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知らない君を、愛せたら  作者: 幕神成


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12/14

第12話 帰ってきた君

研究プロジェクト最後日の午前、会場の前方に立った蓮は、スクリーンに映された資料を一度だけ確認した。


目の前には教授たち、他大学の学生、そして三週間の調査に協力してくれた地域の人たちがいる。


三週間前なら、この人数を見ただけで喉が乾いていたと思う。


今日も、もちろん緊張していた。


けれど、逃げたいとは思わなかった。


手元の原稿を見なくても、次に何を話すべきか分かる。ここに書かれているのは、誰かから渡された答えではない。この三週間、自分たちで歩き、聞き、考えてきたことだった。


「では、次に――」


蓮は説明を続けた。


途中、一度だけ言葉が止まった。以前なら頭が真っ白になっていたかもしれないが、今日は慌てなかった。少し考え、自分の言葉で言い直す。


前列の一人が頷いた。


教授も黙ってこちらを見ている。


それだけで十分だった。


「以上です。ありがとうございました」


最後まで話し、頭を下げる。一拍遅れて拍手が聞こえた瞬間、ようやく肩から力が抜けた。


席へ戻る途中、森川が軽く肩を叩いた。


「よかったじゃん」


「ありがとう」


山田も横から笑う。


「高橋、最初より全然しゃべれるようになったな」


「最初どんだけひどかったんだよ」


「結構」


「お前な」


森川が吹き出した。


三人で笑っているところへ教授が歩いてきた。


「高橋」


「はい」


「お疲れ」


蓮は少しだけ姿勢を正した。


教授は会場を見渡し、何でもないことのように聞く。


「来てよかっただろ」


蓮はすぐには答えなかった。


三週間前、東京を離れた朝。一人で立っていたホーム。葵が見送りに来ないことを頭では納得しているのに、少し寂しかったこと。


初日の知らない会議室。知らない学生たち。最初の聞き取りで、用意した質問がうまく出てこなかったこと。夜遅くまで資料を直したこと。


山田のくだらない失敗。


森川との会話。


葵にはまだ話していない出来事。


自分しか知らない三週間。


そして今日、自分から「やりたい」と言った発表。


蓮は笑った。


「はい」


少し間を置いて、もう一度言う。


「来てよかったです」


今度は迷わなかった。


すべての発表が終わってから、蓮はようやく携帯電話を取り出した。いくつか並んだ通知の中に、一時間ほど前の葵からのメッセージがある。


『発表、頑張って』

『終わったら連絡して』


蓮は画面を見て笑い、


『終わった』


と送った。


ほとんど間を置かず既読がつく。


『どうだった?』


指が止まった。


以前なら、『まあまあ』だけで終わっていたと思う。


緊張したことも、途中で言葉が詰まったことも、終わった瞬間、思っていた以上に嬉しかったことも、わざわざ言わなくていいと思っていた。


けれど今日は、


『緊張したけど、楽しかった』

『やってよかった』


と送った。


葵からすぐに、


『よかった』

『早く聞きたい』


と返ってくる。


蓮の口元が緩んだ。


『今日帰る』


『知ってる』


少し迷ったあと、


『会う?』


と送る。


今回は、すぐには返事が来なかった。


一分。


二分。


少し前なら、それだけでも意味を探していたかもしれない。


忙しい?


会いたくない?


何かあった?


けれど蓮は、携帯電話を握ったまま待たなかった。荷物を片づけ、机の資料をまとめ、森川に借りていたペンを返す。山田と帰りの時間を確認しているところで、携帯電話が震えた。


『会いたい』


蓮はその言葉を見て、しばらく一人で笑っていた。


夕方、東京へ戻った列車から降りると、駅は人で溢れていた。三週間前の早朝とはまるで違う。


蓮はキャリーケースを引きながら人の流れの中を歩いた。目だけはずっと周囲を探している。


柱の近く。


改札前。


階段のそば。


いない。


歩調が少し遅くなる。


まだ来ていないのか。


そう思ったところで携帯電話が震えた。


『後ろ』


蓮は立ち止まり、振り返る。


人の流れの向こう側に、葵がいた。


走ってくるわけでも、大きく手を振るわけでもない。


少し離れたところに立って、こちらを見ている。


そして笑った。


蓮も何も言わずに笑った。


三週間。


ほとんど毎日連絡していた。声も聞いた。画面越しに顔も見た。


それなのに、実際に目の前にいる葵は少しだけ違って見える。


髪がほんの少し伸びたような気がした。服のせいかもしれない。表情も、出発前より少し大人びて見える。


本当に変わったのか、ただ三週間ぶりだからそう見えるだけなのか。


分からない。


けれど、その「分からない」が嫌ではなかった。


人の流れが途切れ、二人は同じタイミングで歩き出した。


少しずつ距離が縮まる。


目の前まで来ると、なぜか二人とも黙った。


電話ではあれほど話していたのに、今は最初に何を言えばいいのか分からない。


葵が少しだけ笑った。


「……おかえり」


その一言で、蓮の胸の奥が強く動いた。


「ただいま」


あまりにも普通の言葉だった。


だからこそ、目の奥が少し熱くなる。


葵はすぐに気づいた。


「泣く?」


「泣かない」


「今ちょっと危なかった」


「気のせい」


葵が笑った。


そして次の瞬間、一歩近づいて蓮を抱きしめた。


蓮の身体が止まる。


付き合い始めてから手をつないだことはある。肩を貸したことも、すぐ隣に座ったこともある。


けれど、こんなふうに長く抱き合うのは初めてだった。


少なくとも、今の二人にとっては。


蓮の中には、別の抱擁の記憶がいくつもある。


もっと大人になった葵。


二人で暮らしていた部屋。


旅行先。


喧嘩のあと。


眠る前。


でも今は、それを探さなかった。


目の前の葵が、今、自分を抱きしめている。


それだけでよかった。


蓮はゆっくり腕を上げ、葵の背中へ回した。


駅のアナウンス。キャリーケースの車輪。人の話し声。


周囲は何も変わらず動き続けている。


それでも、二人の間だけ少し時間が止まったようだった。


しばらくして、葵が先に離れた。


少し恥ずかしそうに視線を逸らす。


「……行こ」


「うん」


二人で駅を出た。


キャリーケースを引く蓮の横で、葵は何度か彼の顔を見る。


「何?」


「痩せた?」


「たぶん」


「ちゃんと食べてた?」


「食べてた」


葵は即座に言った。


「嘘」


蓮が笑う。


「何で分かるの」


葵も笑った。


「顔」


「最近それ多くない?」


「分かるようになってきた」


蓮の歩みが、ほんの少しゆっくりになる。


分かるようになってきた。


最初から知っていた、ではない。


誰よりも知っている、でもない。


今の自分を見ながら、少しずつ分かるようになってきた。


「そっか」


それだけ答えた。


なのに、さっきの「会いたい」より、その一言のほうが少し嬉しかった。


夕食は駅近くの小さな店に入った。


思い出の場所ではない。昔二人で来たことがある店でもない。予約もしていない。


駅を出たところで葵が、


「ここ空いてる」


と言っただけだった。


料理と飲み物が来て、一口飲んだところで葵がテーブル越しに言う。


「で?」


「何」


「三週間」


「うん?」


「全部話して」


蓮が笑った。


「全部?」


「全部」


「長いよ」


「いいよ」


「三週間だぞ」


「知ってる」


葵は頬杖をついた。


「聞く」


蓮は話し始めた。


初日、思った以上に知らない人ばかりで落ち着かなかったこと。最初の聞き取りでは質問を用意していたのに、相手を前にしたら何を聞けばいいのか分からなくなったこと。山田が二度も帰りの交通手段を間違えかけたこと。森川が写真に時間をかけすぎて教授に置いていかれそうになったこと。


全員が疲れ切った日に、教授が突然アイスコーヒーを買ってきたこと。夜遅くまで報告書を直したこと。中間発表で思った以上に話せたこと。


そして最後の発表を、自分からやってみたいと思ったこと。


途中で葵が口を挟んだ。


「その話、聞いてない」


蓮が止まる。


「どれ?」


「最初のインタビュー失敗したやつ」


「言ってなかった?」


「聞いてない」


蓮は少し考え、笑った。


「じゃあ今聞いた」


葵も一瞬止まったあと、


「うん」


と笑った。


どうしてあのとき言ってくれなかったの。


何で全部話してくれなかったの。


そんな言葉は出なかった。


話していなかった出来事がある。


だから今日、初めて聞いた。


ただそれだけだった。


今度は蓮が聞く。


「葵は?」


葵も自分の三週間を話し始めた。


書店のイベント。予想以上にたくさん客が来た日。自分が薦めた本が売れたこと。SNSの文章を見て店へ来てくれた人。出版社から野村という編集者が来たこと。学生向けイベントへ呼ばれたこと。


そして出版社の会議室で、知らない人たちを前に初めて、


「本を紹介することに興味があります」


と言えたこと。


蓮は途中で口を挟まず聞いた。


最後まで聞いてから、


「すごいじゃん」


と言う。


葵が少し照れた。


「自分でもびっくりした」


「何が?」


「そういうこと、自分で言えたの」


指先で、テーブルに落ちた水滴をなぞる。


「前だったら、たぶん『まだ分かりません』で終わってた」


「今は?」


葵は少し笑った。


「分からないけど」


そして今回は迷わず、


「興味ある、とは言える」


と答えた。


蓮は頷いた。


「それでいいんじゃない」


「うん」


そのとき、葵の手が無意識に鞄へ触れた。


中には、出版社から渡された学生向けインターンの資料が入っている。


蓮は気づかなかった。


葵は一瞬だけ迷った。


今なら話せる。


そう思った。


けれど、手を離した。


まだ、自分の中で答えが出ていない。


今日は、話せなかった三週間を交換する日だ。


まだ言葉にさえなっていないものまで、無理に差し出す必要はない。


葵はそのまま、別の話を続けた。


食事のあと、二人はすぐ駅へ戻らず、少し遠回りして歩いた。


夏の夜。


昼間の熱が、まだ道路に残っている。


コンビニの前を通り、静かな住宅街へ入ったところで葵が呼んだ。


「蓮」


「ん?」


「三週間、どうだった?」


蓮が笑う。


「今ずっと話したじゃん」


「そうじゃなくて」


葵は少し言葉を探した。


「私いなくて」


蓮の表情が変わった。


意味はすぐ分かった。


自分も少し前、葵が自分なしで楽しそうにしている写真を見て怖くなった。


だからこそ今は、正直に答えた。


「寂しかった」


葵が頷く。


「うん」


「会いたかった」


「うん」


蓮は少しだけ笑った。


「でも」


葵を見る。


「楽しかった」


葵の目が少し大きくなる。


蓮は、自分でも確かめるように続けた。


「葵がいないところでも、俺、ちゃんと楽しかった」


言ってから、ほんの少しだけ不安になった。


「嫌?」


葵はほとんど反射的に首を振る。


「全然」


むしろ嬉しそうに笑った。


「それ、聞きたかった」


「何で?」


葵は少し考え、当たり前のことのように言った。


「だって、私がいないと何も楽しくないって言われたら、重い」


蓮は一瞬固まり、そのあと笑った。


「確かに」


葵も笑う。


「私も楽しかった」


「知ってる」


「何、その言い方」


「写真で分かる」


「また人の顔で判断してる」


「葵が先だろ」


二人で笑った。


自分がいなくても、相手は笑える。何かを好きになれる。一日を自分のものとして過ごせる。


それでも今、二人はこうして並んで歩いている。


赤信号で止まる。


葵は前を向いたまま、


「でも」


と言った。


「ん?」


少し間があった。


「帰ってきて嬉しい」


蓮は横顔を見る。


葵は少しだけ恥ずかしそうだった。


「俺も」


「何が?」


「帰ってきて嬉しい」


葵が吹き出す。


「自分が?」


「うん」


「変なの」


信号が青になる。


二人は歩き出した。


蓮の手が自然に葵の手へ触れる。


以前なら、こういう瞬間にも昔の記憶を探していたかもしれない。


初めて手をつないだ日。


何度目かのデート。


今と同じだったか。


違っていたか。


でも今日は、何も探さなかった。


ただ、手をつないだ。


葵も離さなかった。


研究プロジェクトが終わってからも、二人が急に毎日会えるようになったわけではなかった。蓮は報告書や研究の後処理で大学へ行くことがあり、葵も書店と出版社の企画で忙しい。


昼食だけの日。


駅まで十分だけ一緒に歩く日。


大学で偶然会って、五分話すだけの日。


それでも、どちらも「足りない」とは言わなかった。


ある午後、蓮が構内を歩いていると、長椅子に一人で座る葵を見つけた。何か資料を読んでいる。


近づくと、葵が気づいた。


その瞬間、手にしていた資料を閉じた。


ごく小さな動作だった。


でも蓮には見えた。


「何見てた?」


葵が顔を上げる。


「ん?」


「今の」


蓮の視線が閉じられた資料へ落ちる。


葵もそれを見た。


少しだけ考えてから、


「まだいい」


と言った。


蓮が止まる。


「……まだ?」


葵は頷いた。


悪いことを隠しているような顔ではない。困っている様子でもない。


ただ、いつもの声で言った。


「ちゃんと決まったら話す」


蓮はすぐには答えなかった。


小さな違和感が胸に生まれる。


何の資料?


出版社?


藤井?


仕事?


自分に関係がある?


いくつもの質問が浮かぶ。


以前なら、そのどれかをそのまま口にしていた。


恋人なのに、どうして言えない?


何か困っているなら一緒に考えればいい。


そう言ったかもしれない。


でも葵は、「話さない」と言ったわけではない。


ただ。


まだ。


蓮は小さく息を吐いた。


「分かった」


今度は葵が意外そうな顔をした。


「聞かないの?」


蓮が少し笑う。


「聞いてほしい?」


葵は考えて、首を振った。


「まだ」


「じゃあ聞かない」


葵はしばらく彼を見た。


そして、ゆっくり笑った。


「ありがとう」


資料を鞄へしまい、少し話をしてから次の予定へ向かった。


一人になった蓮は、さっきまで葵が座っていた長椅子へ腰を下ろした。


気にならないわけではない。


むしろ、かなり気になる。


自分の知らない何かを、葵は一人で考えている。


今の自分には何もできない。


携帯電話を取り出す。


美月に聞こうと思えば、何か知っているかもしれない。書店へ行けば手がかりはあるかもしれない。次に会ったとき、もう一度聞くこともできる。


知ろうと思えば、方法はいくらでもある。


蓮は画面を開いた。


けれど、誰にも連絡しなかった。


代わりに、自分の備忘録を開く。


高橋蓮


そこには、これまで自分で書いてきた言葉がある。


会えないことを、愛されてないことにしない。

葵が俺なしで楽しいことを、怖がらない。

俺がいなくても幸せで、それでも俺を選んでくれるなら、それでいい。


蓮は少し眺め、それから新しく書いた。


知らされてないことを、隠されてることにしない。


入力。


保存。


文字にすれば簡単だった。


実際にやるのは、かなり難しい。


それでも、消さなかった。


その頃、書店カフェの休憩時間に、葵はさっき閉じた資料をもう一度広げていた。


出版社の学生向け短期インターン。


勤務日。


仕事内容。


応募条件。


何度読んでも文字は同じなのに、読むたびに少しずつ意味が変わる。


真紀が隣へ座った。


「考えた?」


「まだです」


「そっか」


真紀は飲み物を一口飲み、何気なく聞いた。


「彼氏には相談した?」


「まだ」


真紀は特に驚かなかった。


「先に自分で決めたい?」


葵はすぐには答えなかった。


少し考えてから、


「はい」


と頷く。


そして、自分の気持ちを確かめるように言った。


「相談する前に、自分がどうしたいかくらいは決めたいです」


誰かに背中を押されてから「やりたい」と思うのではなく、誰かが嫌がるから「やめる」のでもない。


最初に知りたい。


自分はどうしたいのか。


真紀は笑った。


「いいと思う」


それ以上は何も言わなかった。


葵はペンを取り、資料の余白に少し迷って書いた。


やってみたい。


その文字を長いこと見た。


「やりたい」ほど、まだ強くはない。


怖い。


本当に向いているのかも分からない。


でも今の自分には、その言葉が一番近かった。


夜、蓮が研究プロジェクトの資料を整理していると、携帯電話が震えた。


葵からだった。


『明日会える?』


蓮はすぐ、


『会える』


と返す。


続いて、


『話したいことある』


蓮の手が止まった。


今日、葵が閉じた資料。


たぶん、それだ。


心臓が少し速くなる。


『何?』


と入力する。


数秒見つめ、全部消した。


代わりに、


『分かった』


と送る。


葵から、


『ちょっと緊張する』


と届く。


以前なら、


大丈夫。


何でも聞くよ。


そう返していたかもしれない。


今は、


『ちゃんと聞く』


とだけ送った。


少しして、


『うん』


と返ってきた。


翌日の夕方、大学近くの小さな公園では、木陰の長椅子に葵が先に座っていた。夏休み中だからか、人は少ない。


膝の上には、例の資料がある。


蓮が近づく。


「待った?」


葵が少し笑う。


「今来た」


蓮も笑った。


「本当?」


「今日は本当」


「そっか」


隣に座る。


蓮は、すぐには資料を見なかった。


葵が自分から話し始めるのを待つ。


しばらくして、


「昨日言ってた話」


「うん」


葵が資料を差し出した。


蓮は受け取る。


学生向け短期インターンシップ。


出版社名。


活動期間。


仕事内容。


勤務地。


一枚ずつページをめくる。


葵は黙って待っている。


蓮の表情が少しずつ真剣になった。


この資料に、記憶はない。


葵がこんなインターンを受けたことも。


少なくとも、自分が知る大学時代の葵には存在しなかった。


記憶の中の葵は、卒業後、出版とは別の業界へ就職した。


そして社会人になってから、蓮の仕事、葵の仕事、残業、休日、将来、生活時間が少しずつずれ始める。それと同じ頃から、二人の関係にも小さなすれ違いが増えていった。


もし葵がこのインターンへ行けば。


出版社への興味が強くなれば。


就職先まで変われば。


未来は、もっと大きく形を失う。


どこで忙しくなるのか。


誰と出会うのか。


どこへ就職するのか。


二人がどんな暮らしをするのか。


何一つ分からなくなる。


「蓮」


葵に呼ばれ、顔を上げる。


「どう思う?」


その瞬間、ほとんど反射的に一つの言葉が浮かんだ。


行かないで。


ここから先は、もう知らない。


怖い。


もしまったく違う未来になり、またどこかで葵を失ったら。


今度は何が原因だったのかさえ分からない。


自分は、最後の日を変えたくてここにいる。


なら、知っている未来をできるだけ残したほうが安全なのではないか。


蓮の指が、資料を少し強く握った。


けれど。


目の前には、今の葵がいる。


自分の答えを待っている。


いや。


本当に待っているのは、許可ではない。


蓮にはもう分かっていた。


葵自身の中には、すでに少しずつ答えが生まれている。


だから、最初に聞くべきことは一つしかなかった。


「葵は」


彼女が見る。


蓮はゆっくり聞いた。


「やりたい?」


短い沈黙。


風が木々を抜け、資料の端を揺らした。


葵は蓮を見ている。


以前のように相手の顔色を探してはいなかった。


少し緊張している。


それでも、自分で頷いた。


「……うん」


そして今度は、はっきりと言った。


「やってみたい」


蓮は、すぐには何も言えなかった。


手の中で、資料だけが小さく音を立てる。


目の前には、自分の知らない未来がある。


そこへ葵は、自分の意思で歩こうとしている。


そして蓮も、このとき初めて本当の意味で選ばなければならなかった。


未来を知っている自分を信じるのか。


それとも――


今、目の前で「やってみたい」と言った葵を信じるのか。

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