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知らない君を、愛せたら  作者: 幕神成


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第13話 君の未来

「……うん」


葵は一度だけ息を吸い、蓮を見たまま言った。


「やってみたい」


公園の木々を抜けた風が、蓮の手にある資料の端を揺らした。


蓮はすぐには答えず、もう一度表紙へ目を落とす。


学生向け短期インターンシップ。


秋から始まり、週に数回。授業のある平日も含まれている。


大学。


書店。


出版社。


すべてを続けるなら、葵は今より確実に忙しくなる。通う時間も増え、会える時間だって減るかもしれない。


けれど、蓮が本当に怖いのはそこではなかった。


この先を、自分は知らない。


それだけだった。


「蓮?」


呼ばれて、ようやく顔を上げる。


「うん」


「どう思う?」


もう一度聞かれた。


何かまともなことを言わなければ、と蓮は思った。


普通の恋人なら考えるようなこと。


時間。


体力。


授業との両立。


通う距離。


そういう現実的な話なら、いくらでもできる。


「大変だと思う」


葵は頷いた。


「うん」


「学校もあるし」


「うん」


「書店も」


「そっちは減らすかもしれない」


蓮が顔を上げた。


また一つ、自分の知らないところで未来が変わる。


葵は続けた。


「店長とも相談してみる」


「……そっか」


そこで会話が止まった。


葵は待っていた。


反対なら反対と言えばいい。


心配なら、何を心配しているのか言えばいい。


けれど蓮は資料を見たまま黙っている。


沈黙が長くなり、先に耐えられなくなったのは葵だった。


「反対?」


蓮はすぐ顔を上げる。


「違う」


答えだけは早かった。


「じゃあ何?」


口を開いた。


けれど、言葉が出なかった。


本当の理由なら一つしかない。


分からないから。


この道の先に何があるのか。


誰と出会うのか。


どこへ就職するのか。


その頃、自分たちはどんな二人になっているのか。


何も分からない。


本来なら、それこそが普通だったはずだ。


未来なんて誰にも分からない。


だから、そのときになって考える。


失敗したらやり直す。


そうやって人は生きている。


けれど蓮だけは、一度「知っている未来」を持ってしまった。


そのせいで、知らないということが怖くなっている。


「……心配なだけ」


ようやく言った。


「何が?」


蓮は答えに詰まる。


「忙しくなること?」


「それも」


「通うの大変そうだから?」


「……それも」


葵はしばらく彼を見た。


「ほかは?」


蓮の指が、資料の端を少し強くつまむ。


「……分かんない」


葵の表情がゆっくり変わった。


怒ってはいない。


ただ、少し困ったような顔をした。


これまでにも何度か見た。


高橋蓮という人の中に、自分からは見えない何かがある。


そう感じたときの顔だった。


「蓮」


「ん?」


「私が何か新しいこと始めると、たまにそういう顔するよね」


蓮は黙った。


「バイト始めた時も」


「……うん」


「藤井くんのこと知った時も」


「うん」


「出版社の話した時も」


否定できなかった。


葵は少し首を傾ける。


「最初は、嫌なのかなって思った」


「嫌じゃない」


蓮はすぐに言った。


「うん。最近は分かる」


葵は一度考え、彼を見る。


「嫌っていうより……怖そう」


資料が手の中で小さく鳴った。


その言葉は、驚くほど正確だった。


嫌ではない。


本当に。


新しいことを楽しむ葵が嫌なのではない。自分の知らない人たちと出会うことが気に入らないわけでもない。


ただ、怖い。


「何が怖いの?」


葵が聞く。


蓮は答えなかった。


答えられるはずもない。


君がいつか、自分の前からいなくなることを知っている。


その未来を変えたくて、もう一度ここへ来た。


どこで間違えたのかを探して、同じことをしなければ、今度こそ最後まで一緒にいられると思っていた。


けれど、一つ変えるたびに未来は知らない形へ変わっていく。


もう、何を避ければいいのかさえ分からない。


そんなことを、目の前の葵に言えるはずがなかった。


長く考えてから、蓮は別の言葉を選んだ。


「……失敗したらって思う」


葵が瞬きをする。


「失敗?」


「うん」


「このインターン?」


蓮は頷いた。


すると葵は、意外なほど簡単に答えた。


「失敗するかもよ」


蓮が顔を上げる。


「思ってたのと違うかもしれないし、向いてないかもしれない。途中で嫌になるかもしれない」


葵は一度資料を見てから、蓮へ視線を戻した。


「でも、それってやらない理由になる?」


蓮は何も言えなかった。


葵は膝の上に両手を置く。


「私、出版社で働きたいって決めたわけじゃないよ。向いてるかも分からない」


「うん」


「だから、行ってみたい」


「確かめたい?」


葵は頷いた。


「自分が何を好きなのか」


その答えだけは、否定できなかった。


蓮自身も、同じことを始めたばかりだった。


以前は諦めた研究プロジェクトへ行った。


発表をした。


何をしたいのか分からない自分のために、初めて選択をした。


俺は、何がしたかった?


備忘録にまで書いた。


自分には、それを探す権利があると思った。


なら。


どうして葵には、その権利がないと言えるのだろう。


「……ごめん」


蓮が言うと、葵の眉が少し動いた。


「また謝る」


「あ」


蓮は苦笑した。


「……そうだった」


葵も少し呆れたように笑う。


「謝る前に言って」


「何を?」


「蓮がどう思ってるか」


蓮は葵を見た。


どう思っているのか。


正しいとか、間違っているとか、心配だとか、未来がどうなるとか。


そういう言葉ではなく。


今の自分が、何を感じているのか。


考える。


そして、


「寂しいと思う」


と言った。


葵が少し驚く。


「寂しい?」


「今より会えなくなるだろ」


「……うん」


「葵の知らない人も増える」


葵は黙って頷く。


「俺の知らないことも増える」


「うん」


蓮は一度息を吐いた。


ここから先は、少し格好悪い。


けれど今回は、それを「心配」という言葉の中へ隠さなかった。


「たぶん、それが怖い」


葵の表情が、ゆっくり柔らかくなった。


ようやく、彼女にも分かる言葉になったらしい。


「そっか」


「うん」


しばらくして、今度は葵が言った。


「私も怖いよ」


蓮が驚く。


「え?」


「新しいところ行くの。知らない人ばっかりだし」


葵は少し笑い、指先を合わせる。


「失敗するかもしれないし、私だけ全然できなかったら嫌だし」


蓮はほとんど反射的に、


「じゃあ――」


と言いかけた。


そこで止まった。


自分の言葉の続きを、自分で聞いた。


じゃあ、行かなければいい。


一瞬前まで、本当にそう言おうとしていた。


蓮は口を閉じる。


葵も気づいたらしい。


数秒の沈黙のあと、突然笑った。


「今、行くなって言おうとした?」


蓮は隠せなかった。


自分でも少し笑ってしまう。


「……ちょっと」


「最低」


「ごめ――」


葵がじろりと見る。


蓮は慌てて止めた。


「……言わない」


葵が吹き出し、蓮も笑った。


さっきまで張っていた空気が、少しだけほどける。


怖い。


それでも行きたい。


寂しい。


それでも止めたくない。


どちらか一つだけを正しい気持ちにしなくてもいいのかもしれない。


蓮はもう一度資料を開いた。


「締切いつ?」


「来週」


「面接ある?」


「書類通ったら」


「志望理由とか書くの?」


「うん」


「もう書いた?」


葵は首を振る。


「まだ」


蓮は少し考えた。


「手伝おうか?」


葵の表情が、ほんのわずかに止まった。


それを見て、蓮も気づく。


「……書くんじゃなくて」


葵を見る。


「読んでって言われたら読む。葵が、見てほしいって思ったら」


葵はしばらく彼を見たあと、小さく笑った。


「うん。じゃあ、その時お願いする」


「分かった」


二人は公園を出た。


夕方だった空は、少しずつ夜へ向かっている。


駅までの道では、もう普通の話をした。授業。書店。研究報告。途中で見かけた変な看板。どうでもいいこと。


しばらくして、何の前触れもなく葵が呼んだ。


「蓮」


「ん?」


「もし私が変わったら、どうする?」


蓮の歩調が少し遅くなる。


「どういう意味?」


「分かんないけど」


葵も上手く説明できないらしい。


前を向いたまま続ける。


「好きなものが変わったり、やりたい仕事が変わったり、会う人も変わって……今の私と全然違う人になったら」


蓮はすぐには答えられなかった。


頭に浮かんだのは、大人になった葵だった。


大学生の今とは違う服。


仕事帰りの疲れた顔。


同じ部屋で暮らしていた日々。


そして、最後の日。


玄関。


スーツケース。


赤くなった目。


過去の自分は、何度思っただろう。


葵は変わった。


昔はもっと笑っていた。


昔はこんなことを言わなかった。


昔の葵なら、自分を置いていかなかった。


けれど今になって考える。


問題は、葵が変わったことだったのだろうか。


それとも、変わった葵を自分が昔の形へ戻そうとし続けたことだったのか。


「全部変わる?」


蓮が聞く。


葵は笑った。


「例えば」


「そっか」


蓮も少し笑い、しばらく考えてから歩みを止めた。


「じゃあ」


葵も振り返る。


「その時、また知ればいいんじゃない」


葵の足が止まる。


「今だって、知らないこと多いし。もっと先なんて、もっと分かんない」


その瞬間、蓮自身には何が起きたのか分からなかった。


ただ、葵の顔から笑みが消えた。


「……もっと先?」


胸の奥が一気に冷えた。


しまった。


どうして、あんな言い方をした。


まるで、自分だけがその先に何かを見ているような。


「例えば」


蓮は少し早口になった。


「卒業したあととか、もっと大人になってからとか」


葵は黙って彼を見る。


一秒。


二秒。


「……そっか」


それだけ言って、また歩き始めた。


追及はしなかった。


何か知ってるの。


どうしてそんな言い方するの。


そんなことは何も聞かなかった。


けれど、違和感は消えなかった。


蓮が「もっと先」と言ったときの声は、ただ未来を想像している人のものには聞こえなかった。


まるで。


本当にその先を知っている人みたいだった。


数日後、大学図書館で葵は一人、パソコンの前に座っていた。


インターンの応募フォームはほとんど埋まっている。


最後に残ったのは、志望理由。


空白の欄でカーソルだけが点滅していた。


しばらく考え、ゆっくり入力する。


書店でのアルバイトを通して、本を選び、誰かに届けることの楽しさを知りました。


読み返す。


続ける。


まだ将来の仕事として決めているわけではありません。


少し止まり、最後に書いた。


だからこそ、今の自分が何に心を動かされるのか、もっと知りたいと思っています。


葵は最初から読み直した。


少し直す。


また読む。


もう一度直す。


携帯電話は、ずっと鞄の中だった。


蓮には見せなかった。


見せたくないからではない。


ただ、最初の一回くらい、自分だけの言葉で出してみたかった。


これは蓮に認めてもらうための文章ではない。


出版社に受かるためだけの文章でもない。


今の自分が、今、何をしたいと思っているのか。


それを初めて、自分自身で言葉にした文章だった。


最後まで確認し、送信した。


その夜、蓮の携帯電話が震えた。


葵。


『書けた』


蓮はすぐに返す。


『応募?』


『うん』


少し考え、


『見る?』


と送った。


返事は、


『もう出した』


蓮の指が止まった。


胸の奥に、ほんの小さなものが落ちる。


――見せてくれなかった。


その感情は、確かにあった。


けれど、すぐに次のメッセージが届く。


『自分で出してみたかった』


蓮は画面を見つめた。


葵が隠したわけではない。


自分でやってみたかっただけ。


だから、


『そっか』

『お疲れ』


と送った。


葵から、


『うん』


少しして、もう一通。


『受かるといいな』


蓮はその文章を長く見た。


本当のことを言えば、受かったら未来はもっと変わる。


葵は忙しくなる。


新しい場所へ行く。


新しい人に会う。


自分の知らない葵が増えていく。


怖い。


その感情は、まだ消えていない。


けれど同時に、あれほど「やってみたい」と言った葵なら、受かってほしいとも思う。


二つとも、本当だった。


蓮は入力する。


『うん』


少し間を置いて、


『受かるといいな』


と送信した。


椅子の背に身体を預け、長く息を吐く。


怖いから、好きではないのではない。


好きだから、怖い。


そして。


怖くても、止めたくない。


今は、それでよかった。


数日後の午後、書店カフェで葵が棚へ本を戻していると、ポケットの携帯電話が一度震えた。


仕事中だったため、そのままにする。


休憩へ入り、ようやく画面を確認した。


メール。


学生インターンシップ選考について。


指が止まる。


開く。


一行ずつ読む。


途中で息を止めた。


「水野さん?」


真紀に呼ばれて顔を上げる。


「……通りました」


「書類?」


葵はゆっくり頷いた。


そして、ようやく笑う。


「面接です」


真紀の顔も明るくなり、近くにいた藤井も「おお」と声を上げた。


葵は笑った。


嬉しかった。


自分が思っていた以上に。


そしてその瞬間、最初に伝えたいと思った相手は蓮だった。


携帯電話を開き、二人の画面を出す。


文字を打とうとして、指が止まった。


真紀が気づく。


「言わないの?」


葵は笑った。


「言います」


少し間を置く。


「会って言いたいです」


翌日、大学の構内を歩いていた蓮は、前方から葵が走ってくるのを見つけた。


遠くからでも分かるほど笑っている。


蓮は足を止めた。


「何?」


葵は目の前で止まり、少し息を切らしながら、それでも笑みを消さずに言った。


「面接」


一度、息を整える。


「行けることになった」


蓮はほんの一瞬だけ固まった。


未来が、また一つ動いた。


そんな感覚は確かにあった。


けれど、それより先に。


目の前に、こんなに嬉しそうな葵がいる。


蓮もゆっくり笑った。


「……よかったじゃん」


葵はすぐには返事をしなかった。


蓮の顔を見ている。


何かを確かめるように。


「何?」


葵は首を振り、さっきより嬉しそうに笑った。


「ありがとう」


蓮が少し困る。


「俺、何もしてないけど」


葵は頷いた。


「うん」


一度だけ間を置く。


「だから、ありがとう」


蓮は何も言えなくなった。


けれど、意味は分かった。


応募文を書いていない。


添削もしていない。


応募するかどうかも決めていない。


面接対策もしていない。


蓮は何もしていない。


ただ、葵が自分で答えを見つけるまで待った。


今の葵にとって、それが大切だった。


二人は並んで歩き始めた。


葵は面接について話す。


何を聞かれるかな。


服はどうしよう。


少し緊張する。


蓮は一つずつ聞いていた。


しばらくして、葵が突然呼んだ。


「蓮」


「ん?」


「もっと先も」


蓮の足が止まった。


葵はそのまま数歩先へ進み、振り返らない。


まるで、たった今思いついたことを何気なく聞くだけのように。


「また知ってくれる?」


蓮はその場に立ち尽くした。


もっと先。


今度は葵の口から出た。


その言葉を聞いた瞬間、目の前に別の場所が重なる。


玄関。


スーツケース。


大人になった葵。


赤くなった目。


そして、途切れた声。


『蓮が好きなのは……』


記憶が揺れる。


今までそこで消えていたはずの言葉が、ほんの少しだけ続いた。


『今の私じゃない』


蓮の呼吸が止まった。


次の瞬間、すべて消えた。


目の前には若い葵の背中がある。


数歩先で、ようやく振り返った。


「蓮?」


蓮はその顔を見る。


今の葵。


自分の知らないものが増えている葵。


これから、もっと変わっていくかもしれない葵。


蓮は歩き出し、追いついた。


「うん」


葵が少し笑う。


「何が?」


蓮は隣に並んだ。


「知るよ」


少しだけ間を置く。


今度は、自分で選んだ言葉だった。


「何回でも」


葵はその横顔を見て、ゆっくり笑った。


ただ、そのときの蓮はまだ知らなかった。


本当に難しいのは、好きなものが変わった葵を受け入れることではない。


仕事が変わることでもない。


新しい友達が増えることでもない。


いつか。


彼女が変わり続けた先で見つけた答えそのものが、自分の望んだものとは違っていたとき。


そのときにも、今と同じ言葉を言えるかどうかだった。

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