから、もう一つの備忘録を開く。
水野葵
以前は、何度も更新していた。
チーズケーキ。
小さな雑貨。
書店。
好きなもの。
知らなかったもの。
記憶と違ったこと。
今なら、出版社、イベント、新しく見つけた興味と、いくらでも書ける。
蓮はしばらく画面を見た。
けれど、何も加えなかった。
そのまま閉じる。
葵の人生は、自分が記録しなくても続く。
次に聞けばいい。
次に会ったとき、また知ればいい。
その頃、葵も自分の部屋へ戻っていた。
財布を開くと、奥から水族館で撮った写真が出てくる。
高橋は横へ逃げている途中で、自分の髪も乱れている。
相変わらず、ひどい写真だ。
見るたびに少し笑ってしまう。
そのとき、携帯電話に新しい写真が届いた。
蓮からだった。
研究グループの集合写真。
蓮は中央近くに立っている。
当然、葵を見てはいない。
葵と一緒でもない。
知らない人たちの中で笑っている。
しかも、かなり楽しそうだった。
葵は写真を少し拡大し、長いこと眺めた。
不思議と、寂しくならなかった。
むしろ、少し嬉しかった。
自分が知らない場所にも、こんな蓮がいる。
写真を保存し、メッセージを送る。
『その顔、好き』
少しして、
『どの』
と返ってきた。
葵は笑う。
『私が知らない時の顔』
送信して、もう一つ。
『ちゃんと楽しそうでよかった』
宿舎でその文章を読んだ蓮は、しばらく動けなかった。
自分は少し前、葵が自分のいない場所で笑っている写真を見て、ほんの一瞬怖くなった。
俺がいなくても、こんなに楽しそうなんだ。
けれど今、葵はほとんど同じものを見ている。
自分がいない場所で、知らない人たちと楽しそうに笑っている蓮。
そして葵は、
よかった。
と言った。
その差が、胸に残った。
蓮は備忘録を開く。
以前書いた言葉。
葵が俺なしで楽しいことを、怖がらない。
その下へ、新しく打つ。
俺がいなくても幸せで、
そこで手が止まった。
少し考え、続きを書いた。
それでも俺を選んでくれるなら、それでいい。
二行を長く見た。
今度は、消さなかった。
翌日、東京。出版社での打ち合わせが終わったあと、野村が葵を呼び止めた。
「水野さん」
「はい」
一枚の資料を渡される。
「まだ先の話なんだけど」
葵が受け取る。
そこには、出版社が秋から募集する学生向け短期インターンについて書かれていた。
「インターン……」
「興味あったら」
野村はそれだけ言った。
応募したほうがいいとも、向いているとも言わない。
何も決めず、資料だけを残して別の仕事へ戻っていった。
葵は一人、その場に残った。
期間。
仕事内容。
応募条件。
勤務地。
今働いている書店より、ずっと遠い。
大学との両立も簡単ではなさそうだった。
最後までゆっくり読み、それから資料を鞄へ入れる。
携帯電話を取り出し、蓮との画面を開いた。
指が入力欄へ触れる。
けれど、何も書かなかった。
隠したいわけではない。
言えないことでもない。
ただ、まだ自分自身がどうしたいのか分からない。
興味はある。
でも、応募したいのかは分からない。
今、誰かに話してしまえば、その瞬間から自分以外の意見が入ってくる。
頑張ればいい。
大変そう。
向いている。
やめたほうがいい。
そして、もしかすると。
蓮なら、自分より先に何かを知っているような顔をするかもしれない。
葵は携帯電話を閉じた。
鞄の中には、インターンの資料。
今はまだ、自分だけが知っている。
それでいいと思った。
誰かを好きになっても、心の中に生まれたばかりの気持ちまで、その瞬間に全部差し出さなくていい。
興味を持ったこと。
怖いこと。
やってみたいかもしれないこと。
それが本当に自分の気持ちなのかどうか。
もう少しだけ、一人で考えてみたい。
そして遠く離れた場所にいる蓮は、まだ知らない。
葵の未来に、自分の記憶にはなかった新しい扉が――
静かに、開き始めていることを。




